2023年8月31日木曜日

第3章第2節 寝た子を起こすな・・・

    第3章 差別意識の諸相
    第2節 寝た子を起こすな・・・

    西中国教区・部落解放セミナーで、また分区や教会の部落差別問題研修会で、この「寝た子を起こすな」という主張は、数限りなく語られてきました。

    この言葉は、教区・分区・教会が、また牧師や信徒が、部落差別問題を避けて通るときの最適な口実として、繰り返し主張されてきまたした。 ある教会の牧師に、部落差別問題の取り組みを促すと、「教会の役員の中には、<寝た子を起こすな>という考えの持ち主が多くて・・・」、教会が部落差別問題と取り組むことは難しいという主張が返ってきます。 それなら、教会の役員の方に、教会で部落差別問題をとりあげるようにすすめますと、「牧師が<寝た子を起こすな>といいますので・・・」と教会内で責任を転嫁されていきます

    <寝た子を起こすな>という<社会的>差別意識は、教区・分区・教会のなかに、そして、牧師や信徒の中に、潜在化したかたちで、この言葉の問題性を検証する必要もないほど自明の理として受けとめられているのではないでしょうか。

    <寝た子を起こすな>という言葉は、そのうしろに、言葉化されない言葉が続いています。 「寝た子を起こすな。部落問題はほおっておけば自然になくなる・・・」、「そのうちに自然になくなるから、<部落の人は>それまでは我慢しなさい・・・」、<寝た子を起こすな>という言葉は、民衆が、差別者の側に立っているという事実を看過させ、そして被差別民衆に対しては、<ことさらこだわらなくても、いつか差別はなくなる>という、「差別の苦しみにあえいでいる被差別者の立場や気持ちを無視した考え(小森哲郎著『部落問題提要』)に裏打ちされています。

    同和対策審議会答申の中でも、「<寝た子を起こすな>式の考えで、同和問題はこのまま放置しておけば社会進化にともない、いつとはなく解消する>という論理には同意できないとの主張がなされています。

    ある行政が作成した同和教育向けのパンフレットには、差別の側から語られる「寝た子を起こすな」という差別意識だけでなく、被差別の側から語られる「寝た子を起こすな」という意識について、このような説明がなされています。

    「同和地区住民の中にはいまだに厳しい差別の現実があり、同和地区出身であることが明らかにされることによって、自由や権利が侵害されるおそれがあるので、<寝た子を起こさないでほしい>という考えがあります」と。 しかし、そのパンフレットは、被差別の側からそのような見解があることを受けとめつつ、「こうした、寝た子を起こすな、知らない子に知らすなという考え方は、部落差別の解消につながらないばかりか、人権意識を眠らせ、かえって差別を助長拡大するような結果を招いている」と指摘、<寝た子を起こすな>という考え方が、同和問題の解決につながらないこと力説しています。 このパンフレットには、このような主張が続きます。 

    「また現実には「寝た子を起こすな」という考え方によって、親が娘に同和地区住民であることを隠し、娘は結婚後もそのことを知らないまま厳しい差別を受け、ひどい手口によって離婚を強いられたという、取り返しのつかない不幸なことおが起きてします。そしてその娘は「良心も学校もそれを教えてくれなかった」と言い、その親は「はじめから部落のことを考えておけばよかった・・・娘にはすまないことをした」と後悔しています。」

    1993年夏の西中国教区の第1回現場研修会で、広島の被差別部落出身の青年は、<寝た子を起こすな>という考えが間違っていることを指摘されたあと、「私たちは、別に自分たちが部落だからといって、そこから逃げるつもりはないし、隠すつもりもない。 今3歳になる子と6カ月になる子もいるが、その子が成長したら、部落の子であること、そして部落民がほこりをもって生き抜いてきたことを教えたい。 自分たちの歴史を隠すのではなく、部落民としての歴史を誇りを持って生きていく姿を子供たちにみせたい」と話されました。

    前述したパンフレットは、1977年に東京都教育委員会が発行した『同和教育をすすめるために』という名前のパンフレットです。 いまから20数年前の文章です。 しかし、具体的に取り上げられた部落差別の事例は、西中国の諸教会が立たされた、広島・山口・島根においても確認されるのです。

    広島で女子高生結婚差別事件が起こったことは、私たちの記憶に新しいことです。 中学校時代の教師から、結婚差別を受けて、女子高校生が17歳の命を奪われた「広島結婚差別自殺事件」のことです。

    女子高校生〇〇さんのおとうさんは、山口の人で、被差別部落出身ではありません。 おかあさんは、広島の被差別部落出身で、結婚したあとは、地区外に住んでいました。 そして、自分のむすめには、母親が部落出身であることを隠していました。 〇〇さんは、部落出身であるという自覚はまったくもっていなかったといいます。 しかし、〇〇さんを好きになって、結婚の相手と選んだ、〇〇さんが中学校時代の教師は、〇〇さんにとっては楽しいデートを身元調査のために利用し、〇〇さんのおかあさんが部落出身であることを知ると自分たちの関係を清算する挙に出たのです。 そのことで深く傷ついた〇〇さんは、自分が降らく出身者であることを知らされることなく、差別の現実に押しつぶされて自害していった・・・、という事件です。

    部落解放同盟の中央本部が「広島結婚差別事件」の全国キャラバンを行なったさい、私も誘われて、部落解放同盟S支部の集会に参加したことがあります。 そのとき、「部落差別は、<血>の問題であると受けとめられている。 父親は部落出身ではないが、母親が部落出身であるということで、中学校教師は、〇〇さんの中にも部落の血が流れているということで、結婚を断念しようとした・・・」との説明がありました。 

    そのときの話し合いの中で、「母親が、娘に部落出身であることを隠していたことは、くやしい。 最初から知っていれば、差別あされても跳ね返すことができたのに。 彼女は、自分がなぜ差別され、抑圧うされているのか、愛する人からさえそのような仕打ちを受けなければならないのか、自覚しないまま、差別に負けて死んでしまった、そのことを考えるとほんとうに悔しい、差別が憎い」という声がありました。

    部落差別は、部落の人が、<寝た子を起こすな>という考えで、そっと生きていきたいと願っていても、差別の方が追いかけてきて、それをあばき、差別し、疎外し、悲惨な結果へと追いやってしまうのです。

    「広島結婚差別事件」の糾弾会において、〇〇さんを死に追いやった中学校教師の考え方、またその背後にいる多くの学校教師の中に、「寝た子を起こすな」という考えがいまだに根強く存在していること、そのことが今回の事件の遠因になっていることが明らかにあsれたと、新聞は報道していました。

    山口県で、社会同和教育に熱心に取り組んでこられた山口県立古文書館の北川健先生は、「<同和>への反言、どうキリカエスか」という文章の中で、「寝た子は起きる」答えたらとよいとすすめています。 <寝た子を起こすな>という主張を黙って見過ごすと、その<社会的>差別意識はますます強化委・助長されます。 それに対して「寝た子は起きる」というアンチテーゼを持ち出して一考を迫るということは、あながた意味がないことではありません。 

    1992年に行われた教団部落解放全国キャラバンにおいても、キャラバン隊の行く先々で、「寝た子を起こすな」という発言が繰り返されました。 キャラバン隊にあって中心的な役割を果たしたT牧師は、日本基督教団が組織的に部落差別問題を取り組みをはじめた1975年以降と、それ以前と大きな違いがあることを認めながらも、<寝た子を起こすな>が支配的な諸教会の状況をあらためて認識せざるをえなかったと言われます。「<寝た子を起こすな>の否定は取り組みの前提であるが、それがまだ諸教会には届いていない」、その現実打開のために、かなりまとまった論述を展開されています。 一度、自分で読まれてみるとよいでしょう。

    T牧師は、教区の諸教会での発言を分析しつぎのような結論を出しています。

    (1) 「寝た子」と言うが、被差別部落の人もそうでない人も、<寝ている>かに見えて実は<寝ていない>。
    (2) 「寝た子を起こすな」との考え方は、部落差別を存在させる社会的根拠を無視している。
    (3) 部落出身を隠すことにより部落差別を温存している。
    (4) 上記の3ついのことから了解されるように、「寝た子を起こすな」は部落差別を無くそうとする取り組みに水を差し、妨害すうrものとなっている」。

    これらの点から<寝た子を起こすな>は間違っており有害である。
    そして、T牧師は、 <寝た子を起こすな>と主張する被差別の側に向けてもこのように語りかけます。 「部落差別が存在するとは、被差別部落が社会的にマイナス視されていることである。 このマイナス視のひどさ、厳しさの中で、自分が被差別部落出身であるのを直視するのはつらく、その現実からできる限り逃れ、寝ていなくても寝ているふりをせずにはおられない。・・・しかし、<痛み>になるからと言って、<寝た子を起こすな>とするのでは問題を隠すだけで、本質的には<痛み>の原因は解消されず、かえって<痛み>が温存される」と指摘されています。 「自身被差別出身を述べて部落差別に正面から向き合っている被差別部落の人も多い・・・」。 T牧師は、被差別の側にある牧師や信徒が、部落解放運動に達があるようお呼びかけています。

    『続・日本のことわざ』(金子武雄著)の中で、「寝ている子をおこす」ということわざにつちえ、このような解釈がなされています。

    「幼児にとっても、
寝た間は仏
であり、黙っていれば、なんの欲望もなくなんの不満もない。その上、
    寝る子は育つ
と言う。 だから寝ているに越したことはない。 しかも起きている子をあやすのは、なかなか容易ではないのである。だから、
    寝る子は賢い親の助け
    寝れば子も楽守も楽
などという。 親にとっても、子が寝ていてくれるほど助かることはない。 ところが、せっかく寝ている子を起こすとしたらどうだろう。 子にとっても守りにとっても迷惑なことだろう。
    同じように、せっかくおさまっている事をつついて、面倒なことをすることを、「寝ている子を起こす」と言うのである。
    「寝ている子」を、過ってうっかり起こしてしまうということもあるであろう。 しかし、またわざと起こすということもある。 けれども、そのために、その事関係にのある当人も、あるいははたのものも、迷惑を蒙ることになるのである。 だから、「寝た子を起こすな」は、当然、そういう人を非難することばとして用いられる。
    もちろん、これは事なかれと願う心に立脚している。「寝た子を起こすな」ことが本当に無益であり、あるいは有害であるならばそっとしておくのがよいに決まっている。 けれどもたとい一時は「子」がその平安を破られようとも、その犠牲を償って余りあるほどの大きな幸福がえられるような場合だってある。 そんな場合には、はたの者の迷惑などには遠慮せず、起こしてやるのが親切というものである。 これを非難すrのは、自分の利益のためでしかないのである。 起こしてやってよい「寝ている子」が世界にも日本にもいくらでもいるようだ。>

    この文章は、部落差別に関する文章ではありません。 しかし、部落差別問題の文脈で語られる<寝た子を起こすな>という言葉を、本来に意味に立ち返って考えてみるときに、よき参考になります。  この文章を書いた金子さんは、最後で、<寝た子 を起こすな>という言葉は、「自分の利益のため」になされる主張であると語っています。 差別する側が<寝た子を起こすな>と主張するとき、どのような利益を念頭においているのでしょうか。 また、被差別の側が、<寝た子を起こすな>と主張するとき、どのような利益を守ろうとしているのでしょうか。 教団の部落解放センターの課題として、教団・教区・分区・教会の中の、<寝た子を起こす>営みを今後も更に展開していってほしいと思います。 また、西中国教区の部落差別問題特別委員会の課題としても、教区・分区・教会の中から、この「寝た子を起こすな」という<社会的>差別意識を取り除く努力をしていただきたいと思います。

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目次

 『部落差別から自分を問う』の目次 はじめに 第1章 部落差別を語る  1. 部落差別とはなにか  2. 部落<差別>とはなにか  3. 部落差別はなくなったか  4. 部落の呼称  5. 認識不足からくる差別文書  6. 部落の人々にとってのふるさと 第2章 差別意識を克服する...