2023年9月1日金曜日

第3章第5節 部落でないからわからない・・・

    第3章 差別意識の諸相
    第5節 部落でないからわからない・・・

    「私は、部落出身でないから、部落差別がなにかわかりません・・・」。

    西中国教区・分区・教会の部落差別に関する研修会で、よくこのような発言を耳にします。 その人は、自分は部落出身ではないと<自分はずし>をした上で、さらにその内容を説明しているのでしょう。 被差別にある人の被差別体験を共有することはできないと。

    <差別>とはなにか。

    自分がどのような立場に立たされているかによって、<差別>がなになのか、三様に見えてまいります。 <差別>をめぐって、人は<差別する側>・<差別される側>・<差別させる側>の三様に分かれます。 どのような立場からでも、<差別>について語ることができます。

    <差別する側>は、<差別>についてなにを語ることができるのでしょうか。 それは、文字通り、被差別者を差別する<差別>そのものについて語ることができるのではないでしょうか。 時々、「差別の現場」という表現が用いられますが、「差別の現場」とはどこなのでしょうか。 それは、被差別部落のことではありません。 被差別部落の中では、誰も、同じ被差別部落の人をつかまえて、「部落」だと差別しません。 そういう意味の差別事件は、被差別部落の中では起こりません。 差別事件が起こるのは、被差別部落の外です。 部落の外で、被差別部落の人々に対して、差別発言が行われたり、結婚差別や就職差別が行われるのです。 「差別の現場」というのは被差別部落のことではなく、私たちにとっては、西中国教区であり、それぞれの分区や教会であるのです。 「教会」は「差別の現場」であるとの認識に立てば、差別が何であるのかを知るためには、自分たちの生きている場所、そのことばやふるまいを検証しなければならないことが分かります。 

    「被差別部落の出身ではない」、だから、部落<差別>が何であるのか、被差別部落の人々よりより<差別>に精通しているのではないでしょうか。  「今日は、部落問題の研修会ですから、部落問題について自由に発言していいですよ・・・」と講師が発言しようものなら、聴講している人々によって、数限りなく差別発言が繰り広げられることになるでしょう。 場合によては、その手法「も、やはり、私たちの意識の中に部落差別はある。被差別側からの糾弾がいったん緩められると、どのような差別発言となってあらわれるのか」、その実証の場として用いるのも効果的であるのかもしれません。 しかし、多くの場合、講師の<包容力>の枠を超えた、想定外の差別発言が出てくる場合があり、正しく、的を射て、その発言が差別発言であることを指摘、納得させることができないと、そのような「自由に差別について発言していい・・・」、そんな研修会が、差別の拡大・再生産の場「差別の現場」になってしまいます。 私がいま書いている文章で取り上げた西中国教区・分区・教会に内在する差別事象がどって出てきて対応することはほとんど不可能になってしまいます。

    「私は、部落出身ではないから、部落差別がなにかわかりません・・・」という言葉の<差別>は、差別者の<差別>ではなく、被差別者の<被差別>のことです、と言い直しをあれるかもしれません。

    「部落出身者ではないから、<被差別>のことはわかりません」。 研修会でのそのような発言は、部落差別について学びをいている間にも、「私は、被差別部落の人々が感じている被差別の痛みや苦しみにかかわろうとは思いません・・・」という主張なのかもしれません。
 
     ある教会の牧師も、「部落でないから部落差別はわからない」といいます。 「在日でないから在日のことはわからない」ということかと尋ねると、「そうだ」といいます。 「アイヌでないから、アイヌ差別のことはわからない。 沖縄出身でないから沖縄のことはわからない。 障害者でないから障害者差別のことはわからない。 黒人でないから黒人差別のことはわからない。 女性でないから女性差別のことはわからない。 私は学歴があるから、学歴のない牧師の苦しみや痛みはわからない・・・」。 それでは、「自分のことは? 」とたずねると、 「自分のことは自分がいちばんよく知っていることだから、わかる」と言われます。 なにか、禅問答のような会話ですが、ある牧師の発言に、共感し同調するような牧師の声も多々あります。 当事者でないから、当事者の痛みや苦しみはわからない・・・。 にhン人が、戦後の高度経済成長の中で、失った、もっともかけがえのないものは、他者や隣人の痛みや苦しみに思いをはせるこころではなかったでしょうか。 「自分のことはわかる」と言われるが、ギリシャの遠き昔から、「自分自身を知る」ちうことは、人生の難問中の難問でした。 「自分を知る」ことは、人生の全秘密の謎を解くことと同じことを意味していました。 他者や隣人の痛みや苦しみをしることなくして、どうして、「自分を知る」ことができるのでしょうか。

    被差別の側から、「足を踏まれたものでないと、踏まれたものの痛みはわからない」という主張があります。 昨年沖縄で起こった、沖縄に戦後50年がたった今日にも、外国の軍隊として駐留しているアメリカの兵隊によって、沖縄の子供が暴行されるというできごとがありました。 沖縄県民だけでなく、沖縄県知事も立ち上がって、政府やアメリのに基地の撤去と沖縄の<軍制>からの解放を叫んでいるのですが、日本政府もアメリカ政府も誠実な対応はしていません。 沖縄県知事は、マスコミに対して、「踏まれたものでないと踏まれたものの痛みはわからない」と発言されました。 「差別者には被差別者の気持ちはわからない」・・・、その言葉に対する正しい対応は、被差別の側から、被差別の気持ちを理解して、共に同じ闘いのために立ち上がって欲しいという、ラブ・コールとして語られているのだと受け止めること・・・。

    第三者的に、「差別」「被差別」の立場を考えると、事態は混とんとしてきます。 「私は、差別する側にも、被差別の側にも身を置いていない。 私は、被差別部落の人を差別したこともないし、また被差別部落として差別されたこともない・・・」、そのような思いを持っている第三者の立場が、「差別をさせる側」にあたります。

    長い間、江戸時代の封建時代だけでなく、明治以降の近代日本社会においても、差別は民衆支配の道具として利用され、日本の民衆は、被差別の側と差別の側に分断され、互いに敵意と憎悪、差別と抑圧をもって生きていくよう仕向けられてきました。 被差別の側でも差別の側でもなく、第三の立場「差別をさせる」側に身を置き、被差別に置かれた人がどのような差別状況に置かれようと、自分には関係のない問題として、その意識から遠ざけようとする営みは、部落差別問題に無関心になり、天皇制という差別社会の強化委に加担することにつながることになるでしょう。

    教団の部落解放センター委員会に、一度、西中国教区部落差別問題特別委員会委員長の代行として、出席したことがあります。そのとき、東京教区の代表者として参加していたK牧師が、沖縄教区の代表者である平良牧師に対して、「沖縄には被差別部落がないのだから、沖縄教区は部落差別問題との取り組みをしなくていいのではないか・・・」と発言されました。

    そのとき沖縄、教区の平良議長は、「沖縄のことを思ってそのようにおっしゃられるのかもしれないが、その考え方は間違いです」とはっきり言われました。 「同じ考え方をすれば、このようになるのではないか。 本土には沖縄はない。 沖縄は沖縄の人が考えればよい。  本土にはアイヌ部落はない。アイヌの問題は北海道が考えればよい・・・。 しかし、私たちはそのようには考えない。 沖縄は、沖縄の問題であるだけでなく、極めて本土の問題でもある。 私たちは沖縄の問題をもっともっと本土の問題として、本土の人に考えてほしい。 だから、私たちも本土の問題である部落差別をになう」と言われました。 私はその言葉を聞いて深く感動しました。 「共に生きる」ということは、まさにこういうことではないかと。

    問題になっている『洗礼を受けてから』の姉妹編『洗礼を受けるまで』にこのような文章があります。 「隣人愛は、難しい理屈や知識の問題ではない。 実際に自分のすぐ近くに助けを切実に求めている隣人がいるのに、無感覚にもそれに気づかず、またなかばそれに気づいても、「面倒なこおとにはかかわり合いになりたくない」という自己防衛の打算のために、結局は見過ごしてしまう・・・、そういう自我に閉ざされた姿勢に対して、あの神の愛にに答えて、自分以外の人間に向かっても心が開かれていることがたいせつであり、その開かれた姿勢があれば、必要なときすぐ隣人の存在に気づき、手を差し伸べて実際に「隣り人になる」ことができる、というわえでしょう。 ところが、神の愛を一応は知りながら、残念なことに、それへの応えとしての隣り人への愛が呼びさまされてこないことがあります・・・」。 信仰者の理想とするところと信仰者の現実とのギャップを的確に表現している言葉ですが、このギャップは、教会と部落差別問題とのかかわりにおいて、特に明らかになります。 神の愛が、イエス・キリストの愛がなんであるのかを十分知りながら、こと部落差別に関連した文脈の中では、その愛を実践しきれないのです。

    「部落出身でないから、部落差別のことはわからない」、その言葉は、「部落出身なら、部落差別のことはわかる」という言葉を前提にしています。 

    それでは、「部落出身者なら、部落差別はわかるのか」という質問を提起してみますとその命題は、常に真実であるとは限らないということに気づかされます。 部落出身者であるから、部落差別の痛みや苦しみを十分知り尽くしている・・・、とは言えないのです。 部落を捨て、功なり名をとげ、一般の側にその身を置いている人は、現実の被差別部落や部落差別問題との取り組みを避ける傾向があります。

    詩集『部落』中にの、丸岡忠雄さんの詩「かつて」という詩が収録されています。

    ペテロは三度
    イエスを否んだ
    わたしは 幾度
    ふるさとを否んだ か

    故知らぬかげにおびえ
    <ふるさと>の重みに
    異郷に ひとり居て
    ふるさとびととの邂逅を
    わたしは 蟹のように怖れた

    自分のふるさとを隠して生きていても、偶然、ふるさとの同胞に出会うと、いっぺんに部落出身であることが明かされてしまう・・・、部落を捨てた知識人や有名人に、このような幻影がつきまとう場合があります。

    ある人は、町中で、同じ部落の人に、「よう!」と声をかけられるのが一番こわい・・・といいます。「部落出身なら部落差別がなにかわかる・・・」という見解もあるにはありますが、自分のふるさとを離れ、そこから限りなく逃亡している部落出身の人の気持ちと、自分のふるさとに堅く立って、差別と闘い、部落解放運動を展開している人、自分の顔を世間にさらして生きている人の気持ちとの間には、大きな隔たりがあるのではないでしょうか。6000部落、300万人といわれる被差別部落の人々、それぞれの部落と部落の人は、固有の歴史や文化を背負って、差別に対する抵抗の歴史を背負って生きています。 その多様さは、抽象的・観念的な部落差別問題を論ずるときに使用する諸概念では包括できないものがあります。 「部落出身であっても部落差別がなにかわからない・・・」、そういう現実も存在するのです。

    『部落の過去、現在、そして・・・』という書籍の共同執筆者である、灘本昌久という人がいます。 京都大学文学部歴史学科卒業・大阪教育大学大学院研究科修了。 そして、関西のあちらこちらの大学の講師をされているとのことです。

    その本によると、彼の両親はどちらも被差別部落出身であるということです。 彼らは生まれ育った被差別部落を出て、現在大阪の高級住宅街におすまいとのことです。 彼は自分のことを、「血統的にはサラブレッドのような<賤民の末裔>」であると言います。 正直いって、この文章を読んだとき、「なんだ、部落のおぼっちゃまのたわごとか・・・」と思って、それ以上先を読まなかったのですが、あるとき、必要があって、全文を読み直しました。 そのとき、なぜ最初読んだときに、最後まで読みすすめなかったのか後悔しました。

    そこにこのようなことが書かれていました。「いずれ部落であることがわかる・・・」と心配していた母親から、灘本昌久さんは、部落出身であることを告げられます。 しかし、彼はそのことを聞かされても、自分の「アイデンティティ」にそれほど大きな影響は受けなかったといいます。 「部落民であることを知る前と後ではアイデンティティに何の断絶もない」というのです。 彼は、「自分のセルフ・イメージに影響するような差別体験がなかったし、差別したりされたりするという関係から切れて生きてきた」と言います。 自分をそのように語る灘本昌久さんが、その文章の中でこのようなことを書いています。

    <「差別語」の拡散

    「侮辱する意志の有無」を問わずに、特定の言葉を差別語として指摘しだすと、差別であるかないかの基準が、「被差別者に痛みを与えるか与えないか」というところに安易に置かれがちとなる。 その結果、最近では、水平社時代であれば絶対に糾弾されなかったことまで問題視されるようになってきた。

    例えば、山口県S市では、同和事業の執行に必要なため、従来の市営住宅に関する条例を改正し、入居資格に、従来「寡婦、引揚者、炭鉱離職者」という制限があったところへ、「そのほかの社会的に特殊な条件下にある者」という条項を付け加えた。 これが、部落民を特殊な者として差別しているということになり、市当局は「結果的に同和地区の人々にとって痛みを感じるような表現になったことは遺憾」として陳謝し、条例を改正したという。 「特殊」という言葉に、これほどこだわるとは驚く他はない。 「特殊」の代わりに「特別」とでも書いておけばよかったのだろうか。 これを差別事件として麗々しく取り上げた『解放新聞』の記事は、「運動史上の汚点のひとつ」である。

    「頭が火をふく」という言葉があります。 この文章を読んだとき、確かに、私の頭は火を噴きました。 なぜなのか、灘本昌久さんが、「運動史上の汚点のひとつ」と断定された、山口県S市の「市営住宅差別条例事件」と取り組んだのが、この文章の中でしばしば登場してくる部落解放同盟山口県連S支部の支部長さんは、書記長さん、青年部長さんや、支部のおじさん、おばさんたちだってのです。 しかも、その糾弾会の準備には、山口県同教の教師は日本基督教団の牧師である私も参加して取り組んでいたのです。 糾弾会の当日は、西中国教区から、数名の他の牧師も参加していました。

    山口県S市「市営住宅差別条例事件」というのは、
次のような内容のものです。

    1986年12月、山口県S市の被差別部落に「同和向住宅」6戸が建設されますが、その入居条件に、「その他の社会的に特殊な条件下にある者」という表現を付加したのです。 市議会の審議過程で、共産党議員から、「同和向け住宅であるならば、なぜそのような表現をしないのか。 社会的に特殊な条件下にある者という表現んは新たな問題を起こしかねない。 同和地区関係諸団体の意見も組み入れた表現であるのかどうか」という指摘がなされましたが、S市議会は賛成多数でこの文言を含む条例を成立させます。

    しかし、その新聞報道を読んだ、被差別部落の人から、「私らを特殊な人と書いている」との訴えが部落解放同盟S支部に入ります。 それでS支部は、対市交渉を文書で要望、あわせて、「<社会的に特殊な条件下にある者>という表現は私たち部落民をさしてり差別である。」と抗議するわけです。

    数々の学歴を持つ、部落のおぼっちゃまである藤本昌久さんは、解放同盟S支部の問題提起を単なる差別語狩りであると指摘、それだけでなく、部落解放「運動史上の汚点のひとつ」とまで断定されるわけです。 灘本さんは、歴史学者で教育学者ではありませんか。 それなのに、なぜ、山口県S市で起きた差別事件について、なんら調査をしないで、単なる新聞報道だけで、部落解放「運動史上の汚点のひとつ」という、レッテルをはりつけることができたのでしょうか。 それが、大阪や京都を遠く離れた山口県の地方都市の、小さな被差別部落の人々が訴えた差別事件であったとしても、学者としての良心上、ある程度事実確認をされた上で言及されるべきではなかったでしょうか。 灘本昌久さんの解放同盟山口県連S支部の闘いに向けられた<非難>は、大阪に住む部落のおぼっちゃまから、山口に住む部落のおじさんやおばさん、被差別民衆に対する限りない<裏切り行為>です。 解放同盟S支部の人々が、灘本さんのことをどのように受け止めているかは知りません。 しかし、被差別部落出身でない私の目から見て、灘本さんの発言とふるまいは、被差別民衆の闘いを背後からなしくずしにしてしまう許されざる暴言であると思います。

    山口県S市議会で、解放同盟の糾弾行為を常に批判してやまない、あの共産党の議員が、このように発言しているのです。

    「今回の改正によって部落差別はより拡大され、固定されることにならざるを得ない点であります。 なぜなら、第7条の2の2項は、歴史的、社会的理由により生活環境が阻害されている地域に住む者及び関係者という規定は、いったいどこを指し誰を意味するのか、それはまぎれもなく部落を指し、〇〇を指し部落民を意味する以外のなにものでもないことはあきらかではありませんか。」

    「入居者は、新たにつくられる審査会なるものによって部落民でるか否かを決定するというものであります。 これは、その人の背中に行政自身の手で、「お前は部落民である」という烙印を押すことを意味します。 これが部落差別解消でしょうか。 断じて否であります。」

     「<特殊>という言葉に、これほどこだわるとは驚く他はない。 <特殊
>の代わりに<特別>とでも書いておけばよかったのだろうか・・・」という灘本さんの発言は、解放同盟S支部の運動に比較的近い立場にその身を置きながら、しかし、あの共産党さへ「差別」であると認識し、山口県の被差別部落とそれを取り巻く差別事象を踏まえて差別を助長する行為であると指摘する差別事件を、単なる差別語狩りであると断定される、それどころか、S支部の人々の運動に、なにのためらいもなく、部落解放「運動上の汚点のひとつ」という烙印を投げつけるものです。

    灘本さんは、「<特殊>の代わりに<特別>とでも書いておけばよかったのだろうか」と言われるが、なぜ山口の被差別部落の差別実態が問題になっているときに、それを差別語の使用・不使用の問題にすり替えようとするのか。

    「部落出身者なら、部落差別がわかる」、「部落出身者なら、差別された者の痛みがわかる」・・・、このことは決して自明の理ではありません。 灘本さんの軽率な発言を通して、私は、そのことについて考えさせられました。 灘本さんが読んだという『解放新聞』の記事には、『S町史』・『S市史』にも差別表記があることが報道されていました。 歴史学者で教育学者である灘本さんは、やはりこの件について確認作業をする必要があったのではなでしょうか。 『S町史』・『S市史』には、このような表現がありました。 

    「毛利藩が産物役所をつくって国中の産物を安く買あげ、大阪で売り払って収益をあげ、また宝くじをゆるし、献金が多ければ特殊民に対しても格式を許し特権を与え、その上藩が買いあげた米を有利に売ろうとして米価を吊り上げる政策をとったことから下層民が犯行したもので・・・」

    歴史学者で教育学者である灘本さんには、この文章がなぜ差別文章であるのか、説明する必要もないでしょう。 しかし、部落のおぼっちゃまである灘本昌久さんは、それでも解放同盟S支部の闘いを、単なる差別語狩りで、部落解放「運動上の汚点のひとつ」と断定されるのでしょうか。

    共産党議員のS市議会での発言を紹介しましょう。

    「(教育長に対して)今回、解放同盟から指摘されてはじめて気がついたのだとしすれば、不注意であったではすまされない」。

    前掲の、山口県の被差別部落出身の詩人・松木淳の詩歌集『荊の座』の中にこのような歌があります。

    去り行ける違星を惜しむ
    生けるうち
    知りなばわれもたよりせんものを

    アイヌの解放運動家・違星北斗の死を新聞報道で知って、松木淳が歌ったうたのひとつです。 彼は、違星北斗の死を伝える、わずかな新聞報道の記事から、さらにこのような歌を歌います。

    彼が持ちしアイヌの悩みと
    わがもてる
    悩みと深く通うものあり

    去り逝ける
    違星北斗よ君が胸の
    深き悩みのわれにはわかる

    同族を想ひ
て夜を泣き明せし
    違星よ
    われも泣き明かすもの

    松木淳の、アイヌの同胞のために闘った違星北斗に対する深い共感は、松木淳の被差別部落の民衆に対する共感に裏打ちされています。 被差別民衆の解放運動は、それが部落解放運動であっても、アイヌ民族解放運動であっても、同じ闘いの精神で貫かれているのではないでしょうか。

    『違星北斗 遺稿 コタン』という本の中に、中里凸夫というひとの「偽らぬ心」という文章があります。

    「私達はアイヌとして幼いときから、どんなに多くの人達から侮辱されて来たことです。 私達は弱い方でした。 それがため堪えられぬ侮辱も余儀なく受けねばなりませんでした。 その時私達はもっと強かったら、誰が黙々として彼らの侮辱の中に甘んじてゐたことでそう? 憎い彼等を本当に心行くまでいじめつけてやったのに・・・。 私達はかうした自分の出来事を追憶して、思はずこぶしを握ったことが何回あったこでせう。」

    しかし、彼は、アイヌを差別する社会と人々を憎む、そのことで自分の心が荒んで寂しくなっていき、「堪へられぬ悔やみ、熱い涙となってとめどなくあふれ出るのです」といいます。 そしてこのように語るのです。

    「弱き者なるが故に受くべき苦しみ、異端者なるが故に受くる悲しみを、私はアイヌなるが故にしみじみと味ひ得るのです。 異端者ならでだれがこの悩みを深刻に味ひ得るものがありませうぞ。 私は寂しき者への心持を味ひ得て、そして、そうした不遇の人達をこころからなぐさめる事の出来るのを、私は幸福に思ふのです」。

    大阪の部落出身のおぼっちゃまが、山口の地方の被差別部落のおじさんやおばさんの闘い、その喜びや悲しみを理解できなくなったとき部落解放運動は、やがて窒息してしまうのではないでしょうか。

    私たちの、日本基督教団の部落解放運動についても同じことが言えます。 教団内の部落解放運動が中央指向となり、既存の組織の維持のため献金集めに汲々して、日本全国の教区で、ほそぼそとでもあって続けられている部落解放への努力といとなみ、それが挫折と失敗に深く彩られたものであったとしても、それらを視野から欠落させてしまうとき、やがて、教団の部落解放運動も行き詰まるのではないでしょうか。  『部落解放一万二〇〇〇キロの旅・走れキャラバン』は、今日の教団・教区・教会の部落解放運動の現状を描きだしてあまりあります。 しかし、あのキャラバンで出会うことがなかった、数多くの被差別部落とそれと取り組む多くの人が存在していることも忘れてはならないのではないでしょうか?

    私たちは、「部落出身でないから、部落差別はわからない」という言葉ににげないで、また、「部落出身であるから、部札がわかる」という幻想によりかからないで、被差別民衆と、共通の人間解放への闘いへと、主イエス・キリストが十字架の道を歩まれたその道を共に歩んでいきたいとと思います。




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目次

 『部落差別から自分を問う』の目次 はじめに 第1章 部落差別を語る  1. 部落差別とはなにか  2. 部落<差別>とはなにか  3. 部落差別はなくなったか  4. 部落の呼称  5. 認識不足からくる差別文書  6. 部落の人々にとってのふるさと 第2章 差別意識を克服する...