2023年5月11日木曜日

第1章第2節 部落<差別>とはなにか

第1章 部落差別を語る
第2節 部落<差別>とはなにか

 私が部落差別問題に関わるようになったのは、13年前、西中国教区の小教会に赴任した年の総会で、 当時の広島キリスト教社会館館長のM牧師から、西中国教区部落差別問題特別委員会設立の建議案」が出されたことにはじまります。

 当時日本キリスト教団は部落解放センターを拠点に、部落差別問題についての取り組みを全国的に展開するために各教区に、部落差別問題特別委員会をつくるよう働きかけていました。  西中国教区でもその呼びかけに呼応して、「西中国教区部落差別問題特別委員会」を建議案の形で成立させたのです。 この成立過程は、これまでの西中国教区の部落差別問題との取り組みの経緯からすると、部落差別に関心をもった一部の人々から提出された建議案としてではなく、教区全体の課題として、常置委員会提案の形で正式議案として提出されるべきものでした。 このことは、部落差別問題<特別>委員会を、教区の活動から遊離した、また教区の部落差別問題の取り組みの<代行>機関にしてしまいました。 

 総会での審議の過程で、当教会の信徒議員のK姉が、M牧師の建議案に賛同して、「教会はもっと部落問題と取り組まなければならない」と、信徒議員として賛同の意を表しました。 そのとき、雛壇にいた教区執行部から、「今の信徒議員の発言は差別発言である。 西中国教区は長い間、部落差別問題に取り組んできて共通認識を持っている。 <部落>に問題があるのではなく部落<差別>に問題があるとの認識から、部落問題ではなく、部落<差別>問題と呼ぶようにしている。 」との、K姉の発言が差別発言である、という指摘の内容説明がありました。

 私は、「差別」という2字があるかないかで、差別発言であるかないかを断定する(こういうのを差別語狩りという)教区の執行部に、一種の<驚嘆>と<恐れ>を抱きました。 その総会で、私は、部落差別問題特別委員会の一委員に選任されたのです。 そのことは、教会に持ち帰り、教会役員会で審議しました。 「教会役員会が反対なら私も辞退したい・・・」と言ったのですが、教会役員会は、「信徒議員も賛同したことですから・・・」ということになり、私は一期二年のみ委員を引き受けるという、教区執行部との約束のもとに委員を引き受けました。


 部落差別問題に関するほとんど予備知識もなく、また解放運動がなになのかも知ることもなく、部落差別問題特別委員会の委員になりました。 そして、自分で委員を辞退するまで、四期八年に渡って、部落差別問題特別委員会の委員をしてきました。 うまれつき優柔不断な私は、他の委員の方々と違って、その間、それほど部落差別問題についての取り組みをしたわけではありませんでした。 学校で同和教育を担当されている方々の集会に参加していた程度でした。 部落差別問題特別委員会の委員をしていた全期間を通じて、「貧しい取り組みでしかなかった」事実は、自他共に認めるところですが、その間、私をして、部落差別について深く考えさせられるいくつかのできごとがおこりました。

 ひとつは、私が牧会をしている教会の信徒・O兄が自殺するというできごとでした。 彼の自殺に先立って、彼が信徒としてつかえたふたりの教職(牧師Nと牧師T)が相ついで自殺することがありました。 O兄は、そのことをとても残念に思っておられ、自分がつかえたふたりの教職の死を悲しみをもって受けとめておられましたが、牧師Tが自殺して数カ月後、彼は突然自分のいのちを絶ってしまいました。 二人の教職と信徒O兄の死は、私と教会にとって、耐えがたい苦渋に満ちたできごとでした。

 O兄は、被差別部落の女性と結婚し、被差別部落の中に住んでいましたが、息子さんや娘さんがそれぞれ成長し結婚、同じ子育てをするなら被差別部落の外で・・・ということで、年老いた彼を残して部落の外に出ていってしまわれました。 年老いた彼にとって、ひとり暮らしは大変であったのでしょう。 「できれば、むすこやむすめに帰ってきてほしい」という願いもむなしく、彼は、ある日、自分の孤独な生涯に自分で終止符を打ってしまいました。

 牧師である私は、その当時、部落差別は封建遺制であり、部落に住むから差別される、部落を離れたら被差別部落の人は差別されないのではないかと・・・融和主義的な考えを持っていました。 年老いてひとり部落にとり残された父親のO兄よりも、部落を出て、差別されない場所でこどもを育てたいという息子さんや娘さんの気持ちの方がより理解できたのでした。

 O兄の死は、私にとってはとてもショックでした。 その後、私は、真剣に部落差別とはなにかを考えるようになりました。 <なぜ、部落の青年に、部落に戻って年老いた父と一緒に住め・・・>というすすめができなかったのか、部落差別に関する自分の認識や理解を自己批判するようになりました。 それが、私と部落差別問題との具体的な関わりのはじめでした。

 私は、部落差別を、部落解放運動家たちがしている部落解放運動の延長線上で捉えたわけではありません。 キリスト教会の一牧師として、その宣教と牧会の営みの中で、部落差別問題が自分の課題になっていったのです。 私は被差別部落出身者ではありませんし、自分のこととして、部落差別を語る内実を持っていません。 しかし、信徒のO兄の死は、私に大きな課題を投げかけました。 部落差別とは何なのか。 部落差別を克服していくにはどうしたらいいのか。 牧師としての、宣教と牧会の課題として、<部落差別>を明確に意識して取り組むようになりました。

 ふたつめのできごとは、山谷の日雇い労働者の闘いを描いた映画「やられたらやりかえせ」の上映運動をしている際に、キャラバン隊のメンバーとして、広島キリスト教社会館の一青年が下松にやってきたことです。 彼は、上映会のあとの飲み会のときに、このような自己紹介をしたのです。

 「私は、広島キリスト教社会館の一青年です。 部落出身です。 社会館では、部落差別だけでなく、在日の問題から平和・人権の問題まではば広く取り組んでいます。 いろいろな取組をする中で、私は、たかが部落差別だと思うようになりました」。 そのとき、上映運動に参加した人たちは、「そうだ、そうだ、たかが部落差別だ」と拍手喝采しました。 山口県の高校で同和教育を担当している教師たちの発言でした。 私は、その場で、『社会館の青年にとっては、部落差別を克服するための自己の体験としてそのように表現したのだから、それなりに留保するとして、私たちが、「そうだ」「そうだ」というのは間違いではないか。 <たかが>という言葉で総括することができないほど、部落差別が深刻であることは私たちも知り過ぎるほど知っているではないか・・・」と発言しました。

 そのとき、広島キリスト教社会館が、どのような解放運動をしているのか、問題を感じました。 「たかが」という言葉は、「どんなに多く見積もっても」という意味の言葉です。 問題解決に対して努力するという前提なく、ただ対象を傍観して、事態を軽く見る、軽視する気持ちがあるときに用いられる言葉です。部落出身の青年にとって、部落差別というのは、「たかが」という言葉で総括されるような内容なのでしょうか。 部落の青年に、活動の中でそのような意識を植え付ける広島キリスト教社会の部落差別問題との取り組みはいったいなになのか・・・。 そのとき」抱いた小さな疑問は、やがて、当時の広島キリスト教社会館館長のM牧師の部落差別問題との取り組みの姿勢に対する問題意識へと発展していきました。

 3番目のできごとは、「やられたらやりかえせ」の上映会に、支部の人全員(おとなもこどもも)で協力してくださった部落解放同盟山口県連新南陽支部の書記長をされているFさんにさそわれて、「解放学級」に参加されるようになったことでした(注)。

 「なぜ、部落の集会に参加するのですか」という新南陽支部の老婦人の問いに、私は、「牧師としてのつとめをまっとうするために、部落差別が何かを正しく知りたくて・・・」と答えました。 差別をなくするとか、部落解放を前進させるためとか、そんな大義名分のためではなく、自分の日常の教会の中で直面していることになんらかの解答を見出したいと思ったからです。

 あるとき、部落解放同盟新南陽支部は、新南陽市を相手に糾弾会を開きました。 それは

、新南陽市の差別住宅条例に関する差別事件の糾弾会でした。 そのとき、解放同盟の青年たちが語っていたことがらに、私は自分の耳を疑いました。私も前述のK牧師と同じように、部落差別は封建遺制の問題として捉えていたのです。 江戸時代の幕府が民衆支配として採用した(再タイピング中です)統治方法で現代日本の社会ではただ残滓としてのみ存在している。近代的人権意識の普及と共にやがてはなくなるもの・・・と思っていたのです。 ところが、新南陽市の被差別部落の歴史と現在は、私のそのような思惑を超えるものでした。

 新南陽市には、四つの被差別部落があります。

 ひとつは、江戸時代に成立し、明治以降も部落として存在していた地区です。しかし、戦後、国鉄の操車場の拡張のために解体され部落としての地区実態を失った地区です。 その地区住民は、いまは、一般の側に住んでいますが、部落がなくなっても、いまだに部落民として差別されているということです。

 2番めは、江戸時代に成立し、そして今もなお部落として存在し、同和地区の指定がされている地区です。 その地区に、部落解放同盟新南陽支部が存在し、部落解放運動の取り組みが困難な環境にありながら、地道に解放運動を展開しています。

 3番めは、大正時代の部落融和事業の一環で、2番目の部落から一般の側へ集団移転した人々が住んでいる地区です。 「部落に住むから差別される」というので大正時代、新南陽支部のある部落から、一般の側にある部落に移住したのですが、当初のもくろみにもかかわらず、今は部落として地区指定されています。 この地区のひとびとも部落として差別されている現実があります。 

 そして、衝撃だったのは、4番めの地区のことでした。その地区は江戸時代、部落ではありませんでしたし、明治以降も一度も部落に数えられたことがない地域です。 それなのに、行政の施策の都合で、同和地区指定され<部落>とされている地区です。

 糾弾会の時に、部落解放同盟新南陽支部の青年部長のFさんは、「部落ということでどれだけ差別を受けてきたか。 私たちは部落として差別されていることは知っている。しかし、W地区の人々は、行政がたかだか道路1本を引くために、部落でないのに地区指定されて部落とされている。 W地区の人は、最近、結婚も就職もうまくいかないが・・・ということで、同和地区指定の実態を知らないまま部落の人と同じ差別を受けることになるのではないか。 部落出身であろうとなかろうと、誰ひとりとして部落の名で差別されることは許せない。 W住民にことの経緯を明らかにし、地区指定を解いて国庫から受けた同和対策事業費を返還すべきである・・・」と訴えていたのです。

 山口県新南陽市に存在する四つの被差別部落の存在の多様さは、部落差別が単なる封建遺制の問題ではないことを物語っていました。 部落は、明治以降お、そして戦前の融和事業や、戦後の同和事業の最中にあっても、拡大・再生産され続けたのです。私が被差別部落に出向いて自分の目で見た部落差別の現実と実態とはこのようなものでした。

 しかも、部落解放運動は、ただ、被差別部落の民衆による、被差別部落民衆のためだけの闘いではなかったのです。 「彼らは、部落のためだけでなく、差別の恩讐を乗り越えて、民衆の人権確立のためにも闘っている。 それなのに、私たちは、そのような運動に対して傍観者でいいのか・・・」。 その時持った印象は極めて強烈でした。

 行政を相手に、部落解放同盟中央本部の小森龍邦委員長が、静かに、切々と、差別がなんであるのかを訴えておられた姿を見て、世にいう「糾弾」がなんであるのかも知ることができました。 その部落解放同盟新南陽支部とのまじわりは、西中国教区の部落差別問題特別委員会の委員を辞したあとも継続しています。

私は、部落出身者でもなければ、部落解放運動<家>でもありません。 しかし、差別問題を皮相的にしかとらえていない、西中国教区の牧師や信徒のなかには、私のこれまでの取り組みを「解放運動のプロ・・・」「だから、誰も追従できない・・・」かのように言われる場合もありますが、それはまったくの事実誤認です。 私は、一牧師として、宣教の課題・牧会の課題として、この問題を考え続け祈り続けたにすぎません。おそらくこれからもこの姿勢に変わりはないでしょう。

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目次

 『部落差別から自分を問う』の目次 はじめに 第1章 部落差別を語る  1. 部落差別とはなにか  2. 部落<差別>とはなにか  3. 部落差別はなくなったか  4. 部落の呼称  5. 認識不足からくる差別文書  6. 部落の人々にとってのふるさと 第2章 差別意識を克服する...