2023年5月31日水曜日

第2章第1節 夏期現場研修会から

第2章 差別意識を克服するために
第1節 夏期現場研修会から

    1995年9月、広島基督教社会館において、西中国教区・部落解放夏期現場研修会が開かれました。

    そのときの講師はいまは、部落解放同盟広島県連福島支部の執行部の一人であるAさんでした。 Aさんは、西中国教区・宣教研究会が
発行している『洗礼を受けてから』という小冊子に掲載されている部落差別に関する文章とその文章に引用されている被差別部落出身の詩人・真原牧さんの「五本目の指を」という詩を<被差別>の立場から読むとき、どのように読めるのか・・・、どちらかいうと、<遠慮>がちに、その文章と引用された詩に内在する<差別性>について問題点を指摘されました。

    講演のあと、Aさんの発題を踏まえて、夏期現場研修会の参加者で、分団討議がなされました。 3分団に分かれて『洗礼を受けてから』の文章が差別文章であるかどうか、差別文章であるなら、どのように問題解決していけばいいのか、熱心な議論が展開されました。

    夏期現場研修会で議論された内容をまとめてみると、おおむね、『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章は差別文章であるとの認識が共有され、問題解決のために適切な努力がなされなければならないという確認がなされたといってもいいでしょう。

    現場研修会の分団で討議された内容をもう少し整理して詳述しましょう。

    (1) まず、『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章についてですが、文章本文の<差別性>より、その文章に引用された被差別部落出身の詩人・真原牧さんの「五本目の指」という詩の表現・内容に関心が集中しました。 多くの参加者はこの「五本目の指を」という詩を読んで、こころの中に「暗い印象が残った」といいます。 被差別部落の現実をことさら暗く悲惨に歌ったこの詩は、研修会の参加者に、「差別を再生産しかねない」という問題意識をもたせました。 またその詩に歌われた被差別部落の現実は、部落全体に共通したものではなく、「私の生まれた部落にはこんな悲惨はなかった」という、被差別の側からの反論もありました。

    (2) 『洗礼を受けてから』び部落差別に関する文章の著者の差別性については、「引用した人の感性が問題であるという意見もでました。 さらに著者の感性に踏み入って、「<部落差別の痛み>を少しでも知っていたら、このような引用はしなかったであろう・・・」という声もありました。 引用するなら、差別を助長するような詩ではなく、「こうやって差別を乗り越え解放されるのだっという展望がなければ・・・」という問題解決の方向を示唆する発言もありました。

    (3) 今後の問題解決については、「このまま放置することはできない」との認識が多く問題になっている箇所については、訂正ないし削除・差替えの必要が提案されました。また、部落差別に関する文章だけでなく、『洗礼を受けてから』という小冊子そのものを全面改訂するか、絶版にすべきであるとの意見もありました。

    『洗礼を受けてら』の部落差別に関する文章の差別性を認識し、問題解決の必要を認識しながらも、「部落差別問題をどこまで担っていけるか不安だ・・・」という声がありました。 また教区・教会の部落差別問題との取り組みは、「心の中に差別意識があってもそとにでなければいい・・・」ということではなく、差別意識の問題が教区・教会の課題になっていかなければならないという意見、さらに、私たちの内側の差別意識をとりあげるだけでなく、「具体的に部落の人々と交わりをつくる」必要を訴える声もありました。 また、部落差別に関する文章が書かれてから、20年以上も経過していることを考え、「部落解放運動の流れからみて整理する必要がある」との提案もありました。

    問題解決にあたっては、『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章を訂正・削除等の改訂作業を行うにとどまらず、教区や教会の差別的体質の見直しと、被差別部落との具体的な出会い、部落解放運動との連帯を訴える声もあったことは特筆すべきことがらであると言えます。

    (4) 誰が責任をもって問題解決にあたるか・・・ときう点では、「洗礼を受けてから」の部落差別に関する文章の差別性が指摘されていながら、各総会期の宣教研究会がこの文章の差別性を認識せず、「この問題、この文章についてとりくまなかったことのほうがより重大な問題である」との指摘がありました。 また、教区の部落差別問題特別委員会もその職責上、宣教研究会と共同して問題解決にあたる立場にあったにもかかわらずその職責を怠ったという批判もなされました。 そして、具体的な提案として、「問題解決は、宣教研究会委員にまかせう、教区全体で協議しよう」という、この問題が一部の、関心ある人々の課題ではなく、教区全体の課題にならなければならないという意見もありました。

    部落解放同盟広島県連福島支部の執行部の一人であるAさんの問題提起ではじめた、西中国教区部落解放・夏期研修会は、ある意味で、往年の西中国教区の部落差別問題の取り組みを彷彿とさせるような場面を生み出しました。

    しかし、このようなかたちで、『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章がとりあげられ、その差別性の確認と問題解決への決議が行われていく・・・、そのような状況を批判的にみる声も同時に存在しているということを忘れてはならないでしょう。 この文章の中に、また引用された詩のなかのどこが問題なのか・・・、理解できないとの声も多数ありました。 「この文章のどこが問題なのかわからない」「牧師の私が分からないのにどうして教会員にわからせるか・・・」。 「教会で議論するのは無理・・・」との声もありました。 また差別性を認識しつつ、「歴史文書だから<もはや>とりあげる必要はない」と主張する声、その文書を書いて差別性を指摘されているI牧師の、その当時の努力も評価する必要があるとの声もありました。

    西中国教区・宣教研究会発行の『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章を読んでも、また部落解放同盟広島県連福島支部のAさんの問題提起を聞いても、「それが、なんで差別なのか・・・」理解できない、また理解しようともせず、被差別の側よりも、差別の側を積極的に評価しようとする人が少なからず存在しているという事実は、今後、私たちがこの問題を深めていくうえで留意しなければならないことがらであると思います。



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目次

 『部落差別から自分を問う』の目次 はじめに 第1章 部落差別を語る  1. 部落差別とはなにか  2. 部落<差別>とはなにか  3. 部落差別はなくなったか  4. 部落の呼称  5. 認識不足からくる差別文書  6. 部落の人々にとってのふるさと 第2章 差別意識を克服する...