2023年8月28日月曜日

第2章第4節 第6項 差別意識が生まれるとき

    第2章 差別意識を克服するために
    第4節 差別意識とはなにか
    第6項 差別意識が生まれるとき

    部落解放同盟山口県連S支部の解放学級で、「人はいつ差別者になるか」、ということが話題になったことがあります。

    そのとき、S支部の支部長さんは、小学校の5~6年頃には、みんな部落に対する差別意識を持って差別者になっていると言われます。 なぜなら、小学校に入って1~2年は、部落のこどもは、部落外のこどもと楽しく遊ぶことができるというのです。 部落のこどもが町のこどもの家に遊びに行ったり、また町のこどもが部落のこどもの家に遊びにきたり、いろいろな交流がこどもなりにあるというのです。 しかし、3~4年になると、一人減り、二人減りと部落外のこどもとの付き合いが段々減ってくる。 自然、部落のこどもは、部落のこどもとだけ遊ぶようになっていく。 5~6年生になると、部落のこどもは、部落外のこどもと誰も遊ばなくなる。 町のともだちがほとんどいなくなる・・・。 支部長さんは、自分のこども時代のことを振り返りながら、自分の経験からそのように話されました。

    支部長さんは、逆からいうと、部落外のこどもは、小学校1~2年生の頃は部落がなにか、なにもしらないが、5~6年生の頃には、親やまわりのひとからそれとなく聞かされて部落のこどもと遊ぶことをやめ、部落に出入りしなくなる、部落のこどもに対してすっかり差別者になってしまている・・・、と言われます。

    支部長さんは、小学校や中学校、高校や大学で、同和教育を受ける前に、こどもは、部落に対して差別意識をもった差別者になってしまっているといいうのです。 ひとは、差別意識を身に着けないように努力することからものごとをはじめるのではなく、いったん、身に着けた差別意識を取り除くことからはじめることになる・・・・と言われるのです。

    こどもが小学校に入学するとき、就学時の知能検査を受けさせられます。 親は、自分のこどもがどのような検査をされているのか、知るすべがありません。 小学校にまかせきりになっているといってもよいでしょう。 わたしのむすめが小学校に入学するときも、就学時の知能検査がありましたが、それがどのようなものであるのか、ほとんど関心がありませんでした。

    あるとき、解放学級で、山口県T市で行われた就学時の知能検査が問題になりました。 その検査の中に、こどもの顔を描いた考えがあります。 こどもの顔には、目と口がありません。 教師は、こどもにこのように質問します。 「この顔の中で何かたりないものがあるでしょう。足りないところを鉛筆で書いてごらん」。 <目と口を指摘すれば正解>というものです。

    この知能検査は、「普通学級で指導することの可否を判定」するものだそうで「ことばの明確さ」「大小の判断力」「多少の判断力」「欠陥指摘能力」「形の構成能力」の5種目について「能力」がテストされます。

    目と口のないこどもの絵を見せて、「たりないところ」を指摘させるテストは、「欠陥指摘能力」テストという名前で呼ばれています。 「絵を見て欠陥を指摘し、完成する能力を見る」ものだそうです。 就学時のこどもに要求される能力に、欠陥指摘能力がある・・・ことをはじめて知りました。

    その時、絵を見ながら思ったのですが、それは、障害者差別を助長することにはならないのでしょうか。 目がないという障害を、ことさら指させる必要があるのでしょうか。 しかも「欠陥」としてです。 小学校に入る前のこどもは、人間としてのやさしさをもっています。  そのやさしさではなく、また障害者と共に生きる共感ではなく、障害者の障害を「欠陥」として指摘する能力がもとめられるのです。 義務教育は、最初から、差別教育として展開されているのではないか・・・。 非常にショックを感じる就学時の知能検査でした。

    確かに、アリストテレスにはじまる、「種」と「差」の論理は、学問をする上で必要な論理であるのかもしれません。 しかし、本来、「差」ではないものを「差」として指摘させ、それを「能力」と評価することは問題であると思います。

    小学校に入学することは、、部落のこどもにとってもうれしいできごとです。 入学前に、親は、こどもの入学に備えて、学生服や学生帽、靴や上履きをそろえます。

    解放同盟s支部の青年部長の方は、一番上の子が入学するというので、準備をしていて、驚いたというのです。 学生服の上着のポケットに、「〇〇小学校第一学年氏名〇〇〇〇」と書かれた名札をつけるよう指示が書かれていたのですが、その下に、1.5cm×5センチの白布に地区名を記載するよう指示されていたのです。 「地区名をその布に書くことを求められると、被差別部落の親は、自分のこどもの名札の下に、部落の名前を書き込むことになる。 部落の親としてそのようなことはできない・・・」と、抗議されました。

    〇〇諸学校は、抗議される数年前から、突然この制度を導入したそうです。 部落のこどもは、学生服を着て、部落外のこどもの家に遊びに行くと、その親は、遊びに来たこどもが、どこに住んでいるのか、その白い布に書かれた地区名を見てすぐわかるというのです。 被差別部落のこどもは、自分の胸に、部落の名前をつけて学校に通わされることになります。

    〇〇小学校の校長は、「心に痛みを受けている方がいることに気づかなかったのはうかつだった」と説明しました。 また、山口県の同和教育課長は、「まだこういう学校があることを知りショックを受けた」とコメントしました(朝日新聞の報道)。

    部落解放同盟S支部の、市当局に対する確認会で、書記長さんと市長との間でこのようなやりとりがありました。

    (書記長)「差別がない、こどもが、部落名を書いた名札をつけて歩いても差別されないというなら、市長も、その名札の下に、部落名を書いた白い布をつけて市内を歩かれたらどうですか」
    (市長)「できません」。
    (書記長)「なぜですか。 差別がないというなら、市長が、胸に部落名を書いた布をつけてあるいても、なにも問題がないではありませんか」。
    (市長)「今も、差別があります。 名札をつけて歩くことは、私にはできません」。

    学校教育は、最初から<差別教育>なのでしょうか
。 教育は、権力構造(天皇制)と深く関わり、さまざまな差別の再生産の場になっているのではないか・・・。 〇〇小学校名札差別事件は、非常にショックでした。 部落のこどもが、学校でどのような対応を受けているのでしょう。

    解放同盟山口県連S支部の書記長さんにすすめられて、山口県H市の社会同和教育主事・A教諭の話を聞きに行ったことがあります。 彼は、講演の導入部分で、「(黒板に)絵を描くので、素直に答えてください。 皆様がどれだけ素直な気持ちになっているか、試してみたい。 これは何ですか? 」と言いながら、黒板に〇を描きました。 受講者から、「まるです」という答えが返ります。 A教諭は、「それでは、これは何ですか?」と、その隣に三角形を描きます。 受講者の中から、「三角です」問答えが返ります。 A教諭は、「これは? 」といいながら、最初に〇を描いたその下におなじように〇を描いていくのですが、最後、書き始めと書き終わり、始点と終点を結ぶときに、ぐいと力を入れて、始点と終点の間にすきまを残してとめます。 三角形の場合も同じです。 「これは?」という質問に誰も答えませでした。 するとA教諭は、「これは欠けがあるので、円ではありませんね。 この三角形も同じです。 しかし、欠けているところをお補って考えると、これは円で、これは三角形ですね。 人間的に欠けがあっても、人をいろいろな方向から見て人間として見てあげることが大切ですね。 同和教育は、そういう教育です」と、同和問題の本論に入っていきました。

    講演の終わりで、「マイナス発言が出たとき、はっきりとそれを指摘できなければならない」と言われるので、「それなら」と講師のA教諭に、それは差別発言・差別行為だと指摘しました。 解放同盟S支部の書記長さんも、A教諭の夜の部の講演を聞きに行かれました。 講師のA教諭は、昼間の講演で聴講者から指摘されたことがらを完全に無視してしまいました。 そして、昼間、その講演になにも問題がなかったかのごとく夜の講演もされたようです。

    解放同盟S支部の書記長さんから、A教諭の講演の内容を聞いた山口県立古文書館の北川健先生は、その機関紙『むぎ』(160号)で、このように論評しておられます。

    この9月、ある他の講座に講和しに行ったところ、地元の方がいうには、前に晩に来きた講師の主事の先生は次のように説いたというのです。 まず、黒板に不完全な<円>と<三角形>の図を描いて、「皆さん、これ何ですか?」って問いかける。 それで受講者は「まァ、円です」「一応、三角形です」と答える。すると講師先生は、「そうですネ。不完全な形ですけど、皆さんはそれぞれを丸や三角形にみましたですネ。 たとえどこか不足したものであっても、整ったものとしてアタリマエに見ていく、人間についても、そういう直でオオラカな気持ちで見ることが大切ですネ。 それが同和の精神でありまして・・・」と本題に入って入った、のだそうです。 オカシイ! と思いますヨ、 私は。 これだと地区の人間は「不完全」で「1本足りない」「ハンパだ」といっていることでしょう。・・・「チガウものをオオラカに見る」のではなく、「オナジものをアタリマエに見」るというのが同和教育のはずですよネ。それを根本から取り違えているんですから」と、問題点を指摘されています。

    欠陥指摘能力・・・の世界は、義務教育全体を通じて、教育の根底に流れているようです。

    山口県では、大阪や京都のような解放教育はおこなわれていません。 解放教育が行われていたら、こんなへんな発想は生まれてこないと思うのです。 西中国教区の宣教研究会が発行している『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章にも、A教諭と同じ発想が通底しているように思われます。 欠けのある、丸や三角形こと書かなかったけれども、詩「五本目の指を」を引用することで、読者に同じような差別意識をふりまいたのではないでしょうか。

    ともかく、私たちは、差別社会の中の、学校教育を通して、それが公立であろうと私立であろうと、知らずしらずのうちに差別的体質を育成されているのではないでしょうか。

    S支部の支部長さんが、解放学級で、ご自分のことを話してくれたことがあります。 被差別部落の人がどのように、<被差別>の意識をみにつけていくか・・・、私たちはそのことを知ることで、その対極にある差別者がどのように<差別>意識を身につけていくか・・・、私たちの差別性を認識できるのではないかと思います。

    支部長さんの話しによると、最初の、被差別の経験は、14歳頃であったといいます。戦争中の勤務先での話しです。

    その当時、支部長さんは、「同和」とか、「差別」とか、何も知らなかったといいます。 その当時、会社に勤めている若者の娯楽といったら、芝居を見に行くことぐらいたったのでしょう。 会社の昼休みには、自分たちが見た芝居について話し合っていたそうです。 勤め出して3年くらいたったある日、支部長さんの前で、会社の同僚の一人が、「〇〇のこれがのうお・・・」と、四本指をかざしながら、話しはじめました。 支部長さんは、その時、〇〇がどこを指しているのか知らなかったといいます。 同僚に、「〇〇は、どこにあるのか」と尋ねたら、「おまえ、知らないのか」と聞き直されたと言います。 すると、もう一人の同僚が、近くに寄ってきて、指をかざしながら、「お前も、これでよ」と言われたそうです。 そのとき、指をかざして、「お前も、これでよ・・・」とささやかれたことが分からなくて、家に帰って、夕食時に、父親に、会社であったできごとを話したそうです。 「だれが、そんなことを言うたか・・・」とぼそりと、悲しそうにつぶやくだけで、それ以上何も言わなかったそうです。

    支部長さんは、その時、差別されても、なんで差別されるのか、わからなかったと言います。 しかし、そのことがあって、いままで楽しかった職場が、急に面白くなくなって、同僚音いままでのように自由に話をしたり、笑ったりできなくなったそうです。 「せんない、せんかい・・・」。 理由もなく、押し付けられる<抑圧>と<疎外感>に、やがてたえられなくなって、会社を休みがちになっていきます。戦争中であったため、職場にでない支部長さんをいぶかしがて、警察から呼び出しがかかったといいます。 「なぜ、会社に行かないのか・・・」。 そのように詰問されても、支部長さんは、その理由が言えなかったと言います。 自分が感じている、何とも言えない抑圧感、疎外感を言葉に表現できなかったそうです。 戦争が終結するまで、同僚との気まずさをかかえたまま、支部長さんは、会社に通い続け、戦争が終わるとすぐ、差別的な職場を離れたそうです。

    支部長さんは、20歳の頃、漠然と差別され、疎外されているとは感じたそれがものの、部落差別であるとの認識を持っていなかったと言われます。 30歳頃になって、自分の子どもの頃、青年時代のさまざまなできごとを思い起しながら、「あれが、差別だった・・・」と部落差別がなんであるのか、自分の内に追体験するようになったと言います。

    支部長さんが、部落解放運動をはじめるようになったのは、むすめさん夫婦の影響が大きいと言います。 娘さん夫婦と、部落のことを話している間に、支部長さんは、自分が被差別の中に身を置いて考えてきたこと、行動を起こそうとしてきたこと・・・、それが娘さん夫婦が考え、実行しようとしていることとピッタリあったといいます。 「それなら、一緒にやってみようか」、ということで、部落解放同盟の支部をつくって、少人数ではあったが運動をはじめたというのです。

    支部長さんは、「言っておかなければならないことがある。 部落の側も、差別を前にして、それをはねかえす意志が弱かったのかもしれないが、差別の一言が、部落の人の人生を大きく曲げてしまう。 部落の青年が、まっすぐに、自分の人生を生きていこうと思っているのに、なにげなくささやかれたたった一言の差別の言葉がそれを台無しにする」といいます。 「差別するものは、<なにが部落差別か、わたしは何も知らない>、<差別で、部落の人がどんなに傷ついているか、知らない>、そういいながら平気で差別してくる・・・」といいます。

    支部長さんの話を聞きながら、考えさせられたことは、被差別部落の人が、<被差別>であることを自覚するようになるのは、そんなに簡単なことがらではないということです。 被差別部落の人は、最初から、<被差別>の意識を持って生まれてくるわけではありません。 被差別部落の人は、こどもから大人に成長するにつれて、自分の人生の歩み、時の流れ、人生の季節の移り変わりと共に、<被差別>がなんであるのかを、そのこころに刻みつけられていくのです。

    支部長さんは、<被差別>を自覚し、それを言葉で表現できるようになるまで、差別を跳ね返し、部落民としての誇りに生きようとするまで、30数年の歳月を要したといいます。 部落解放運動のない場所で、被差別部落の人がどのような人生を歩み、その歩みの中で、どのように<被差別>の意識を押し付けられていくか・・・、気の遠くなるような歳月が費やされるのです。

    差別するものは、「差別が何かしらない」と公言してはばからない。 天皇制という差別社会の中に生きていながら、近代身分制度の<天皇>の対極に、その身分制度の最下層に生きることをお押し付けられた<部落民>の存在を知りながら、それでも、「部落差別が何か、知らない」という。 認識不足と無関心さ、被差別の側から「差別だ」と指摘されても、被差別の側に生きるものの苦しみや痛みをすこしも理解しようとしない、できない人々・・・。 そのような人々によって、被差別部落の人々は、真綿で首を絞められるようにじわじわと差別され、疎外され、抑圧され、自分の人生と心の中に<被差別>を刻みこんでいかなければならなかったのです。

    支部長さんの話を聞きながら、わたしは、「部落を知らない」、「部落差別を知らない」というのは、最大の差別、最も深刻な差別であると思いました。 被差別部落は、日本全国どこにでもあったし、日本の近代・現代の歴史の中に、郷土の歴史の中に、その存在と、彼らが生きてきた様々な文化や技術が記録されているのです。 それにもかかわらず、「部落を知らない」、「部落差別をしていない」・・・と主張してやまない私たちの精神構造こそ、検証しなければならないことがらではないでしょうか。

    被差別部落の人々が、その<被差別>を認識していくのに時間と歳月を要するように、被差別部落の人々を<部落>として差別する差別者の<差別意識>も、こどもの頃から青年・壮年に至る長い歳月をかけて、ゆっくりとその人生とこころに<差別意識>を刻みこまれています。

    天皇制の枠の中で、限りなく、その最下層の<被差別部落の人々>から、無関心になり、疎遠になり、「部落を知らない」と発言しつつ遠ざかることによって、限りなく、その対極の、天皇制の頂点に立つ<天皇>に近づいていきます。 「育ちのよさ」を誇り、「由緒正しい家柄」であることを誇り、<天皇>制度の頂点に限りなく近づくことで、被差別部落の存在を、意識の外に追放してしまうのです。

    旧約聖書の伝道の書の中に、このようなことばがあります。 「わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た。 見よ、しえたげられる者の涙を。 彼らを慰める者はない。 しえたげる者の手には権力がある」。

    ドイツのキリスト者であり法学者でもあるラートブルフがその『法学入門』の見開きに書き込んだ聖書のことばです。 この言葉は、私たちキリスト者が、どのような視座に立たなければならないかを示しています。

    まず、権力を見上げることからはじめると、その権力の下であえぐ多くの民衆がなんとみじめで悲惨に見えてくることでしょう。 権力を見上げて、それから民衆や被差別民衆を見ることで、権力によって差別され、抑圧された痛みや苦しみ、その涙が見えなくなってしまうのです。 そういう状況では、権力の下であえぐ民衆の姿は、みじめさと暗さ、悲惨に色濃く彩られて見えることでしょう。 <差別>社会を民衆支配の道具としてつくりあげてきたのは、まさに権力そのものに他ならないのです。

    ラートブルフは、伝道の書の著者は、まず、権力によってしえたげられた被差別民衆に自分の目を向けることを求めます。権力の下で差別され、抑圧されているものの「涙」を見よ! というのです。その「涙」をみつめることができたとき、その人の目に「権力」はどのように映るのか・・・。民衆を差別者と被差別者に分断し、相互に憎しみと敵意を持たせることで、その怒りや闘いが権力そのものに向かうことを回避し、民衆支配を貫徹させようとする権力の悪しき意図が見えるではないか・・・。 キリスト者で法学者であるラートブルフは、ナチの政権掌握後すぐに公職追放の処分を受け、ハイデルベルク大学教授の地位を追われ在野に下った人物です。 政治的確信犯に対する死刑反対を唱えた法学者です。

    支部長さんは、「被差別部落の人は、職場において、仕事ができてもできなくても差別されるといいます。 仕事ができるから「あれは、部落じゃ」と言われ、仕事ができないから「あれは、部落じゃ」といわれる、できても、できなくても、部落だといわれて、職場からも社会からも疎外されていく・・・。 支部長さんは、部落差別の残酷さをそのように語りました。 どうして、部落出身であるということで、そのような重荷を背負わされなければならないのか・・・、支部長さんは、自分の話を閉じるにあたって、「まあ、わしの一代というのは、それぐらいなもんで、他にしいて変わったことはないでよ」と語られました。 被差別部落の人の生き方に、部落差別がどれほど深刻な影を落とすか・・・。 支部長さんの自分史を通して多くのことを考えさせられました。

    支部長さんの娘さん、青年部長さんは、『部落に生きて』と題された、S市の同和教育の研修会で、このように語られました。

    「多くの人は、<私は、差別しない。 したこともない。 部落差別なんて過去のことなんでしょう>と言います。 私の友人ですらそうです。 私が被差別体験を話しても、私の友達は理解できません。 私は、解放運動にであうまで、絶望して暮らしていました。 私の祖母の時代は、学校に行くとき石を投げられたそうです。私の父の時代は、父は会社に勤めていたのだけれど、会社で、<おまえはこれだ>と四本指を出されて会社へ行くのが嫌になってやめてしまいました。 その後、父は、日雇い労働をしながら、職場を転々としました。 私は、直接そのようなことを言われたことはありません。 でも、やはり、恋愛をしたり、結婚したりするということにすごく考えました。 最近の若い人は、部落問題についてほとんど知りません。 ある人に行ったことがあります。 <私は、部落出身なんですが・・・>。 その人は、<かまわないよ>と言いました。 その言葉自体はとてもいいのですが、でも、その人の心の奥にある<かまわないよ>は、<部落のことは、ぼくにはわからない。 全然知らない。 だから、あなたの気持ちもよくわからない・・・>そういう意味だったんです。 私は、敏感にそれを感じました」。
    (中略)
    「<差別はない、差別はない>と言われます。 それは、<差別があってほしくない>という願いとか希望とかを、現実と取り違えているからだと思います。 本当に部落差別がないのなら、「<私は部落民です>と言っても、なにの不利益も受けないはずです。 私がここに立って話をすると、差別をしようと思っている人は、「あれも親戚やから、あれも部落やろ」と頭をめぐらします。 結婚問題 とか、自分に関わる問題がでてきたときに、それを口にしだすのです」。
    (中略)
    「部落差別というのは、私たち市民が、すべて引き裂かれているという現実です。 そのことに、怒り、悲しみ、真心をこめて、差別を解決したいとは思わないでしょうか。 差別をなくそうとしても差別が起こる・・・それも事実です。 しかし、差別が起こってしまったとき、行政も市民も、その事件を解決する能力がないという、私たちは、それが悔しんです」。
    (中略)
    「水平社宣言を読んだとき、私は、思いました。 差別というのは、人間の誇りを奪いとっていくものなのです。 私たちは、その誇りを奪い返すために運動をするのです・・・」と話されました。

    部落差別は、被差別部落の人々の全生涯を通じて、押しつけられ、刻みこまれていきます。 差別は、その人一身にとどまらず、次の世代へと引き継がれていきます。 長い差別の歴史の中で、反差別の闘い、差別を乗り越えて、部落民としての希望と展望をつかもうとする運動も、それに匹敵する時間と歳月が要求されます。

    <被差別>を刻み込まれる歴史の長さを思いみるとき、それと同じ程度に、<差別>を植え付けられる歴史の長かったことも考えさせられます。 私たちが、日本の差別社会の中で展開される、学校教育や社会教育で、またさまざまな人間関係の中で、知らずしらずのうちに植え付けられてきた、<天皇制>という差別社会の遺産、<社会的>差別意識をどのようにしたら克服できるのでしょう。 本当に、時間と熱意をもって、自分自身と闘い、自分の内から<社会的>差別意識を取り除いていかないと、「心理的差別」を克服することはできないでしょう。

    差別の厳しい、解放運動がほとんど容認されない山口の地で、それでも、山口の部落解放の夜明けを願って、希望と展望をもって差別と闘いっている解放同盟S支部の人々の話を聞きながら、私は、民衆支配の道具として、<完成された部落差別>の状況をこのように考えるようになりました。 <差別>の側にあるものが、<差別意識>を自覚せずに、被差別部落の人々を差別してはばからない状態、そして、<被差別>にあるものが、差別されても差別されていることを自覚できない状態・・・、そういう状態のことではないかと思います。

    天皇制という、根本的な差別社会の中にあって、「部落差別を知らない」ということは、「差別から自由になっている」「差別をしていない」ということではなく、<完全な差別>の身に着けてしまっている、ということを意味しているのではないかと思わされるのです。 天皇制という、差別的枠組みの中で、民衆を分断し民衆によって民衆を差別させている力<権力>を意識しないで、<差別>の側にあるものと<被差別>の側にあるものが、互いに憎しみと敵意を持って生きる・・・、これほど悲しむべき、民衆の悲惨は姿はありません。 <差別>・<被差別>に無自覚であればあるほど、私たちは、差別を常に再生産する本当の敵、私たちが闘わなければならない相手を見失い、差別社会を肯定し、差別社会の体制を補完する機能をにないながら生きていくことになります。

    解放同盟S支部の青年部長さんは、「差別をなくそうとしても差別が起こる・・・(不幸にして)差別が起こってしまったとき、行政も市民も、その事件を解決する能力がないという、それが悔しんです」と語ります。 差別事件を解決するためには、民衆を「差別する民衆」と「差別される民衆」に分断し、「差別をつくりだす力(権力)」、この三者の差別構造を正確に見据えないと、正しい問題解決の展望を持つには至らないでしょう。

    ひとつの差別事件が、その共同体の啓発の機会となり、再び、二度と、同種の差別事件を起こさないためには、相応の努力が要求されるのです。しかし、それは、被差別にある人々のためにだけなされる行為ではありません。 「民衆」が、人間としての誇りを、本当の意味で取り戻すいとなみ、闘いでもあるのです。 部落解放の父と言われた松本治一郎は、「貴なければ賤なし」といいました。 天皇という「貴」が存在するところでは、「賤」は、繰り返しくりかえし再生産されていきます。 私たちは、そのことももっと自覚する必要があると思うのです。

        *差別思想としての「天皇制」・「賤民史観」は、日本の左翼主義思想家が作り出して用語です。

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目次

 『部落差別から自分を問う』の目次 はじめに 第1章 部落差別を語る  1. 部落差別とはなにか  2. 部落<差別>とはなにか  3. 部落差別はなくなったか  4. 部落の呼称  5. 認識不足からくる差別文書  6. 部落の人々にとってのふるさと 第2章 差別意識を克服する...