2023年8月31日木曜日

第3章第3節 部落には嫁にやれぬ・・・

    第3章 差別意識の諸相
    第2節 部落には嫁にやれぬ・・・

    部落差別はなくなったか。 すでに、部落差別は解消されたと叫ぶ声もあるが、本当に差別はなくなったと言えるのか。 部落解放同盟S支部の青年部長さんは、資料を前にこのように話されます。

    被差別部落出身の詩人・丸岡忠雄さんのふるさと、山口県H市の『光市保護者意識調査』(1986年)では、部落差別があると考えている人は、市民の80%にのぼります。 そして自分のこどもが被差別部落の人と結婚したいといいだしたとき、親としてどうふるまうかの問いに、積極的に認めるは1.1%に過ぎません。 その場に直面してみなければわからないとの、あいまいさを残した回答を含めると99%の人が、自分のこどもが被差別部落の人と結婚するのに反対しているという結果が出ています。 『洗礼を受けてから』の著者が住んでいたI市の調査では、自分のこどもの結婚に際して相手の身元調査をすると回答した人は68.8%に上ります。

    部落解放同盟S支部の青年部長さんは、部落差別は、この数字よりもっと厳しい状況にあると言います。 行政が実施する、部落差別意識調査は、「恋愛結婚」を対象に設問されていており、その中には、「見合結婚」が含まれていないのだそうです。 日本の婚姻制度の中では、いまでも、「見合結婚」は大きなウエイトを持っています。 出身・家柄、学歴・地位・・・、それらの外的条件で、一人の人間の生涯が左右されるということが、今日の日本社会の中で厳然と存在するのです。 部落差別がなくなったかどうか、それは、「恋愛結婚」ではなく、「見合結婚」の調査を実施してみればすぐに分かる。 「見合結婚」は、身元調査を前提にした婚姻制度であり、この「見合結婚」では、部落出身であるかないかが重要な意味を持っていると言います。 「見合結婚」に際しての「釣書」には、「被差別部落出身」ということばは一言も出てこないといいます。 本当に社会から部落差別がなくなったというらなら、「釣書」に「被差別部落出身」と書かれていたとしても、それでその人を差別「しないで、「おう、被差別部落出身か。 それなら、うちの嫁にしよう」という、一般の側からの親が出てきてもいいではないか。 しかし、差別が歴然とする日本の社会の中では、「そのような光景を想像することすら難しい・・・」、そのように指摘されます。

    日本国憲法第24条は、「婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により維持されなければならない」と規定されています。

    しかし、明治維新以降、天皇制国家を形成する過程で、婚姻制度は、天皇制確立のために重要な機能を担わされます。 天皇制は、「家」に集約され、一家の長は「戸長」として、その家の中で絶大な権力を持ちます。 この「戸長」の了承なくして、誰も結婚できなくなります。  自分の意思で結婚できるようになるためには、婚期が著しく遅れることを覚悟しなければなりませんでした。

    そのような枠組みの中で、「嫁にやる」「嫁にやらない」という発想が強化されました。 自分のむすめは、家を継承・発展させるための道具・手段として、場合によっては、多くの青年がそのための犠牲になってしまいました。 天皇制という枠の中での家制度、婚姻制度は、私たちの意識の中にも深く影を落としています。 私たちが無自覚に考える結婚観の中には、その時代の残滓が残っている場合も多いのです。 なにをもって「結婚」とするか、そのために採用されたのが、「法律婚制度」でした。 行政の窓口に届けることによって、日本の社会の中で、その婚姻が有効になる制度です。

    しかし、江戸時代から、またそれ以前から延々と民衆が続けてきた結婚制度、「事実足る結婚」、二人が一緒に生活をはじめることで結婚が成立するという制度(あるいは風習)は、近代結婚制度の中では否定されることになります。  そこで、民衆の「事実たる結婚」と天皇制国家が強制する「法律婚」制度が、ある場合に抵触するようになります。  抵触の結果生じるさまざまな問題を解決するために、国家は、「事実たる結婚」を一部容認せざるをえず、「準婚」という法概念を作り出しました。

    戦争に敗れて、民法が改正、「新民法」が成立しました。 そして、民主化を実現するために、家制度や結婚制度が見直され、民衆は、そのような封建的な枠組み、戦前の天皇制の枠組みから解放されて、一人一人の人間としての権利保障の観点憲法から、第24条の条文が現実化したのです。 婚姻は、両性の合意に基づいてのみ成立する。 しかし、新民法が施行されたあとも、旧民法が民衆に要求した天皇制的婚姻制度は今も民衆の中に息づいているのではないでしょうか。 新民法の時代に入っても、克服されなかった旧制度が、いまも部落差別の温床になっていると言えます。

    結婚についても、私たちが、社会構造的な枠の中で婚姻制度をとらえないかぎり、天皇制を批判しつつ、人生の重要な部分については考察を欠落させてしまう可能性があります。 反天皇制をどんなに声高にさけんでも、自分の具体的な生き方の中で、天皇制の枠組みの中で強制された婚姻制度を無自覚に受け入れ、天皇制の迎合して生きていく、生き方を貫徹することになります。 

    部落差別をめぐる結婚差別事件は、数多く発生しています。 それらは時々、新聞や雑誌などで報道されますし、ある場合には、その差別事件とその取り組みについて単行本として出版されたりしていますから、部落差別における結婚差別がなになのか、誰でもその実態を知ることができます。 しかし、多くの結婚差別事件は、事件として処理されることなく、被差別部落の側の泣き寝入りで、解決されることなく闇から闇へほうむりさられていきます。

    西中国教区の牧師も、結婚に直面して、部落差別問題に直面することもあるでしょうし、また、信徒の結婚問題において、具体的に部落差別に直面することになるでしょう。 しかし、牧師という立場においては、<牧会>という職務上、もっと、部落差別について基本的な姿勢が要求されるように思います。

    あるとき、部落解放同盟S支部の書記長さんから、ある結婚差別事件の記録を見せていただきました。 〇〇町で結婚差別事件が起こり、解放同盟が調査に入ったのですが、それは結局当事者の意向で事件にはなりませんでした。 しかし、〇〇町での結婚差別事件は、結婚差別事件がいかに残酷な差別であるのかを物語っていました。 それと同時に、キリスト教会がそのような問題に、どのようにかかわらなければならないのか・・・、いろいろな問題提起を内包している事件でした。プライバシーを侵害しない程度に、事件の内容を再構成してみます。

    〇〇町には、昔から被差別部落がありました。  そこに、AさんとBさんが住んでいました。AさんとBさんとは、同じ町内に住むおさななじみで、子供のころよく一緒に遊んだといいます。 Aさんは山口大学教育学部に入学、Bさんは、山口の地を離れ、大阪の大学に進学しました。

    AさんとBさんは、それぞれ大学生活の場所が違っても、交際を続けていましたが、Aさんはあるとき、父親から、「気づいているだろうが、家は部落だ・・・。 ほかに問題はないが、結婚については、部落ということが問題になるから、Bさんとは友達つきあいで終わっておいた方がよい。 結婚となると、悲劇が起こる・・・」と告げられます。

    Aさんは、大学の冬休みにBさんとあったとき、自分が部落出身であることを告げます。  Bさんは、「そういうことは関係ない」とふたりとも結婚を前提に交際を続けていくことを約束します。 そして、卒業後は、ふたりで京都で人生の新しい出発をしようと約束します。 卒業を前にして、AさんとBさんは、それぞれの両親にそのことを告げるのですが、いろいろ問題があって、Aさんひとり京都に旅立つことになります。 しかし、学校の教師をしながらも、Bさんとのやりとりに、次第に不安になってきたAさんは、鬱状態に陥り、勤務をやすみがちになります。 ふたりで新しい人生の出発をと考えていたのが、一人での、屈従と悲しみに満ちた出発に変わってしまったショックがAさんの上に重くのしかかっていたのでしょう。 しかし、Bさんの方は、父親の差別的な対応に疲れ果て、「愛情」も「同情」見失ってしまいます。 Aさんは、「やっぱり、あなたは部落のものと結婚する勇気はないんだ」「おとうさんと同じようにひどい人だ」・・・、Bさんに話したそうです。 その語、Bさんの家に連絡しても、Bさんは不在であるという言葉が返ってきたといいます。あるときAさんは、部落の古老にさそわれて、その人が通っている「キリスト教の集会」に参加したと言います。 差別に傷つき、疲れ果てたこころを癒したかったのでしょう。 しかし、Aさんは、教会関係者から、「Bさんは不在ではなく、家にいる」と聞かされます。 「Bさんとあって話をしたい・・・」とAさんは何度もBさんの家に連絡するのですが、今は不在であるととりついでもらえないのです。 小学校・中学校のPTAの会長を長年してきたBさんの父親のさまざまな圧力で、両家の利害関係を含みながら、二人の間は決定的なものになっていきます。 Aさんは、「このままでは、自分が生きていく力がでない。 忘れるようにと言われるが、納得できない・・・」、そんな思いをもちながら、Bさんとの新しい人生の出発を断念せざるを得ませんでした。

    部落解放運動のない〇〇町で起こったひとつの結婚差別事件でした。 この詳細な経過記録を読みながら、部落解放同盟S支部の書記長さんは、Aさんが訪ねたという<キリスト教の集会>はどこの教会だろうか・・・、と言われました。 部落差別の現実に悩み苦しみ、傷つき倒れんばかりのAさんに、教会はどのような対応をされたのでしょう。 日頃、部落差別と無縁に生きている教会は、その痛みの一端すら、感じることはできなかったのではないでしょうか。 教会は、Aさんの側の情報ではなく、Bさんの側の情報を知り、Aさんに無自覚に対応されたのです。 日本基督教団西中国教区の諸教会の礼拝や集会に、やはり、被差別部落の人々が悩みや苦しみをもって、神の前に立っている・・・、そのことを私たちはきちんと認識しなければならないのではないでしょうか。

    山口の〇〇町で起きたこの結婚差別事件を通して思わされたのは、部落差別が、愛し合っている青年を、生身を引き裂くように引き裂いていく、いかに残酷なものであるかということでした。 部落の側からも、一般の側からも、被差別部落の青年の結婚は問題視され、青年の心に深い傷を残していくことになります。AさんもBさんも、深い傷をいやされることなく、こころに差別という痛みを感じながら、その生涯を過ごすことになるのです。

    私たちは、「嫁にやる」「嫁にやらない」という発想そのものが、封建的な発想であることを知っています。 結婚に際しては、当事者の結婚への意志と会い、誠実さがおもきをなします。 しかし、被差別部落の青年にとっては、そのことが許されず、差別社会から重い十字架を背負わされることになります。 戦後民主化されたと言われて久しい現代日本の社会の中にいまだに存在する、この<差別>意識を、私たちはどのように克服していけばいいのでしょうか。 「その場になってみないとわからない・・・」という発想は、「その場になると、差別する」可能性が高い、ということを意味しているだけで、根本的な解決ではありません。 ただ問題を先送りにするだけです。

    今の私に言えることは、部落差別をめぐる<社会的>差別意識としての結婚差別を克服していく最善の方法は次のようなものです。 部落差別だけではありません。 どのような差別が絡む場合でも、結婚差別を克服する方法は、次のような場合にのみ、正当性を見出すように思います。

    5~6年前、『遠い夜明け』という映画がありました。 ドナルド・ウッズが書いた2冊のドキュメントを再構成して作成された映画です。

    その主人公は、アパルトヘイト反対をさけぶ黒人解放運動家・ピコです。 被差別に置かれた黒人の解放を叫ぶ彼らに、「白人差別主義者」のレッテルが貼られます。 マスコミの悪質な捏造記事に怒りを抱いた新聞記者によって、黒人差別の実態が明らかにされていきます。

    記者はまず病院で、このような言葉を耳にします。 「我々黒人の最大の問題は、白人の差別よりも自分たちの劣等感だ。 黒人も、白人と同じ医師や指導者になる能力を持っている」。

    また、黒人の解放運動家を裁く法廷で、記者はこのような言葉を聞きます。 「忘れないでくれ。 我々は白人の来る前に文化を持っていた。小さな村が方々にいくつもあった。 我々の言葉をご存じなら、<甥>はこのように言う。 <兄弟の息子>と。 テンジ―は、私の妻を<伯母>と呼ばず、<母の姉妹>と呼ぶ。 家族を呼ぶのに特別な言葉はなく、すべて最初は兄弟か姉妹ではじまる。 たすけあう心だ」。

    黒人解放運動が高まっていく中、フットボール場で行われた野外集会(不法集会)では、このように演説がなされるのです。 「我々の怒りは当然だが、忘れてはならない。 我々のさいだいの敵は、ある種の人間が別の人間より優れているという考え方だ。 その考えを殺すことは白人だけの仕事ではない。 白人に頼る習慣を捨てて黒人であることの誇りに目覚めよう。 子供に黒人の歴史を教え、我々の黒人の持つ伝統と文化を教えれば、白人の前での劣等感から解放される。 そして対等の立場で彼らと向かい合う。 闘いをとるなら、手を広げて言おう。我々の住む価値のある南アを建設すると。 白人にも黒人にも、平等の国を。 美しい国土とそこに住む我々のように、美しい南アフリカを」。

    ピコたちは、再びとらえられて法廷に立たされたときも、演説を続けます。 「黒人は苦しい暮らしに耐えています。 政府のでかたも酷い。 苦しみを甘受することはありません。  対決するのです。 人生の苦難に屈服することなく、こんな状況の中でも持つべきです。 明日への希望、自分たちの祖国への希望です。 それが黒人解放運動の訴えているものです。 白人は無関係なのです。 黒人が目覚めて自らの人間性を確立し、地球上に正当な地位を得るのです」。

    しかし、ピコは、不法な裁判でこの世から抹殺されてしまいます。 自分たちの指導者を処刑(リンチ)した白人たちに対する怒りにあふれながらも、ピコの葬儀の中で、このような説教がなされます。 「私は、現体制を憎む。 だが、ピコの詩をいたむ白人の方々は歓迎します。 ピコはこの国の将来を信じ、それを我々に教えられました。 その夢は必ず実現します。 あらゆる者が人間として認められ、神の子として平等とされるとき、その日を待ち、反感を育てる人種の壁が取り除かれ、そこに友情と愛が生まれるときを待ちましょう」。 南アの政府の抑圧と弾圧にもかかわらず、その闘いの名kで、このような差別を乗り越えた希望と展望とが語られる。

    私は、その映画を見ながら、人間解放運動のすばらしさにこころ打たれる思いがしました。 『遠い夜明け』という映画は、人間が人間であることを宣言する、黒人解放運動によって生み出された言葉の結晶の集合体のように思うのです。 どの部分にも、被差別を跳ね返して生きていこうとする人々の誇りと闘いの声に満ちています。

    ピコの惨殺の写真を国外に持ち出すことを決めた二人の新聞記者によって、次のような会話がなされます。

    「ぼくには子供が2人・・。 将来が心配だ。 君ならどうするね。」
    「ぼくも、こどもが。 だが、白人が黒人を支配する時代は終わった。 時代は変わる。」
    「友好に、それとも流血か。」
    「子供たちのために友好を祈る。」
    「ピコみたいな連中と。」
    「それなら最高だ。」

    この会話は、2人の白人の新聞記者によってかわされたものです。 最初、「おや」と思いました。 黒人差別反対を訴えてきたこの2人の新聞記者は、それが自分のことがらとつながるとき、彼らの子供が、例えば黒人と結婚するというようなときに、どうするのか・・・。 この場面で、白人と黒人の結婚の問題が直接論議されているわけでありませんが、遠い将来その可能性がないわけではないことは、言葉の節々にうかがうことができます。 2人の白人の新聞記者が、ふとわれにかえって、自分たちの子供のことを思いながら、自分たちの子供と黒人解放運動のことを考えているのです。 相棒の新聞記者が切り出します。「ピコみたいな連中と」。 すると、もうひとりの新聞記者がこう答えます。 「それなら最高だ」。

    <ピコなら、最高だ・・・>。

    私は、差別をめぐる結婚差別を乗り越える、最善の解決方法はこの言葉にあるのではないかと思います。 黒人として生まれること、それは、黒人が自分でのぞんで生まれてきたことではありません。 ある程度成長することで、はじめて自分が黒人であることに気づかされます。 そして、黒人としての被差別意識を、支配者である白人よりもより劣等な位置にあることを、その教育や生活を通じて意識の底に植え付けられていきます。 ピコをはじめ、黒人解放運動を展開した人たちは、その黒人差別という現実に甘んじるのではなく、その現実を、神の前で確認し、その現実からの打開こそ、神の良しとするところであると、解放運動に邁進して行きます。 人間としての誇りと闘い、「ピコなら最高さ!」という言葉は、差別に負けて、限りなく逃亡を繰り返すみじめな黒人の姿ではなく、同じ差別の状況にありながら、差別と闘い、希望と展望をもって、黒人の人間としての明日をつかもうとする姿に対してささやかれた言葉であると思います。

    部落差別という現実を前にした、<社会的>差別意識の克服も、このような展望の中で解決されるべきものではないでしょうか。

    自分の子供が、ただ、差別に負けて逃亡するしかすべのない、人生とこの世に背を向け恨みにみちた生活しかできない青年と一緒になるというと、部落出身でなくても、そのような青年との結婚にたいしては、親としては、おおきな不安とためらいを持つでしょう。 しかし、自分の置かれた状況、それがどのような状況であったとしても、それを否定することなく、受け入れ、神から与えられた課題として、自分のしあわせだけでなく、被差別民衆のために、部落差別だけでなく、黒人差別、朝鮮人差別、アイヌ差別・・・、いろいろな差別を克服して生きて行こうとする青年に対しては、誰が共感をもたずにおれるでしょうか。

    「嫁にやる」か「やらないか」ではなく、被差別者と差別者が共に見上げることができる、共通の闘い、人間としての誇りと自覚に生きるその姿勢をどのように共有していくかが大切なのではないでしょうか。 どのような差別であっても、その差別から逃亡しないで、共に闘うひとであってほしい・・・、それは、キリスト者の親が、その子供に対して持っているひとつの願いではないでしょうか。 

    イエス・キリストは、福音書の中でこのようにお話しになりました。 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。 あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和でこころのへりくだったものであるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

    イエス・キリストは、「あなたがたの重荷をわたしのまえにおろしなさい・・・」と言われます。 イエス・キリストが言われた本当の意味は、抱えている重荷を捨てるだけでなく、イエス・キリストの愛の故に、一端捨てた重荷を信仰と希望を持って、負い直すことの大切さではないでしょうか。 「わたしもあなたの重荷を負い続けよう。だから、あなたもあなたの重荷を負い続けなさい・・・」、イエス・キリストの言葉には、そのような響きがあると思うのです。 逃亡ではなく闘い、あきらめではなく前進、絶望ではなく希望、そのような文脈の中でしか、私たちは、いろいろな差別を前にして、結婚差別という<社会的>差別意識と克服していく道はないと思うのです。 <寝た子>ではなく<起きて闘う子>にしか、本当の明日はないと思うのです。

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目次

 『部落差別から自分を問う』の目次 はじめに 第1章 部落差別を語る  1. 部落差別とはなにか  2. 部落<差別>とはなにか  3. 部落差別はなくなったか  4. 部落の呼称  5. 認識不足からくる差別文書  6. 部落の人々にとってのふるさと 第2章 差別意識を克服する...