2023年8月28日月曜日

第2章第4節第4項 差別意識を自覚しつつ、差別行為をしない場合

    第2章 差別意識を克服するために
    第4節 差別意識とはなにか
    第4項 差別意識を自覚しつつ、差別行為をしない場合

    はじめて、解放同盟山口県連S支部の解放学級に参加したとき、私は、「自分の内にも差別意識があることを自覚しています。 しかし、差別意識があっても、差別しない人間になりたいと思います」と自己紹介しました。 神奈川教区のときに、完膚なきまでに叩かれた私の論理の再現でした。

    隔週火曜日に開かれるS支部の解放学級に参加したいと思うようになって一年かけて、祈り、準備をしました。 教会が創立以来毎週火曜日に守ってきた聖書研究祈祷会を、火曜日から水曜日に変更することを教会総会で承認してもらい、被差別部落の中で開かれる解放学級に公然と参加できるようになったのです。

    はじめて、被差別部落の集会に参加した日、その日は、ちょうど水平社創立記念日でした。被差別部落のおじさん・おばさんに大歓迎されました。 「はじめて部落に入ってきた牧師さんや」いうて。 そのとき、私が被差別部落の人々に対していたいた印象はこういう印象でした。 ふつう、部落差別の話をすると、そこに集まってきた人々の間に、どこか重苦しい空気が流れ、話が暗くなり、その場を逃げ出したい憂鬱と焦燥にかられるのに、この被差別部落の人々のあかるさはいったい何なのか。 差別する側は、暗い顔をしてひとごとのように部落について話をするけれど、被差別部落の人々は、差別されても、誇りと希望をもって胸をはって、差別と闘い、それをはねかえそうとしている・・・。 差別の側のまっくらな闇と被差別の側の真珠のような明るさを比較しながら、部落解放とはなになのか、部落解放同盟S支部の解放学級にキラキラ光る、人間としての真実な生き方を思い起こしながら、部落差別はなになのか・・・、毎日、毎日、考えるようになりました。

    「差別意識をかかえながら、差別しない人間になりたいと思っている」という私の言葉に対して、S支部の書記長をされている方が、「差別を前にして、わたしたちに糾弾する資格があるか・・・と問われたら、わたしたちにもその資格はない。わたしたち部落のものも、この差別的な日本の社会の中では、差別意識を持たされ、部落差別以外の差別においては、差別者となっていることを否定することはできない。 しかし、そう自覚している分、わたしたちは差別者ではない。 差別をしたときおに、差別をしているよといってくれる人がいたら、自分の差別性を自覚できる。 お互いにそうすることができるような関係をつくっていきたい・・・」。 水平社創立記念の日に、S支部の書記長さんは、部落の人はもちろん、学校の教師や宗教者を前に、このような発言をされました。

    神奈川教区が、どんなに私に問いかけても、見出すことができなかった、部落差別とかかわるときの姿勢が、部落解放同盟S支部の書記長さんのひとことで、つきくずされ、被差別部落の人々の部落解放運動をするときの希望と喜び、その闘いが何であるのかを知ることができたのです。 「自分の差別意識を自覚しつつ、差別しない人間になっていく・・・」。 いまの私に言えることは、部落差別に関わるときの、もっとも柔軟な姿勢は、この第四の
差別意識を自覚しつつ、差別行為をしない立場ではないかと思います。

    ここでいうところの差別意識は、同対審答申がいうところの「心理的差別」であって、人間の精神的内面に限定された差別<意識>だけを意味しているのではありません。答申にも明言されているように、「心理的差別」は、社会的差別<意識>としても存在しているのです。 個人的差別<意識>と社会的差別<意識>をあわせもつ概念が「心理的差別(差別意識)なのです。

    しかし、私たちが、二元論的な思考方法に埋没しますと、「心理的差別」は、かぎりなく個人の精神的内面へと押しやられ、差別発言や差別行為をした人の、個人的な差別<意識>の問題、その人の感性の問題として、個人の差別性の問題に還元されてしまうのです。

    そのような場面では、多くの人は、現実に生じた差別事象を、自分とは関係がない、差別発言をした人の個的問題であると・・・、第三者的に傍観者的に見てしまいます。 そのような雰囲気と理解の中では、私たちが、本当の意味で、部落差別に取り組み、イエス・キリストの解放の福音に生きることができるのでしょうか。

    差別事象があるとき、なぜ、それをとりあげなければならないのでしょうか。 差別発言に対して、また差別行為に対して、なぜ、その差別性が指摘されなければならないのでしょう。 被差別部落の人をことさら差別うするつもりはないのに、差別発言や差別行為に及んでしまう。 「わたしは差別意識をもっていない。 たまたま偶然に、無自覚的に失言したにすぎない」と弁明する前に、自分の内在する<差別意識>がなになのか、なにが問題にされているのか、考えてみたらよいと思います。 自分ではのぞみもしない差別意識が、自分の中にどっしりと根を張っているのを自覚することができるようになります。 差別的な日本の社会と文化の中で、わたしたちが知らず知らず身に着けてきた<社会的>差別意識です。 <社会的>差別意識は、天皇制と同じく、わたしたちの精神構造の無意識層に深く刻みこまれたものです。 わたしたちが、天皇制をはじめとする日本の社会や文化の負の遺産から完全に自由になっていない限り、どのような人の中にも、部落差別は、<社会的>差別意識として存在しているのです。 この<社会的>差別意識と自覚的に、意識的に闘い、それを克服しようとしないかぎり、それは、ますます私たちの心の奥深くに潜在して、わたしたちの<個人的>差別意識としてしか姿をあらわさなくなるのです。

    差別事件の解決は、差別をした個人の差別意識だけでなく、そのひとが所属している共同体の、そのひとが教区や教会に所属しているというなら、教区や教会に共通して保有されている<社会的>差別意識として問題にされ、問題の共有化が模索されなければ、差別事件の問題解決はできないのです。

    西中国教区に、部落差別問題特別委員会が設置されてから、十数年の歳月が流れました。 その間、実にさまざまな差別事象が発生しました。 しかし、その差別事象の多くは、<個人的>差別意識に根ざすものと理解され、それが<社会的>差別意識として全教区的に認識されるということは、ほとんどありませんでした。 牧師や信徒の差別発言が、教区や教会内に内在する<社会的>差別意識のあらわれとして受けとめられ、教区や教会に所属するひとりひとりが、その差別意識が問われる・・・、ということがありませんでした。

    「なぜ、被差別部落出身であることを名のり、強調するのか。 黙っていればわからないのに・・・」という発言も、「部落差別は目に見えない。 黙っていればわからない・・・」という発言も、「部落出身だとわかっても触れないようにしよう」という発言も、<個人的>差別意識というよりは、<社会的>差別意識であるといったほうがよいでしょう。 差別的現実を、個人的にとらえるのではなく、全共同体的にとらえなければ、この問題を解決することはにはつながらないのです。

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目次

 『部落差別から自分を問う』の目次 はじめに 第1章 部落差別を語る  1. 部落差別とはなにか  2. 部落<差別>とはなにか  3. 部落差別はなくなったか  4. 部落の呼称  5. 認識不足からくる差別文書  6. 部落の人々にとってのふるさと 第2章 差別意識を克服する...