2023年8月25日金曜日

第2章第4節 差別意識とはなにか

    第2章 差別意識を克服するために
    第4節 差別意識とはなにか

    ところで、<差別意識>とはなになのでしょうか。

    『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章にこのような表現があります。 「この問題(部落差別問題)を・・・意識の問題とだけ考えてる人たちがいますが、現象的には一理あるとしても・・・ 」と、この文章の著者は、部落差別は、差別者の<差別意識
>に根差して発生するという認識に限定的であってもそれなりの理由があることを容認しているのですが、それでは、<差別意識>とはなになのか、なにの説明もありません。

    西中国教区やその教会にとって、より大切なのは、また、教区の部落差別問題特別委員会の避けることのできない課題は、被差別部落の実態的差別(政治的・社会的・経緯剤的差別)の撤廃を訴えるだけでなく、教区や教会の内部にある、差別意識の克服ではないでしょうか。

    差別事象(差別発言・差別行為)があったとき、多くの場合、差別した人々から。「私には、差別意識はなかった。 無自覚的に、無意識的に、偶然、差別発言をしてしまった。 私のひとことが、被差別部落の人を気づ付けるとは気がつかなかった・・・」という弁明を聞きます。 そのとき、使われている「差別意識」という言葉は、私たち人間のこころの内側の自覚を指して用いられています。 差別意識は、<差別意識>としてではなく差別<意識>として理解されているのです。

    同対審答申では、差別意識は、<心理的差別>という言葉で表現されています。 「心理的差別とは、人々の観念や意識のうちに潜在する差別であるが、それは言語や文字や行為を媒介として顕在化する。 たとえば、封建的身分の賤称をあらわして侮辱する差別、非合理的な偏見や嫌悪の感情によって交際を拒み、婚約を破棄するなどの行為にあらわれる差別である」と。 答申では、差別意識は、差別<意識>と差別<行為>の両方の概念を含む広義の意味で用いられています。 これは、差別<意識>が、差別<行為>と深く結びついているとの客観的認識に基づきます。 「封建的身分の賤称をあらわして侮辱する」差別発言も、「
非合理的な偏見や嫌悪の感情によって交際を拒み、婚約を破棄するなどの」差別行為も、心理的差別として認識されているのです。 答申には、意識と行為を二元論的に分離させるような認識はありません。

    しかし、過去、西中国教区や分区、教会でおきた差別事象を検討してみますと、「差別であると指摘されたとき、そう指摘された人々は、多くの場合、この二元論的な枠の中に自分を逃避させ、自己の差別性をあいまにしてしまいます。

    旧約聖書の中に、アダムとイヴが神の戒めを破ったとき、二つの木の間に身を隠そうとする場面が出てきますが、差別事象を他の人から指摘された人は、まず、差別<意識>と差別<行為>の間に亀裂があること、そしてその亀裂の中に自分の差別性を隠そうとします。

    西中国教区の部落差別問題特別委員会の委員として、部落差別に関わるようになって、私は、この意識と行為との間に横たわるギャップを一歩踏み込んで理解するようになりました。 観念的な分類ではなく、様々な事象を前にして自然にそのような認識を持つにいたった・・・といった方が適切でしょう。

    差別<意識>と差別<行為>をめぐって、4通りの見解があります。 <差別>の側に自分の身を置くものとして、誰でも、4通りの認識を持つ可能性があるのです。

    (1) 差別意識を自覚しつつ、差別行為にのぞむ
    (2) 差別意識を自覚することなく、差別行為にのぞむ
    (3) 差別意識を持たず、差別行為もしていないと主張する
    (4) 差別意識を自覚しつつ、差別行為をしない

それぞれの場合です。 観念的・抽象的な分類に堕することがないよう、上の4通りの場合について、ここ10数年の間に生じた西中国教区の教会内外の差別事象を例にとりながら論を進めていきます。


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目次

 『部落差別から自分を問う』の目次 はじめに 第1章 部落差別を語る  1. 部落差別とはなにか  2. 部落<差別>とはなにか  3. 部落差別はなくなったか  4. 部落の呼称  5. 認識不足からくる差別文書  6. 部落の人々にとってのふるさと 第2章 差別意識を克服する...