2023年8月28日月曜日

第2章第4節第5項 糾弾に学ぶ

    第2章 差別意識を克服するために
    第4節 差別意識とはなにか
    第5項 糾弾に学ぶ

    1995
年12月15日、浄土真宗本願寺派・山口教区の糾弾会が行われました。 浄土真宗の山口県内636ケ寺から88名が参加して行われました(私は新聞記者に同行)。

    浄土真宗は、1971年、同胞運動本部を設置、部落差別問題との取り組みをはじめました。 そして、1985年には、基幹運動本部を設置、教団の基幹となる運動としての位置づけがなされ取り組みが展開されていくのですが、1993年以降、教団内に、さまざまな差別事象が発生します。 東海教区住職による差別発言、教団関係学校における差別発言、札幌別院における差別落書き、教団本部における差別落書きなどの差別事件が多発するにおよんで、真宗全教区の「糾弾会」となっていったのです。

    なぜ、教団をあげて、部落差別問題と取り組んでいるのに、差別発言があいついで発生するのか・・・。 浄土真宗本願寺派・山口教区は、

    (1) 「感動の理念が充分、浸透されていなかった」
    (2) 「運動が事実から離れて、抽象的であった」

の2点をあげています。 部落差別問題と取り組んできたといいながら、その内容は、「差別の現場、現実を知っていたとはいえない」と総括されているのです。 さらに、「仏教本来の真俗二諦>を転用し、仏法の領域を<真諦>、<世間>の領域を<続諦>として切り離す<真俗二諦論>によって、教団の社会的位置づけを計り、仏法の領域だけに教団をとじ込ませ、世法には追従する現実肯定・体制補完を担ってきた」、また、「僧侶は、真宗の信心を説くことが第一で、社会の問題は二の次、あるいは、<信心は生死の問題にかかわることだから、社会とは無関係だ」として僧侶がかかわることではないという立場に固執して、傍観の態度を生み出してきた」と内部批判がなされています。

    そして、差別解消に向けての今後の取り組みとして、

    (1) 「現実から切り離された信心は、現実を生き要る力とはなりえないばかりか、現実の苦悩を傍観し、自分だけ救われたらよというような利己的な信仰に堕してしまう」ことを認識し、「十万衆生を等しく必ず救う」という本願に立ち返り、自己中心的な生き方を否定し、新しい普遍的な生き方を生み出す。 自他の対立を越えて、共に生き、共に共感する平等の世界を開く」

との決意がなされています。

    (2) 「反差別の教学」については、教団の課題として、仏教の原点に立ち返る、「業・宿業」については、「社会的矛盾や差別は歴史的社会的につくられたものであって、それによってもたらされる不幸を被害者である本人の責任に転嫁し、不幸を引き起こした本当の要因から目をそらさせてしまうような業思想」は誤りである

等真宗教理の問題点が再検討されているのです。

    さらに、「僧侶の体質」につていは、「自ら特権階級であると思いこみ、社会の差別性に気がつかない、また目をそらせる傾向がある。 自己の保身を計り、何事も世間体を第一にして、穏便にすませようとするか、聞き流す傾向がある・・・」と指摘されています。

    「糾弾会を受けるに至った今、念仏者として部落差別をどう認識し理解し学んだか、またその克服のためにどう行動してきたのかが、今さらながら問われている」との認識に立って、「部落解放を教団の課題として」受けとめ、「そのためには、私たち一人ひとりの姿勢を自ら問い、仏陀釈尊から親鸞聖人と開顕された平等の精神を自らのものとし、同じ時代に生を受け、同じ世界に生きる人間として、差別を見逃すことなく、差別克服のために、一人ひとりの教団人が部落解放・差別解消に向け、何ができるか模索し行動に移していくことこそ、今必要なことであります」と結んでいます。

    真宗教団の本部や東海教区・北海教区で起きた差別事件を、<社会的>差別意識として、自分たちにも内在する差別意識として、被差別の側から問われたことがらについて、右のような回答を出しているのです。

    浄土真宗に対する糾弾の中で、浄土真宗側が出した回答は、文言を変えれば、私たち日本基督教団の教区や教会、牧師や信徒が、部落差別に関して直面し、また克服しなければならない、今日の課題をも描き出しているのではなでしょうか。

    西中国教区に部落差別問題特別委員会ができて十数年が経過します。 その間に、教区や分区、教会の中で、さまざまな差別発言がありました。部落差別だけではありません。 障害者差別発言や性差別発言が、また差別行為がありました。 しかし、どの差別事象も、闇から闇へとにぎり潰されていきました。 今日、それらの差別事象を、文章で追跡することはおろか、そしてそれらの差別発言や差別行為を、教区や教会の差別性を見直すための材料として使用することすらできません。

    かって、部落差別問題特別委員会に一委員としてその名前を連ねたものとして、差別を解決するのではなく、むしろ、繰り返し生起する差別事象をにぎりつぶすことに一役になってきた・・・、との批判を回避することはできません。 10数年の間に生じた、さまざまな差別事象が、私の手の中で、どぶがわのあぶくが、ぶつぶつ音を立てて、現れては消えて行ってしまうように、私の手のひらでにぎり潰された差別が悪臭をはなつのです。 差別隠しだけを期待され、差別問題と取り組んでいる格好だけが要求され、具体的な取り組みが否定されるような委員会の委員に誰が続けてなるものか・・・、そんな思いがあって、4期8年続けた部落差別問題特別委員会の委員を辞退しました。

    委員をおりたあとも、教区では、いろいろな差別事象が続きました。部落差別問題特別委員会委員長A牧師の女性差別事件、教団部落解放キャラバンに対する種々の差別発言、東岡牧師を前にした、初歩的な差別事象の数々、なにひとつとして解決されることなく、すべての差別が、何も起こらなかったかのごとくに闇から闇へと葬り去られて行きます。 今、拡大宣教研究会で、『洗礼を受けてから』に記載された部落差別に関する文章の差別性が検証されていますが、部落差別問題特別委員会がつくられて、はじめての差別事件の解決にむけての本格的努力といってもよいでしょう。

    差別事件をどのように解決していくか。 東岡牧師の指導を得て、この作業を進めていくことは、西中国教区の、部落解放の前進に大きくつながっていくことでしょう。 部落解放の前進だけでなく、教区の宣教活動の見直しと、さらなる展開が進められると思われます。

0 件のコメント:

コメントを投稿

目次

 『部落差別から自分を問う』の目次 はじめに 第1章 部落差別を語る  1. 部落差別とはなにか  2. 部落<差別>とはなにか  3. 部落差別はなくなったか  4. 部落の呼称  5. 認識不足からくる差別文書  6. 部落の人々にとってのふるさと 第2章 差別意識を克服する...