2023年5月21日日曜日

第1章第6節 部落の人々にとってのふるさと

第1章 部落差別を語る
第6節 部落の人々にとってのふるさと


    詩集『部落』は、もうひとりの詩人・丸岡忠雄さんの詩「ふるさと」で』有名になりました。

        ”ふるさとをかくす”ことを
        父は
        けもののような鋭さで覚えた
            

                ふるさとをあばかれ
                縊死した友がいた
                ふるさとを告白し
                許嫁に去られた友がいた

        吾子よ
        お前には
        胸張ってふるさとを名のらせたい
        瞳をあげ 何のためらいもなく
        ”これが私のふるさとです
”と名のらせたい

    部落差別に関するさまざまな文章・論文・書籍の中で引用されている詩です。 丸岡忠雄さんは、この詩を綴った時の思いをこのように語っています。 「私の30年を振り返って、あのような差別という、誰にも言えない、誰にも訴えるすべもない、そしてどこにももっていくことできないあの悲しみとも、怒りとも言い表せない心の重たい傷を、これから成長して行く我が子には絶対に負わせてはならないと思ったんです。 ここに生まれたということで、私たちと同じような重荷を負うとしたら、それは許せないんです。 我慢できないんです。 ・・・ふるさとの名を口にできる、ふるさとを語れる、そういう子どもであってほしい。 その願いをこめて、子どもを抱きあげたときのあの重みを手の内に感じながら、この詩をつくりました」。

    この詩は、丸岡忠雄さんのふるさと、山口県H市の同和問題のパンフレットにも掲載されていますが、そのパンフレットには、彼のもうひとつの詩が掲載されています。 それは、「10年後の詩」という注がつけられた「時の貌」という詩の一節です。

    きょう
    学校で学んだという
    部落問題を 父に訊ねる
    中学生になった吾子の
    生き生きとした澄んだ瞳に
    もうふるさとの重い翳りはない

    無駄に流れてはいなかった
    たしかな”時”の貌を
    私は はっきりと子の眉に見た

    H市がどのような同和行政をしていったか、被差別部落の人にどのような変化をもたらしたか、その実証のために、この二つの詩が対比されています。

    しかし、丸岡忠雄さんは、詩人です。 詩の中におりこんだひとつひとつの言葉は、無意識に選ばれ、採用されたのではなく、彼のこころと思いが込められています。 彼は、中学生になった自分のこどもが、学校で同和教育を受け、そしてなにごとかを感じた。 家に帰ってくるなり、父親である彼のところに詰め寄って、<訊>ねたというのです。  <尋>ねたのではなく、<訊>ねたのです。 中学生の子どもが、英語や数学の問題がわからなくて尋ねたのではありません。 丸岡忠雄さんが、自分の子どもに語ろうとして語り得なかったこと、彼らが住んでいる場所が被差別部落であり、彼らが部落民であることを、彼の子どもは、学校の同和教育を受けることでそれとなく察し、自分の父親に詰め寄って、父親からその事実を<訊>き出したという意味なのです。

    丸岡忠雄さんは、部落民であることを知って、自分の子どもが冷静にその事実を受けとめたことを、喜びをもってこのように歌っているのです。 「
もうふるさとの重い翳りはない。 無駄に流れてはいなかった。 たしかな”時”の貌を、私は、はっきりと子の眉に見た」と歌うのです。

    しかし、この詩には大きな問題が横たわっています。 丸岡忠雄さんのような人物でさへ、自分の子どもに部落民であることを教えることができなかったということです。 中学校での学校同和教育の力を借りなければ、自分の子どもに部落であること告げることができなかった・・・、ということは、この”時の貌”が書かれた時代の被差別部落の人々の状況は、差別がなくなりつつあると言われながら、なお重い差別の中にあったということを意味しています。


    山口県では、学校同和教育の中で、部落の子に部落の子であることを告げることはしません。 大阪や京都で行われているような解放教育は行われていないのです。 ですから、部落の子どもは、何かひとごとのように、部落についての話を聞かされます。 そして、成長度合いに従って、小学校、中学校、高校で同和教育を受け、ある日突然、次のような図式に遭遇するのです。 「農・工・商よりさらに低い身分」=「部落の人々」=「同和地区の人々」。 他人事のように聞かされた部落の話が、江戸時代の身分制度の最下層の人々が、現在の部落に住んでいる部落の子どもの現実と等式で直結され同一視されるのです。

    「昔は武士に生まれたら武士、百姓に生まれたら百姓で一生を終わるのがあたり前でした。 今でも「近代化」の波に洗われていない伝統的な社会では、人々は遊牧民に生まれたら遊牧民、農民に生まれたら農民ということにあまり疑問を感じていません。 しかし現代日本のような社会では・・・」と語る東北学院大学A教授の歴史認識と違って、封建的な身分制度が、現代の部落の子どもたちの脳裏に突然と侵入、大きな精神的打撃をもたらすのです。

    部落差別は、国家や権力がしくんだ、社会の最下層に生きる人々、被差別部落に生きている人々に対する「洗脳」行為、ないしは社会的な「マインドコントロール」だと思うのです。 部落差別は、被差別部落の人々から被差別民衆としての抵抗と闘いの歴史をとりあげ、悲惨でみじめな歴史を強要する、世界に類例をみないほどの残酷な差別なのです。 被差別部落の人々から、過去の歴史だけでなく、現在の歴史を、そして明日の歴史を奪う残酷な行為なのです。

    彼らの生きた証し、被差別部落民衆からその歴史や物語をうばい、彼らの人生を虚空に追いやる行為なのです。 誰が、何の権利をもって、他者の明日の歴史を、あしたの物語を奪うことができるのでしょうか。

    丸岡忠雄さんの詩には、さらに秘話が続きます。  1985年3月、NHK大阪放送局は「差別からの解放ー胸はってふるさとを」という番組を放映しました。 そのディレクター福田雅子さんは、後日、「取材ノートの余白から」という文章の中でこのようなことを書いています。

「同対審答申が出て20年、その歳月に、私たちは、差別意識からどのように解放されたのであろうか。 ・・・大阪・和歌山・島根・山口・福岡・鹿児島と差別の闘いの姿を撮影して歩いた。 ドキュメント番組の製作に協力していただくことは、その人間性の真実に迫り、日常的な現実に私たちが対峙することでもあった。 ・・・放送に出さなかった言葉、映像にならないもうひとつの事実が鮮やかに蘇る。 「吾子よ、お前には胸はってふるさとを名のらせたい。 瞳をあげ、なにのためらいもなく、”これがわたしのふるさとです”と名のらせたい・・・詩「ふるさと」読まれた丸岡忠雄さんが急性心不全で5月に逝去された。 番組の冒頭に、この詩を朗読していただいた日、丸岡さんのふるさとの山口県光の海は青く、白浜に松林が続いていた。 ご子息誕生から20年、その成人を喜びながら、丸岡忠雄さんの心はいまだに結婚差別にであう若者があることをかなしんでいた」。

    政党や運動団体が、党利党略で語る「もう差別はなくなった」という主張に耳を傾けるのではなく、
彼らと行動を共にしながら、自分の心中を吐露し、部落の青年の「明日」を案じた被差別部落出身の一詩人の言葉にこそ耳を傾けるべきではないでしょうか。

    『洗礼を受けてから』の部落差別問題に関する文章を書いたⅠ牧師は、なぜ1冊の同じ詩集から、丸岡忠雄さんの詩ではなく、あえて、真原牧さんの詩を選んだのでしょうか。

    1995年8月、山口県K町の小学校教諭Kが、その小学校便りの中で、静かに部落民宣言をしました。 「ふるさと」と題された文章にはこのような言葉が綴られています。

    「中学校の卒業証書を手に、学校の坂を下りた時、私は二度とこの坂を登ることはないと感じた。 故郷から逃げる第一歩なのだと重い決意を抱き、9年間通った長い坂を振り返ることなく後にした。 同和地区に生まれ、育った私にとって、ふるさとの風は決して心地よいものではなかった。 小学校高学年から中学にかけ、自分の将来を考えるようになるころふるさとの風は、冷たく、厳しく私を厚い壁に打ちつけた。 偏見と差別という壁は、自分にはとうてい越えられそうにない高い厚い壁のように見えた。 幾度となく壁にぶつかり、ぶつからされるうちに自分が幸せになるには、ふるさとを捨て、ふるさとから逃げ出すことだと考えるようになった。 自分の前に立ちはだかる壁にぶつかり、血を流すことからもう逃げたかった。 自分の手で壁を壊そうという気力も越えてやろうというエネルギーもふるさとの風は、奪い去ってしまっていた。 高校・大学、そして就職。 少しずつふるさとの風があたらないところへと逃げていった。 でも、逃げることが自分の幸せにつながらないと思い知らされたとき、私はふるさとに帰ろうと思った。 つらい思いでしか残っていないはずなのに、無性にふるさとが懐かしかった。 私はふるさとに戻ってきた。 くやしさで血がにじむほど唇を噛んでじっと見つめた土も、悲しみであふれる涙がこぼれないように仰いだ空もあの頃のまま私のふるさと。 自分から捨てたふるさとなのに、戻ってくるものを受け入れてくれた。 暖かく、優しく。 今、風がどのように吹くのかそれは、私自身の生き方に自分自身にあるのだと思いながらふるさとに吹く風は、誰にも優しくあってほしいと思う。大好きなふるさとに、大切なふるさとに吹く風は・・・」。

    詩「五本目の指を」の作者・真原牧さんの詩の中にも、ふさとの優しさ、あたたかさを歌った「花」という詩があります。

    解放同盟新南陽支部の青年部長さんが、「読んでみて・・・」と言って持って来られた文章の中にも、ふるさとの部落について、このような言葉が綴られていました。 「わたしは物心ついた頃から、部落について自分なりに考えてきたように思う。 私は自分が被差別の立場にいることを知っていた。 それで随分悲観的に生きている時期もあったし、解放運動をしていても行き詰まることは多い。 しかし、 なぜか部落が好きだ。 両親やおばあちゃん、近所のおばさん・おじさん、部落の話をしてくれたたくさんの人が好きだ。 そして苦しさを秘めて死んでいった人々がいとおしい。 歴史を調べれば調べるほど、ご先祖様がいとおしくなる。 部落に産んでくれてありがとう。 わたしにとって、<えたを誇る>(水平社宣言の言葉)のは今なのかもしれない。」

    もう7~8年前のことですが、解放同盟新南陽支部のおじさん、おばさんからこんな話を聞いたことがあります。 新南陽市の差別住宅条例が問題になったときの話しですが、彼らの話によると、被差別部落は、部落の人だけが住んでいたのではありませんでした。 戦前は、朝鮮から強制連行されたり、日本に職を求めてやってきた朝鮮人たちが、また戦後は、同和向け住宅に、母子世帯や老人世帯、生活保護受給者が共に生活していたのです。 彼らは、行政や社会の冷たい風によって、吹き溜まりの部落に押しやられてきた人たちでした。 町の人は彼らをこばみ、見捨てて部落へと追いやったのです。 でも、被差別部落の人々は、この世から差別される痛みを十分過ぎるほど知っていたので、彼らを追い出すことはしませんでした。 彼らを受け入れて共に生きてきた。 部落の人は、人情があたたかくて、誰一人見捨てたりはしない・・・、と。

    あるとき、地区の一人の古老についての話を聞きました。 死ぬ前に、「これだけは話しておかなければ・・・」といって語ったという言葉は、戦前、山口県徳山市の海軍の燃料庫建設の際に、事故や病気で死んだ朝鮮人のなきがらが、葬られることなくコンクリートの壁の中に塗り込まれているという内容の話でした。 今は、国道2号線沿いに高層アパートや団地が建ち並ぶ場所ですが、日本の経済的繁栄のかげに、その犠牲になった人々が無念さを持ったまま葬られることもなく眠っているというのです。 「これだけは話しておかなければ、死ねない」と言い残してこの世を去った部落の古老の生き方の中にも、戦争中の暗い時代に、朝鮮人と共に一緒に生きた・・・という記憶が鮮明にありました。 解放学級の中で、何度となく戦前、朝鮮人と共に生きた時代のさまざまなことが取り上げられました。

    真原牧さんの「五本目の指を」の詩の中に歌われた部落の人々、その中にも、世の中の冷たい風によって部落に吹き寄せられた人々が少なからず存在していたのではないでしょうか・・・。 部落解放運動は、つねにそのような人々も受け入れ展開されてきたし、展開されているのです。

    私は思います。 『洗礼を受けてから』に記載された部落差別に関する文章は、差別文書であると。 その文書の中にみられる差別性は、『洗礼を受けてから』という本を絶版にしたり、通り一遍の注意書きを付け足したりして解決を見ることができる類のものではないと。 被差別部落の人々と出会い、部落の人々の顔の見えるところで、私たちの差別性を見直さない限り決して乗り越えることができないものであると。

    日本基督教団の第二回部落解放全国会議の分科会で、この『洗礼を受けてから』差別事象と問題の取り組みを報告したことがあります。 そのとき日本基督教団の部落解放センターの委員たちは、このように対応されました。 「差別はいろいろある。 そんな暗い話はもうええ。 明るい話をしようや」。 「あなたが取り組んでいることは、教団が20年前にやってきたことだ」。

    日本基督教団と西中国教区の間に、大阪や京都の部落解放運動と山口や島根の部落解放運動との間に、20年の歳月の隔たりがある・・・、そう指摘されるなら、それはそれで認めざるを得ないでしょう。 しかし、なぜそのような現実に陥ったのか、いたずらに嘆いてみても仕方ありません。 私たちが置かれている山口や島根の状況が20年前の大阪や京都の状況であるというなら、私たちは、教団の部落解放センターが20年前にやってきたことを、最初からやり直す以外に方法はないでしょう。

    日本基督教団部落解放センター委員・小柳伸顕牧師は、「日本キリスト教団の軌跡ー教会と部落差別」という文章の中でこのように語っています。 「この部落差別問題特別委員会(教団部落解放センターの前身)がはじめた活動は、何よりも「自己認識の旅」と呼ぶのがふさわしいかもしれない。 その姿勢は、今日まで一貫している。 つまり、教会への啓蒙を優先させるデスクワークや室内での討論ではなく、差別の現場に足を運び、この手と足と心で差別の現実に触れ、学び、差別を許さない人間へと変革されていくことを何よりも大切にした・・・」。 私は、その言葉を心にとめて、西中国教区、山口東分区の今日の状況の中で部落差別問題に取り組んできたつもりですが、結果は、東岡山治牧師の指摘される通り、「貧しい取り組み」
以外のなにものでもありませんでした。

    大阪・京都・奈良・兵庫などの部落解放の先進地と違って、山口・島根は、部落解放運動が「大衆運動」として成立しにくい歴史的状況があります。 部落出身者もまたそうでない人も、多くの場合、地域から、共同体から、同僚から遊離して、それでも、なんとか山口・島根で、部落解放運動を前進させたいと願いながら、部落解放運動は、全世界的にみると、やがては部落差別が間違いであり部落の人々の歴史や物語の復権が正しいと認識される時代がやってくる、それは勝利が約束された闘いである、しかし、山口・島根の闘いは、なお困難と苦難の中にある、疎外と無関心、憎しみと敵意の中にある、時として、自分たちの闘いを、「大衆運動」として位置付けたいという願いを持ちながら、「ゲリラ戦」とか「トオチカに立てこもった闘い」とか、「レジスタンス運動」として自己理解をせざるを得ない現実にある、終末的な視座から見つめなおさないと前進することができなような状況にあります。 部落の側の解放運動もままならない中、私たちキリスト者が、教会が、部落解放を前進させるためには、どうしたらよいのでしょうか。 「貧しい闘い」をゆたかな実りある闘いにするためにはどうしたらよいのでしょうか。

    1983年の西中国教区の部落解放セミナーの講師・犬養牧師が、西中国教区に対して問題提起した言葉は、今日でも一考するに値します。 「教会から部落へ至る道はあるのか。 部落差別問題を学ぼうとし、それを受取ろうとしている主体である教会そのものが、果たして、それを受け止めるのに値する場所であるのか・・・という疑問を私自身の何年かの歩みの中で考えている。 (中略)教会が触れることのできなかった部分にいかに触れていくかということ、あるいは一つの教会でできなくても、あるところがそれをなしたときには、本当にそれに連ならせていただいて、その事柄から受ける問いを誠実に・・・自分の教会がつぶれるという形さえ含みながらそのことがらに関わっていくという中でしか、被差別部落の問題は教会の問題になって行かないのではないかと思います」。

    経済的な連帯もさることながら、なによりも、「ともに部落解放のために、キリスト者」として闘う」その連帯と協力が不可欠でありましょう。 部落差別に取り組むものが、その共同体の中で孤軍奮闘を余儀なくされる状況では部落解放は前進しないでしょう。 教会が変らなければ部落は変わらない。 部落が変らなければ教会は変わらない。 教会が、世界や社会から遊離していない以上、教会と部落は相互に影響しあいながら部落差別撤廃の運動に参画していく必要があります。

    1995年12月4日の中国新聞に、総務庁の「童話地区実態把握等調査」の結果が一部報道されました。 それによると被差別部落の一人の青年に対して、「絶対に結婚させない」という、一般の側の親が2人。 「家族らの反対があれば認めない」が4人。 「親として反対」が15人。 1人の被差別部落の青年のまわりに、結婚を反対する21人もの親たちがたちはだかっているという数字が出ていました。 しかも、被差別者にとって差別者は身近に存在している人々なので、部落の青年の結婚には、今日でもなお、言葉にならないほど様々な障害が待ち構えていると考えても間違いではありません。

    部落差別は解消に向けて前進した、21世紀までには部落差別はなくなる・・・と言われて久しいけれども、政党の党利党略から「部落差別はもうなくなった」と主張する人々は、この数字をどのように受け止めているのでしょうか。 また政党と一線を画し、宗教家として、キリスト者として、この問題にかかわる私たちは、この数字をどのように受け止めることができるのでしょうか・・・。 中国新聞の記事は、中国地方は、今日においても、全国水準よりはるかに部落差別が根強く存在している場所であると報道しています。

注)文中の固有名詞は、すべて英字一字で表現しました。 しかし、山口県新南陽市の被差別部落で、部落解放運動を展開している、部落解放同盟新南陽支部の書記長さんと青年部長さんについては、実名で表記しました(今回Blogger上で公開するときには役職名のみにしました)。 山口は、部落差別が今も根強く存在し、名前を挙げて運動することは容易なことではありません。 しかし、新南陽支部の運動の流れのなかで、青年部長さんは、「<差別はもうない。 部落はない。 >と常にどこかで言われ続けているが、<寝た子を起こすな>と言い続けている部落内外の多くの人々によって生きてきた証は消されていく。 被差別部落の歴史は常に否定される。 ならば、私たちは常に言い続ける必要がある。 <私たちの先祖は差別に負けずにちゃんと生きてきた。 部落は存在し、部落差別はあると。 > そうないと私たち部落民は消されて、生きながらの幽霊にされてしまう」。 「共に生き共に死んでいった武士や農民の歴史は書き残されるのに、天皇家の歴史はでっち上げられ誇張されるのに、えたの歴史が消されるのは何故か。 差別があるからに他ならない。 自分を誇れない部落が多いから、<えたを誇る>時がきていないから、志ある人によって書かれた部落史でさえ部落の地名も人名も記号で表すしかない。 ・・・現実の差別に対する彼らの配慮は当然のことであろうし、そうせざるをえない気持ちも分かっているつもりだが、わたしは記号ではなく本当の名称で書かれた歴史を読みたいと思った。」という。

    部落の側を実名で、教会の側を、部落差別問題に取り組んでこられた方々を除いて、記号で表現しなければならない教会の現実を、いつの日か文章化したいと思います。

(入力作業中です・・・。 1996年に、日本基督教団部落差別問題特別委員会と日本基督教団部落解放センターによて、没収・廃棄処分にされた、私の拙稿『部落差別から自分を問う』(原稿用紙300枚)をはじめて公開しています。 なぜ、教団は、没収・廃棄処分という、言論弾圧的暴挙にでたのでしょうね・・・。 部落解放同盟新南陽支部の書記長さんは、私の拙稿を読んだあと、「教団は、この程度の文章をなぜ、没収・廃棄処分にしたのか、解せない・・・」との感想を話しておられました。)

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目次

 『部落差別から自分を問う』の目次 はじめに 第1章 部落差別を語る  1. 部落差別とはなにか  2. 部落<差別>とはなにか  3. 部落差別はなくなったか  4. 部落の呼称  5. 認識不足からくる差別文書  6. 部落の人々にとってのふるさと 第2章 差別意識を克服する...