2023年8月24日木曜日

第2章第3節 繰り返される差別発言

    第2章 差別意識を克服するために
    第3節 繰り返される差別発言

    M委員の差別発言は、さらに深刻な問題を含んでいます。

    それは、M委員が、「障害者差別は目に見える」「部落差別は目に見えない」という二つの命題から引きずり出した結論、『(部落出身であることは)黙っていればわからない・・・ 」という表現に内在しています。

    1992年、日本基督教団部落解放センターは、創立10周年を記念して、北海教区から沖縄教区まで、全国の教区を部落解放の推進のために全国キャラバンを行いました。

    西中国教区では、広島キリスト教社会館をはじめ、広島・山口・島根の三か所で集会がもたれました。 山口の集会でK牧師の、「なぜ、被差別部落出身であることを名のり、強調するのか。 黙っていればいいのに。 いまさら、ことさら部落出身を名のることはないのに・・・
」という発言が、全国キャラバンに参加していた被差別部落出身の牧師に投げかけられました。

    そのとき、彼らがどのようにそのことばを受けとめたのか、全国キャラバンの総括ともいうべき、『部落解放一万二◯◯◯キロの旅・走れキャラバン』という本に報告されています。 その中で、「この発言は<部落出身を誇りにするな、部落出身ははずかしいことであり、隠して生きていきなさい>ということを主張していることになる」という指摘がなされています。

    「この考えは島崎藤村著『破戒』の主人公瀬川丑松の生き方である。 丑松は部落出身を「恥」と考え、隠して生き、最後に教え子の前で手をついて頭をさげ、部落出身を告白し、そしてアメリカへ逃げて行く。 そこまで逃げて行けば差別されない、という。』だから、部落の者は丑松のように逃げさえすれば差別されないで生きて行ける、ということを言っている。 言葉を変えて言うならば、部落の者は差別から逃避し、差別に立ち向かうことをやめて生きていきなさいと奨励していることになる・・・。 「ことさら部落出身を名のることはないのに」という発言は、部落差別をなくそう、部落を解放しようと頑張って運動をしている部落大衆にとって許すことのできない発言である。」

    被差別の側からの怒りが伝わって来るような文章です。 さりげなく語られたひとことが、被差別にあるものに、どれだけ深刻な衝撃をあたえ、そのこころを深く傷つけたか、被差別の側が感じざるを得なかった悲しみや怒りがこの文章にはみなぎっています。

    キャラバン隊のT牧師が、そのあと、山口県のO教会で話されたことがありますが、その集会で、島崎藤村の差別性について、このような話をされていました。 島崎藤村が丑松のモデルにした学校の教師は、小説『破戒』の主人公・丑松と違って、部落から、部落差別から決して逃げなかった。 事実はまったく逆に、部落に生き、部落出身教師として、最後まで差別と闘い、部落民としての誇りに生きて行ったのだと。 しかし、島崎藤村にとっては、そのような部落民を受け入れることはできなかった。 島崎藤村にとっては、部落民は、部落から、部落差別から逃避する人間であってほしかった・・・。 現実の部落出身教師をモデルにしながら、現実の部落民とはまったく違う、丑松を、教え子の前で土下座させ、そこから逃避させた・・・のは、島崎藤村の<差別性>のあらわれだと。

    K牧師が、「ことさら部落出身を名のることはないのに」と発言したこと、それが被差別の側から、差別発言であると使役されたこと・・・、それは、
K牧師一人のものではありませんでした。 もし、その発言がK牧師の個人的経験や資質によるものだとしたら、同じような発言は二度と西中国教区の牧師のくちから語られるというようなことはなかったでしょう。 しかし、K牧師の発言と、内容的にまったく同じ発言が、西中国教区の宣教研究会発行の文章の中に差別性について検証と問題解決にあたっている、当の宣教研究会委員の一人A牧師によってなされるということは、そのような差別意識が、私たちの中に、単に個人的な差別意識としてだけでなく、社会的な差別意識として潜在化・普遍化しているためではないでしょうか。


    西中国教区の中では、K牧師の発言は、それ以降話題にあれるということはありませんでした。 M牧師の発言も、西中国教区の教会や、牧師・信徒の中で発生している、決して少なくない差別事象 (差別発言や差別行為) と同じく、どぶ川に浮かぶあぶくのように、いつしか消えて行ってしまうのでしょうか。 「認識不足である」「差別発言である」との指摘のむなしさのみを残して・・・。

    しかし、K牧師やM牧師の<差別発言>は、決して彼らの個人的差別意識に還元できるものではありません。このような発言は、彼ら以前にも存在していたし、西中国教区や教会、牧師や信徒が、明確に、このような発言が<差別発言>であることを認識して、自分たちの主体をかけて、内側から意識的に取り除く作業をしない限り、これからも、教区や教会で発言され続けることになるでしょう。

    K牧師の発言が、個人的な<差別意識>ではなく、社会的な<差別意識>として認識され、その発言に対する被差別の側からの問題提起が、もっと真剣に教区・教会、牧師や信徒に受け止められ、自分たちの差別性を見直す機会になっていたら、おそらく、今回のようなM牧師のような発言が生じることはなかったでしょう。 「障害者差別は目に見える。 しかし、部落差別は目に見えない。 (部落出身であることは)黙っていればわからない・・・ 」というような差別的な発言が再生産されることはなかったでしょう。

    
『部落解放一万二◯◯◯キロの旅・走れキャラバン』に書かれている西中国教区に対する、被差別側からの批判んは、『丑松になれ」という差別思想に対する批判だけではありません。

    <次のような発言もあった。 教会で部落差別に取り組めば、教会から「取り組みをやめてほしい」とか、「ほどほどにしなさい」とか、注意されたり、警告を受けたりした」と。 この発言は教会で部落差別問題に取り組む時、最初に出てくる壁である。 なぜこのような発言が出てくるのか、またなぜ公開で部落差別問題に取り組んではならないのか。 理由は簡単である。 教会は長い間、部落差別から遠ざかり、問題にしてこなかった。部落の人が教会に来ることをいやがり、また部落に伝道することをさけてきた。 それだけでは飽き足らず、部落の人を教会から排除してきた。 同じキリスト・イエスのもとにいるといいながらも、信仰と現実とは違うのだという態度を取ってきた。 信仰は心の問題であり、信仰の領域に現実の問題が入ってくることを拒み続けてきた。 言葉をかえて言うならば、信仰の領域に現実のぞろぞろした問題を取り入れて欲しくなかったのである。 部落差別は信仰外の問題で、教会の中で取り扱う問題ではなかった。 むしろ、教会外の所で取り扱う問題であり、教会の中で持ち込むことはタブー視されてきた。 特に部落差別問題は教会の中に取り入れられることはなかった。 教会の中で差別事件が起こったとしても、そのことは教会の問題にはならなかった。 信仰があればこの問題は解決されるのだと考えた。 現実の問題から逃避し、自分の救いを完成させるために信仰生活はあるのだと考えた。 イエスが現実の問題を自分の生活のではないかに取入れ、その問題を担っていくことが、すなわち信仰の本質であると教えておられるのに、聞こうともしなかった・・・。>

    長い引用になりましたが、西中国教区とその諸教会・牧師と信徒に対する、福音的挑戦のようなこの文章の中で、「教会の中で差別事件が起こったとしても、そのことは教会の問題にはならなかった・・・」と指摘されていることは、私たちが、決して看過してはならないことがらでしょう。

    差別だと指摘されなかったことは、無意識のではないかで生き続けます。 問われなかった差別事象 (差別発言、差別行為)は、新たな差別事象の温床になります。 反差別の意識を明確に持たない限り、私たちは、差別の虜になってしまいます。 宣教研究会委員M牧師の「(部落出身であることは)黙っていればわからない・・・」という発言は、西中国教区の教会、牧師・信徒の差別的体質の<どぶ川のあぶく>のようなあらわれなのです、

    また、同じような<差別発言>が、K牧師とM牧師の発言した時期のちょうど中間時点でありました。

    西中国教区のY分区の役員研修会でのことでした。 T牧師は、教会にもう一度、青年を呼び戻すためには、教会や分区で結婚相談制度を導入してはどうか、という提案をされ、そのあとに、このような発言をされたのです。 「西中国教区は長い間、部落差別問題と取り組んできて、差別から自由になっているのだから、牧師も、教会に来ている青年が部落出身であるとたとえ知っていたとしても、それを伏せて紹介することに決めたらどうだろうか・・・」。

    Y分区は、70年問題以前は、教会にも青年の姿がかなり見られました。 そして分区間での教会で、結婚相談が行われ、各教会の青年の情報が分区の他の教会へと伝えられました。 結婚は、直接プライバシー、に触れることになるので、慎重にすすめられたと思うのですが、しかし、あるとき、その当時の結婚相談に関する資料を見たことがあります。 その名簿の中に、「在日」という注がありました。 分区や教会が、青年を相手に紹介するとき、「在日
」朝鮮人か韓国であるかないのか、紹介するかしないかの判断の材料にしていたことを示しています。 その名簿には「部落」という注はありませんでした。 A分区の某教会の役員の方にお聞きすると、「<部落>という注をつけなくても、誰が部落出身であるのか、それぞれの教会の担当者はみんな知っていた。 だらか、つける必要がなかった・・・」ということでした。 教区・分区には、「(部落出身であることは) 黙っていればわからない・・・」という声がある一方で「(部落出身者であることは) 名のらなくても知っている」という現実も存在しているのです。 Y分区の結婚相談の制度は、今は瓦解して存在していませんが、T牧師は、青年に対する伝道の手段として、それを復活しようと提案したのです。 「復活するにしても、分区や教会は、長い間部落差別問題と取り組んできたのだから、被差別部落に対してもはや差別意識をもっていないし、差別もしていない。 それらのことは<内緒>にしてものごとをすすめよう・・・」そのような提案をしたのです。

    T牧師の発言の内容は、矛盾に満ちたものでした。「部落差別から自由になっている・・・」それは何を意味するのでしょう。 西中国教区の部落差別問題特別委員会の委員を8年経験して、私が認識した、教区や分区、教会の現実は、非常に差別的なものでした。 部落差別から自由になっているどころか、部落差別にどっぷり浸かって、自覚的・無自覚的に差別意識に包まれた人々の姿でした。 T牧師も、「部落差別から自由になっている・・・」といいながら、「教会に来ている青年が部落出身であるとたとえ知っていたとしても、それを伏せて紹介することに決めたらどうだろうか・・・」ともいうのです。 T牧師にとっては、部落出身であることは、伏せなければならないことがらだったのです。隠しておかなければならないことがらだったのです。 「教会に来ている青年が部落出身であるとたとえ知っていたとしても、それを伏せて紹介することにきめよう」という提案は、被差別部落出身の青年に、教会の中では、被差別部落出身であることを語るな、たとえ語ったとしても、分区や教会では聞かなかったことにする・・・、それを分区や教会の方針にするということを意味しているのです。 「部落差別は目に見えない。 (部落出身であることは)黙っていればわからない・・・」という宣教研究会委員M牧師の考えを、教会形成の中で具体化していくと、やがては、T牧師の発言につながっていくのではないでしょうか。

    もちろん、被差別部落の青年の出身を、本人の意思を抜きにして、他の人に告げたりおおやけにするのは、ただそれだけで重大な差別発言・差別行為にあたります。 身元調査差別事件・結婚差別事件に発展します。 私が言いたいのは、教会が、ほんとうに「差別から自由になる」というのは、「部落差別に触れない」、「部落差別を見ても見ぬふりをする」、「部落出身であることを知っても、なにも知らなかったかのように交わることができる」・・・という状態を意味しているのではないということです。 教会が差別から自由になているということが本当なら、被差別部落出身の青年は、何も教会の中で、被差別部落出身であることを隠す必要も、また、牧師が、部落差別出身者であることを知っているのに、なにも知らないかのように振る舞う必要もないのです。 それどころか、被差別部落出身の青年が、イエス・キリストの福音に触れ、その福音理解とイエス・キリストに対する信仰と服従の故に自分の十字架を背負うて、部落民としての誇りと自覚を持って、部落民として部落解放のために、福音の前進のために、同じ信仰を持った部落出身でない青年と結婚する、そして二人で力を合わせて、教会とこの世に、差別なき社会をつくっていく、そのような希望に燃えて新しい人生の出発をする、そのような場合も起こりうると思うのです。 隠すのではなく、「人間性の原理にめざめ、人類最高の完成に向かうという目標
」に、若い二人が旅立つ・・・ということもあるのです。

    1992年の夏、日本基督教団京都教区の夏期研修会に参加した、神奈川教区の黒沢ミエコさんは、このように報告しています。

    「今夏、京都教区部落差別問題研修会に参加し、最終日に起こった劇的な出来ごとを報告したい。 それは、若い男女が、これから九州の女性の親元に行くというのだ。 彼は部落出身の人、彼女の親はそれを聞いてから、真っ向から結婚に反対し、彼には絶対に会おうとしない。 でもむすめが親に反抗して家を出ていくのは困る。 部落出身の人間とつきあっていたことがバレルから・・・」と。 そこで、研修会最後の朝、その若い二人はこれから親に会い、話し、理解してもらうために<のりこんでいく(まさにその通りなのだ
)と。 我々は万雷の拍手を送った。 彼女は泣いていた。 「がんばれよ!」、「勇気を出せ!」の声をあとに二人は出て行った。 皆さん、これが、1992年の8月18日(の京都教区夏期研修会の部落解放の)現実なのです。」(神奈川教区社会部通信第25号より

    T牧師の、
教会に来ている青年が部落出身であるとたとえ知っていたとしても、それを伏せて紹介する」という提案は、被差別部落の青年に無言のうちに、丑松であることを強要することであり、差別以外のなにものでもないと思うのです。

    第2回委員会で、「日本キリスト教団の部落解放運動の目的な何ですか・・・」という」質に対して、東岡牧師は、「被差別部落出身の青年が自由に結婚できるような教会とその時代をつくること」と答えられました。 その時、東岡牧師の脳裏にあった、被差別部落出身者の青年の結婚のイメージは何だったのでしょう。 島崎藤村の小説に出てくる丑松のような結婚ではなく、そのモデルとなった実在の部落出身教師の、部落であることの誇りと自覚を持って、差別と闘いながら生きるものの結婚ではなかったかと思います。 丑松を好きな志保がいたにもかかわらず、差別に負け、志保を捨て、ふるさとから離れていった丑松のそれではなかったと思うのです。

    私たちは、西中国教区の教会で牧会をしている、またしたことのあるK牧師・M牧師・T牧師・・・、かれらの発言は、同じ差別性で通底しているのです。 そしてその差別性は、部落差別に無関心で、拒否する、私たちの教区や分区、教会の中に、牧師や信徒の中に、深く、重く、通底しているのです。 そのような差別性、私たちにまとわりつく差別性から、私たちはどのようにして自由になることができるのでしょうか。

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目次

 『部落差別から自分を問う』の目次 はじめに 第1章 部落差別を語る  1. 部落差別とはなにか  2. 部落<差別>とはなにか  3. 部落差別はなくなったか  4. 部落の呼称  5. 認識不足からくる差別文書  6. 部落の人々にとってのふるさと 第2章 差別意識を克服する...