2023年8月29日火曜日

第3章第1節 部落は近くにない

    第3章 差別意識の諸相
    第1節 部落は近くにない

    十数年前、今、牧会している教会に赴任してきた次の日、教会員のFさんがやってこられて、このような会話をしました。

    F: 教会の近くには被差別部落があります。 そのつもりで伝道してください・・・。
    筆者: そのつもりというのは、どういうつもりですか・・・?
    F: 教会にも、被差別部落から来ている人がいます・・・。
    筆者: 誰ですか?
    F: わたしの口からは言えません。 そのうちわかります・・・。
    筆者: そのうちって何時ですか?
    F: そのうちです。

    そう言って、Fさんは帰って行きました。 しかし、私の関心は、教会の近くに被差別部落があるかないか、教会に被差別部落の人がきているかいないかにではなく、もっと別なところにありました。 Fさんの言葉は、ただこころにとめて、もうひとつの関心に気持ちが移っていきました。

    というのは、その教会の前任の牧師が、教会で自害された・・・という事実が、私の上に重くのしかかっていたからでです。 赴任が決まったあとで、西中国教区議長と執行部の牧師から、前任者が自害されたこと、「そのような負い目を負った教会の宣教は難しいから、2~3年がんばって難しいと思ったら、教会関係者の〇〇さん(現住陪餐会員ではない)と話をして、教会を閉鎖してください・・・」と聞かされていたからです。 バルト神学にのめり込んでいた私は、「自殺も罪の一つに過ぎない・・・」と理解して、現在の教会に赴任しました。 赴任した次の日、教会の裏の道を通って行く人が、「この教会は、首括りの家よ・・・」と話しあっているのが聞こえてきて、教会の置かれた状況の厳しさにショックを覚えていました。

    私が牧会している教会の教会員は、教会の近くには被差別部落があります・・・」と表現していましたが、西中国教区の部落差別問題特別委員会の委員になって、いろいろな教会の牧師や信徒の方に、部落差別問題と取り組むように訴えていく過程で、「
教会の近くには被差別部落があります」という表現と正反対の表現、「教会の近くには被差別部落はありません。 だから、教会は、部落差別問題と取り組むことはできません・・・」という言葉を何度か耳にしました。

    私は、山口の教会に赴任してくるまでは、山口の地に、知人・友人は一人もいませんでした。 ですから、被差別部落がどこにあるか、知っているはずもありません。 それに、<被差別部落がどこにあるのか、調べることは差別行為である・・・>と漠然と思っていましたので、長い間、山口の教会の牧会をしてこられた牧師や、地元出身の教会役員をされている信徒の方々から、「教会の近くには被差別部落はありません」と言われると、「そうですか・・・」と文字通り受け止めざるをえませんでした。

    どこに被差別部落があるのか。 それを知るようになったのは、部落解放同盟山口県連S支部の解放学級に参加するようになってからのことです。 ある日、部落解放同盟山口県連の松浦委員長から、「同和関係地区一覧表」をいただきました。 そこには、山口県の市町村名・世帯数・人口・同和地区数・世帯数・人口・世帯別地区数の内訳がリストアップされていました。同和対策審議会答申が出された前後の調査資料で、山口県には、158の被差別部落が存在し、そのうち91が地区指定を受け、67の地区が未指定地区であるとの数字が並んでいました。 私は、「同和関係地区一覧表」と「西中国教区教会・教師名簿」を比較してみました。 それでわかったことは、日本基督教団西中国教区の教会がある場所には、必ず被差別部落が存在しているということです。 被差別部落があるのに教会が存在していない場所はたくさんありますが、教会があるのに被差別部落が存在しない場所は一か所もありませんでした。 ということは、山口県にあるどの教会も、宣教活動や伝道活動の範囲に、必ず被差別部落を含む・・・ということを意味しています。 日常生活の中で、牧師も信徒も、被差別部落となんらかの接点をもっているということをも意味しています。 それなのに、なぜ、教会は、「教会の近くには被差別部落はありません。 だから、教会が部落差別問題と取り組むことはできません・・・」というのか納得することはできませんでした。 教会と被差別部落の間の距離が、<近い>か<遠い>か・・・、それは、物理的な距離ではなく、心理的な距離を意味していたのです。 信徒の方が、「自分の住んでいるところから、被差別部落は遠いので・・・」と言われる場合でも、その人が住んでいる場所から、道1本、通り1本隔てただけの向かい側が被差別部落であったりします。 「教会の近くに被差別部落はない」という表現は、教会として、被差別部落にも、部落差別問題にもかかわりたくないという差別的な意思表明だったのです。

    今の教会に赴任したとき、教会員から、私に要望が出されました。 自害した前任者は<社会派>牧師で、教会の中にいろいろな社会問題を持ち込みました。しかし、今度きた牧師には、社会問題とかかわってほしくない。<福音派>の教会形成をしてほしい。できれば<純福音>の教会形成をしてほしいと。 私は、<いいですよ。 みさなんが純福音の教会になることをお望みなら、そうしましょう。 皆さんも純福音の教会に相応しい信仰者になってください。 社会問題ではなく、福音宣教の教会にしていきましょう>と答えました。

    しばらくして、教会の集会案内を配ることにしました。いわゆる伝道トラクトの配布ですが、礼拝出席者が10数名の少人数の教会ですから、できるかぎり広範な地域にトラクト・チラシを配布するためには配布をみんなで分担しなければなりません。 私は、教会の役員の方に住居地図をコピーしてもらって、」それと教会員名簿を照合しながら、どの地区に誰がチラシを配布するか配分計画を立てました。 そして一人ひとりに、「あなたが住んでいる、この地区にチラシを配布してください」と地図を指さしながらお願いしました。 みんな、こころよく受け入れてくださったのですが、その配分方法について、あとで問題が出てきました。 Kさんが、「今度来た牧師は、わたしに遠い場所にチラシを配れといった」と不満を言っているといううわさが耳に入ってきたのです。 私は住居地図とKさんの住所を念入りに照合したのですが、なにも問題があるようには感じませんでした。 Kさんが、教会の礼拝から遠ざかるようになって、初めて、他の信徒の方から、「牧師さんが、Kさんに被差別部落に行ってチラシをまけといったので、Kさんは、牧師がそんなことを要求する教会には行けないと、教会から遠ざかってしまった・・・」、という話を聞かされました。 他の信徒の方の説明ですと、Kさんの家の前の通りから、被差別部落になるということでした。 Kさんが<遠い>と表現した場所は、ほんとうは、Kさんにとって、最も<近い>場所であったわけです。

    教会を純福音の教会にしたいという教会員の要望で、信徒の<純福音化>をはじめた牧師と教会役員会は、(1)主日礼拝・聖書研究祈祷会の厳守、(2)十一献金の励行、(3)福音伝道の推進、  (4)牧師の家庭訪問と高齢信徒の配慮・・・などを具体的に検討していたのですが、<純福音>の教会にしたいと言っていた教会員たちが、「それが純福音の教会であるというなら、この教会を純福音の教会にしてもらわなくて結構です。」と言い出し、教会の<純福音教会化>計画は頓挫させられることになりました。

    蛇足になりますが、戦前の1935年の調査では、広島県の被差別部落は426地区、、島根県の被差別部落は154地区にのぼります。 山口県と同様、西中国教区の教会の存在している地域で、被差別部落がない地域は存在しないと思います。 教会にとって、被差別部落は<遠い>存在ではなく、とても<近い>存在であるといえます。

    西中国教区部落差別問題特別委員会で、分区・教会に対して、部落差別問題との取り組みをするよう働きかけたことがあります。 『教区月報』や、印刷物を配布しただけでは、なかなかすすみません。  それで、各教会の牧師・役員に取り組みを促すことにしました。西中国教区は、「教団の中でも先駆的に部落差別問題と取り組んできた教区」というイメージをもっていた私は、相応の期待をもって分区・教会に働きかけました。 しかし、分区・教会の反応は、まったく消極的なものでした。 そのような、委員会活動の中で、私は、西中国教区の分区や教会に存在するさまざまな<差別意識>に直面することになりました。 教区・分区・教会に存在する<社会的>差別意識は、日本の社会に一般的に存在する差別意識とそれほど違いはありませんでした。

    差別意識について論じた本は多々あります。 しかし、ここでは、抽象的に論じるのではなく、西中国教区、特に山口県の諸教会に内在する差別意識について具体的に論じてみたいと思います。 広島県・島根県の諸教会についても同様の論述を展開したいのですが、部落解放運動は、県や市町村の行政単位で行われる場合がほとんどです。 同じ西中国教区の分区・教会と言っても、広島・山口・島根の各県では、被差別部落の歴史と現状におおきな違いがあります。 また、被差別部落の人々による運動にも、かなり大きな違いが存在しています。 現実に根差した部落差別問題を取り上げようとしますと、広島・山口・島根の諸教会を一律に論じることはできません。 やはり、それぞれの歴史と現状、部落の側の運動の状況をも視野に入れながら、論ずる以外にはありません。

    1988年頃、部落差別問題特別委員会で西中国教区の総会資料に掲載された、「教会活動総括」に報告された部落差別問題の取り組みの内容を検討したことがあります。 山口県のH教会は、教団の部落解放センターから学習ビデオを借りて、それを牧師と信徒が一緒に見て、部落差別問題についての研修のひとときをもったという報告です。 そのとき、研修会に参加していた高齢信徒の方が反発して、牧師に対して、「そんなに部落差別のことをいうなら、自分の娘を嫁にやれ、わしゃ、嫌じゃ! 」と差別発言も出てきたが、教会全体としてはよい学びのひとときとなった・・・という意味の報告でした。 それを部落差別問題特別委員会の機関紙発行の準備号に掲載したところ、H教会の牧師から、抗議の電話が入ってきました。

    西中国教区の総会資料に、「H教会の部落差別問題との取り組みを載せることについてはなにの問題も感じないが、部落差別問題特別委員会の機関紙にそれを紹介するのは、問題がある」というのです。 私としては、あまり部落差別問題と取り組みがない教区や分区の状態の中で、H教会はよく取り組みをしている・・・という意味で、好意的に紹介記事を書いたのですが、「非常にまずいことをしいてくれた」と言われるのです。 私も、差別をなくしたいという思いをもって書き始めた機関紙に差別表記を載せてはいけないので細心の注意をはらって書いたつもりです。 H教会の牧師から指摘を受けた最初、なにか差別的なところがあったのかと戸惑ったわけです。

    不安の思いを持って、「なぜですか・・・?」と尋ねると、「あの記事を読んで、教会に来ると困るから・・・」、という答えが返ってきました。 「誰が来るんですか?」と再度尋ねますと、「被差別部落の人が来ると困るから・・・」と言われるのです。 H教会の牧師は、さらに続けて、「次号で、前号に掲載したH教会に関する記事は、委員の事実誤認で、H教会は、部落差別についてなにの取り組みもしていない。牧師も信徒も差別的であると批評してもいいから、H教会が、部落差別問題に前向きに関わっているという記事を撤回してほしい」と言われたのです。

    H教会の牧師の発言の前提は、「教区・分区・教会には、被差別部落出身者はいない。 だから、H教会が、教区総会資料に掲載する教会活動報告に<H教会が部落差別問題と取り組んでいる>と言っても、それ以上なにの問題も起こらない。総会資料が、被差別部落の人々の手に渡ることはまず考えられない。 しかし、教区の部落差別問題特別委員会の委員会報は、教区外・教会外にも配布され、いろいろな人に読まれる可能性がある。 H教会の近くの被差別部落の人が、教会に来て、牧師に、<お前のむすめを嫁にくれ>と言ってきたらどうするのか・・・」。 H教会の牧師の電話の声には、なにかおびえたような響きがありました。

    当時、H教会の牧師は、西中国教区宣教研究会の委員の一人でした。 『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章に関しては、見直し作業が行われず、差別を再生産しかねない「五本目の指を
」という表題と、その詩を掲載し続けたと批判された、当の宣教研究会の現実を示すできごとでした。

    H教会のある町には、「五本目の指を」の詩が収録されている詩集『部落』のもうひとりの著者・丸岡忠雄さんの住んでいる被差別部落がありました。 H教会の牧師は、「教会の近くには被差別部落はありません。 だから、教会が、部落差別問題と取り組むことはできません・・・」というのではなく、「教会の近くに被差別部落があります。 だから、教会が、部落差別問題と取り組むことはできません・・・」と主張していたのです。

    西中国教区の諸教会においては、教会の近くに被差別部落が存在していてもしていなくも、それが、教会が部落差別問題と関わることができない理由になるのです。 被差別部落が教会の近くにあるから部落差別問題と取り組めない、近くにないから取り組めない・・・、それは、教会や牧師・信徒が<教会は部落差別問題に取り組みたくない>、その意思表示をするための単なる方便でしかなかったのです。

    H教会の牧師は、それでもなにとか部落差別問題と取り組まなければならないと発言を繰り返しながら、やがて、「教会の中には、被差別部落の人がいません。 だから、牧師一人が取り組みをはじめても、教会員が誰も協力してくれない状況では、部落差別問題と取り組むことはできない・・・」と考えるようになったと言います。 「協力してくれる人がいれば、本当に取り組みができるのですか? 」と、H教会の牧師の真意を確かめるように語りかけたのですが、大学生のとき、学生部の執行部として〇〇大学で〇〇闘争に参加してきた彼の言葉にうそいつわりはないであろうと一つの事実を告げることにしました。 「あなたの教会の〇〇さんの息子さんは、解放同盟山口県連〇〇支部の支部長さんです。 彼と話をすれば、きっと協力してくれるでしょう・・・」とためらいの思いを持ちながら伝えました。 教会の外に部落解放運動の関係者がいるのではなく、教会の内に部落解放運動の直接の関係者がいる、そのことは、H教会の牧師にとって、教会が部落解放運動にかかわる一歩になると思ったのですが、H教会の牧師は、急に任地が決まったとかで、あわただしく、他の教会に転出して行かれました。

    「教会に、被差別部落の人がきていないから、教会は部落差別問題に取り組めない」「、教会に、被差別部落の人がきているから、教会は部落差別問題に取り組めない」・・・、西中国教区の教会では、二律背反のまったく異なる理由で、「教会は、部落差別問題に取り組むことはできない」というい同じ結論を導き出すことができるのです。

    教会の近くに被差別部落があろうとなかろうと、教会の中に被差別部落出身の人がいようといまいと、教会は、部落差別問題と正しく認識し、<社会的>差別意識を克服する努力をしなければならないのではないでしょうか。

    当時の宣教研究会の他の委員も、このような発言をしていました。 「教会の近くには、被差別部落があります。 しかし、ここの地域は差別が厳しくて・・・。 教会はとても部落差別に取り組める状況ではありません。 牧師が一時的に取り組んでも、教会員があとに続いてこないでしょう」。 彼がいうように、牧師は、教会のある地域の人にとっては、確かに<余所者>でしょう。 しかし、<余所者>は、地域の人が見ることを避けて通っているさまざまな現実を客観的に見ることができる立場にあります。 「ここの地域は差別が厳しくて・・・」というその牧師の言葉に偽りはないでありましょう。牧師も教会の役員も、差別が厳しいから・・・という理由で避けて通っている、その教会で、前述した、教会員によって、「あいつらは、これだ」といって四本指を突き出す、典型的な差別事件が起きたのです。

    広島キリスト教社会館で開催された、1995年度の部落解放夏期研修会で、「(牧師である)私にわからないのにどうして教会員にわからせるのか・・・」という発言があったと分団討議の報告がされていますが、部落差別の本質を「わかろうとしない」牧師によって、教会の部落差別問題との取り組みが阻害されてきたという現実があることを、私たちは認識しなければならないのではないでしょうか。

    私が牧会している教会で、チラシ配布が、部落差別との関連で問題になったとき、教会員のFさんが、「これを見て、チラシを配ってください」といって、数10ページにのぼる住所録をもってきました。 「なんで、チラシを配るとき、この住所録を見るの? 」と尋ねると、チラシを郵便受けに入れるとき、表札とこの住所録を照合すればよくわかります・・・」といわれます。 「・・・」、返事に困っていると、「この住所録は世帯主の名簿ですが、私は、すべての住民票を持っていますので、家族構成が必要ならコピーしてさしあげてもよろしいのです」と言われます。 そのとき、なにが話されているのか、理解できなかった私は、「チラシを配布するのに、そんなのはいらないでしょう・・・」と言ったのですが、Fさんは、その住所録をおいていかれました。

    それから数年、机の中に他の書類と同様にただ突っ込んでいたのですが、部落差別問題特別委員会の職務を遂行していく中で、また解放同盟S支部の解放学級に参加して差別・被差別がなんであるのかを学ぶ中で、私が住んでいる市の被差別部落の2か所の名前を知りました。 「まさか・・・」と思って、しまい込んでいた、Fさんが置いていった住所録を見ると、その住所録には、旧地区名が掲載されていました。 教会周辺の広範な地域の名簿でしたが、そこには、昔から被差別部落として差別されてきた部落名、〇〇と〇〇を含む旧地区名が明確に掲載されていました。 解放同盟S支部のある隣保館の館長さんに見せていただいた、教会の近くにある二か所の被差別部落の世帯数とほぼ一致するものでした。 その住職録が作成された時期は、前々任牧師の名前が掲載されていますから、同和対策審議会答申以前の文書であることは間違いありませんでした。 それに、地番順に並んでいるところを見ると、なんらかのかたちで、行政から流出した文書であると思いました。

    その住所録が、地名総鑑差別事件で問題にされている住所録と同じ性質のものであることが分かったとき、Fさんにそのことを確かめました。 市内の県立高校で、同和教育を担当、市の同和対策推進委員をしておられる教師Fさんにも、「こういう文書が、一般的に出回っているのか・・・」尋ねました。「黙っていた方がいいよ。大問題になるよ・・・」とのことでした。

    また、部落解放同盟S支部の書記長さんにもこの住所録について話をしたことがあるのですが、書記長さんの話によると、山口では、いまだに同種の住所録がいろいろなかたちで出回っているといいうのです。 地名総鑑差別事件として、明らかにされた文書は、ほんの一部で、現実にはかなり多くの差別文書が氾濫しているというのです。 「被差別部落の人が自分の出身を隠しても、差別する側は、きちんと差別してくる。 だから、部落のものは、部落差別から逃げないで、それと闘っていかなければならない・・・」と話されました。

    教会のある地区の被差別部落の全世帯の名簿を保有しているということは、私の中に複雑な種々雑多な思いを引き起こしました。 私が、<悪意>にみちた差別者であったら、このことをあきらかにせず、密かに被差別部落の人を差別するために使ったのではないか・・・。 仮定上であったとしても、そこにはおそるべき差別的な世界が待っています。

    部落解放同盟山口県連の松浦委員長からいただいた「同和関係地区一覧表」を見たときにも、また、解放同盟S支部の書記長さんから、被差別部落内外の歴史的、今日的資料をいただいてそれを見たとき、それ自体なにの問題も感じませんでした。 しかし、「部落解放運動」の文脈以外の場所で入手した、その部落名の入った住所録は、うすぎたなく、差別の手あかに汚れた差別文書のように思われました。

    そのとき考えさせられたのですが、「この世の中から、部落差別をなくしたい、部落の名で一人も差別されることのない時代をつくりたい、そういう願いをもってなされる部落解放運動の場以外で知りえた、被差別部落に関する知識・情報は、すべて差別知識・差別情報である、それがたとえ学術的で歴史的な文献・資料であったとしても、差別文書に転落する可能性を持っている」・・・と。 私は、それ以来、部落解放山口県連S支部や、そのS支部と連携して部落解放運動をしているいくつかの支部の解放運動の文脈の中で語られる、被差別部落の歴史や文化、部落解放運動の闘いと展望の中でしりえたことしか、自分の「被差別部落韓」、「被差別部落史観」に組み込まれないことにしました。

    しかし、西中国教区の諸教会と被差別部落との間に、まったく関係がなかったというわけではありません。 戦前・戦後の話でいえば、日本基督教団の牧師・賀川豊彦は、日本の教会が、被差別部落に対する伝道をかえりみなかった時代、被差別部落の人々と接触をもった稀有の人物です。 彼が青年時代に書いた『貧民心理の研究』が差別文書として指摘され、絶版を約束していたのですが、彼の死後、キリスト新聞社が全集に収録、のちに、部落解放同盟から、差別文書を発行したとの理由で糾弾を受けることになりました。

    賀川問題は、全教団的に取り組みが行われました。 西中国教区でも、数年に渡って、その部落解放セミナーで、賀川問題を取り上げました。 そのとき私が発題したときの原稿を、賀川問題に関する論文集に転載したいとの申し出が、キリスト新聞社の五十嵐善信さんからありました。 「西中国教区では、正当な評価がなされなかった発題」なので辞退、他の方の文章を掲載されることをおすすめしたわけですが、五十嵐さんの言葉では、私の発題は、(1) 一辺倒の賀川批判ではない、 (2) 賀川問題と取り組む新たな視点「優性思想」を提供している・・・ことを評価して、是非掲載したいということでした。

    そのとき、五十嵐さんは、「問われて、差別問題と取り組むようになった。本当なら、もっと早く資料集を出版することができた。 こんなに時間がかかったのは、牧師たちがあまり賀川問題との取り組みに熱心でなかったことが一因している。問われて答えることによって、問う側より問題がよくわかるようになった・・・」と話されていました。 そんな五十嵐さんの気持ちに打たれて、私の粗雑な発題を、発行が予定されている論文集に掲載することを認めたのです。

    論文集が発行されたとき、西中国教区の分区長をされていたK牧師から、お叱りの言葉をいただきました。 「教区が評価しなかった発題を、なぜ文章化して公表したのか! 」「頼まれたにしろ、辞退する方法はいくらでもあったはず」「それをしなかったのは、お前が謙遜の美徳に欠け、パーソナリティの品性が欠落しているためだ」「部落問題を利用した売名行為はいいかげんにやめるべきだ」、怒りというより激怒に近い言葉でした。

    分区長のK牧師は、「〇〇部落の〇〇さんにたずねたら、吉田という牧師なんて知らないといっていた。 山口の部落民をみんな知っているかのような大きな顔をするんじゃない! 」「共産党に聞いたら、吉田牧師は間違った運動をしていると言っていた」「部落差別問題特別委員会の委員を自分でおりたのだから、いいかげんに、部落差別についてはくちをつぐんで話すのをやめろ!」と言われます。

    K牧師から、侮辱・憎悪・敵意という言葉があてはまるような悪口雑言を浴びせられることは二度や三度ではありませんが、「時代が変わって、共産党が政権をとって、<寝た子を起こすな>が正しい時代が来たら、今度はおまえが糾弾される立場になる。 それでもいいのか! 」 「おまえは、教区や分区から浮いているだけでない。 共産党からも浮いている! 」というK牧師の私に対する批判は、教団の部落解放センターの歩調にあわせて部落差別問題と取り組もうとしている私に対する、別な運動論からの批判攻撃でした。

    なぜ、一人の名もなき、無学な、力なき牧師が、部落問題と取り組んだからと言って、そこまで、反対してくるのか。 分区長のK牧師は、私とは違う立場で、私とは違う世界で部落と深く関わってきたためでしょうか・・・。 異常なまでの反対は、かえって、K牧師の部落・部落問題とのかかわりの深さを想像させます。

    賀川豊彦の中にも、<社会的>差別意識があります。 しかし、人間というものは、<差別>・<被差別>は、どこかで輻輳するものです。 賀川豊彦の文章の中にも、このような言葉がありました。 それは、水平社の応援演説に奈良にでかけたときの文章ですが、「雪の中を貧しい部落に出入りすると、私は何となしに悲しくなりました。 あまりにも虐げられている部落の人々の為に、私は涙が自ら出てそれなどの方々が過激になるのはあまりに当然過ぎるほど当然だと思ひました。 私は水平社の為に祈るのであります。みな様も水平社の為に祈ってあげて下さい。・・・神様どうか、水平社を導いて下さい。 雲の柱、火の柱をもって導いて下さい。アーメン。」

    私は、この賀川豊彦の言葉、そして涙は真実であったと思うのです。 多くの人が、水平社運動に対して批判的になっていた時代に、賀川豊彦はまさにこの言葉を綴ったのです。水平社運動に共感し、奈良の被差別部落の人々のために、解放の福音を説いたのです。 だからこそ、賀川豊彦の中に内在する<社会的>差別意識がいかに残酷に人を変えてしまう力をもっているかを考えさせられるのです。賀川豊彦の右の言葉は、賀川豊彦の、<社会的>差別意識と被差別民衆に対する深い共感とのせめぎあいの間に生まれてきたことばであると思います。

    賀川豊彦の感化を受けた、山口県出身の被差別部落の人に松本淳がいます。 1989年に『茨の座』という詩集が出されました。 松本淳にとって、賀川豊彦とその関係者を通して与えられたキリスト教の影響は少なくないものがあります。

    松本淳は、「貧民。 そしてまた呪わしい因襲の鉄鎖が重く錆びつつまつわりついている者の群れの中に私は生まれ育てられた。」といいます。

    そんな松本淳が、尋常小学校3年の頃、こころの中に部落差別という深い傷を負わせられます。 祭りというものは、どんなこどもにとっても楽しいものです。 太鼓や笛のはやしの音が聞こえてくるとこころが躍るものです。 しかし、松本淳は、鎮守のお宮の秋祭りの日、神舞を前に、このような話を耳にするのです。

    「〇〇の・・・」
    「〇〇の者を舞殿へ上がらせる訳にはいかぬ」    
    「・・・」
    「あしこの者が出した縄で棟木を縛る訳にの行くかいで」
    「穢れるぞ・・・」

    松木淳は、「私達をいがませ、臆病にしたものは、私達の魂に終生痛み疼く烙印を押し付けたのは、その人々であった」といいます。 彼は、学校や社会だけでなく、人間の幸せを追求する宗教からも、差別の烙印を押されたのです。

    松本淳は、「山や川や野原、高く飛ぶ鳥。 美しい声で歌う鳥や虫、私は世間の人の仲間に入れない寂しさに、いつもそれ等の入っていくより他なかった・・・」と言います。 しかし、それは、彼にとって、「喜びではなかった」と言います。

    山に向かいて呼べど山は物言はず
    我荒寥と
    頂に立つ

    水平社運動にも参加する松本淳でしたが、相次ぐ官憲の迫害で挫折、彼は、ふるさとを離れ、賀川豊彦の世界と関りをもつようになります。 賀川豊彦を通して知りえたキリスト教によって、

    人はみな
    古里のことを恋しと言へど
    われには呪ひの名にてありけり

と歌った海が、

    ひとみをこらせば
    海のはるけさよ
    ひとみとづれば
    我イエスのささやきこゆ

と、主イエスがささやきかける場所へと変えられていくのです。 松本淳にとって、キリスト教の影響、否、聖書にしるされた主イエスの影響は非常に深いものがありました。

    荊冠 よし 貧苦またよし 病みもよし
    我行く道は父のみ旨ぞ

    詩集を読む限り、被差別部落出身である彼をこばんだのは、賀川豊彦やその周辺の人物ではなく、彼のふるさと・山口の地をはじめ、各地に散在するキリスト教会ではなかったかと思われます。

    教会に行かず
    牧師にまた行かず
    ただ影の如き
    キリストを思う

    被差別に置かれた彼は、この世からだけでなく、教会からも疎外され、孤独な信仰生活を過ごさざるを得なかったようです。 

    悲しきは認識不足
    差別する 反抗する
    おろかしき人々

    山口の教会と被差別部落の人々との出会いの機会は、いままで数多くあったのではないでしょうか。 それを、さまたげ、教会から被差別部落の人を排除してきたのは、部落解放への「認識不足」、悲しいまでの、教会や牧師・信徒の中に内在する差別性にあったのではないでしょうか。

    西中国教区の部落差別問題特別委員会に、山口のK教会から、部落差別についての取り組みの報告が入ったことがあります。 その当時の委員会には、部落差別問題の研修会の講師派遣の依頼も少なく、教区内の各教会の取り組みの報告もほとんどない状況が続いていましたので、委員長も委員もビックリしました。 

    というのは、K教会は、教会に、被差別部落の人を招いて、被差別部落の人から直接、差別の話を聞いたというのです。 「さすが、K教会! 」と、私もあらためてK教会の社会問題との取り組みの多様さと熱心さに尊敬の思いを持ちました。 解放同盟S支部の解放学級に参加すうろうになったある日、「日本基督教団は、部落差別について、どういう取り組みをしているの? 」と聞かれるので、なによりもまず、K教会の具体的な取り組みのことを話しました。 するとS支部の書記長さんが、「もしかして、K教会に話に行った部落民て、私のこと? 」というのです。 私は、意外な展開に、「何の話をされたのですか? 」とお聞きしたところ、「なにのための集会なのか、よくわからなかったので通り一辺のことを話しておきました・・・」という返事でした。 なにか、K教会の牧師や信徒の、「私たちは、部落の人を招いて学習会をした。 部落差別問題でも、K教会は先頭を走っている。 部落差別問題についても、教区の取り組みの先駆者である・・・」との自負が、みるみるうちにメッキがはげていくように、崩れていく思いでした。

    「そのあと、K教会とのつながりは、どうなったのですか」と尋ねてみると、「ああ、それっきりですよ」という答でした。

    K教会と被差別部落の人々との出会い、それは世にいう、K教会も部落差別問題と取り組んでいるという「アリバイづくり」以外のなにものでもなかったようです。 教会の近くに被差別部落がある、ない、教会の中に、被差別部落の人がいる、いない、そんなはざまで、このような、教会と部落との出会いもあるのです。 教会に部落の人を呼び寄せ、差別についての話をさせるけれども、教会が部落を尋ねて、彼らから差別について学ぶことがない・・・。 ここでも教会と部落の出会いが、手のひらからこぼれ落ちてしまったようです。

    西中国教区総会で、山口M教会のT牧師が、M教会の近くの被差別部落の人々と学習会をしているという発言が、ありました。 解放同盟S支部の書記長さんに話すと、「解放同盟のM支部の〇〇さんに聞いてみよう。 M支部も孤軍奮闘しているから、M教会の牧師さんが協力してくださったら、M支部にとってもおおきなはげみになる・・・」、期待をもって調べられたのですが、わかったことは、M教会のT牧師が一緒に部落差別問題の学習会をしている人たちは、学校の教師たちで、誰一人として部落出身者はいませんでした。 T牧師は、部落差別問題を一緒に学習しているそれらの教師たちを、「部落出身者」と認識して、教区総会で、そのような発言をしたのです。 学校の教師が部落出身者を名のることは山口ではほとんどありません。 ですから、T牧師は、「熱心に部落差別問題と関わっているものは、部落出身者に違いない」という、山口でよく見られる<社会的>差別意識から、その教師たちを部落出身者と断定したようです。 彼は、「東北出身だから、部落差別はよく知らない」といいますが、部落差別は知らなくても、<部落差別をする>すべは知っていて、それをきっちり実践されたようです。 その教師たちによる部落差別問題についての学習会も、教会と部落との大きな出会いの機会でした。 しかし、ここでも、その教会は、牧師の手の平からこぼれおちてしまいました。

    しばらくして、部落解放全国キャラバンの被差別部落出身の牧師を前に、彼は、「私は、東北出身ですから、部落差別がなにか知りません」と繰り返し発言していました。

    教会と部落、牧師や信徒と被差別部落の人々・・・、その出会いの機会は決して少なくありません。 しかし、それが、ほんとうの出会いにはならない、なぜなのでしょう?  それが問題なのです。 教会と被差別部落との出会いを妨げているのは、被差別部落の詩人・松木淳がいう「認識不足」と自覚されることのない「差別性」(社会的差別意識)にあるのではないでしょうか。 

    部落差別が何か知りません、部落差別がなにか知りません、部落差別が何かしりません・・・、そう繰り返しながら、きっちり被差別部落の人々を差別することができる現実を、私たちはもっと直視しなければならないでしょう。

    西中国教区内で、かって生じたさまな差別事象をとりあげてきましたが、教会と被差別部落は、いつ、どこで、どのようにして、向かい合う関係になるのでしょうか? どのようにしたら、教会と被差別部落を切り結ぶことができるのでしょうか。

    西中国教区は、広島キリスト教社会館において、保育事業を中核に、さまざまな取り組みを展開してきました。 部落解放をになう人々によって、いまも、その取り組みが展開されています。

    教区の部落解放セミナーの席上で、〇〇牧師は、むすめさんが被差別部落の青年と結婚されたことを報告されました。 また、〇〇教会の牧師は、教区の現場研修会で、やはり娘さんが、在日韓国人の青年と結婚されたときの、親の気持ちを話されました。 祝福したい・・・、そんな気持ちを抱かされる発言でした。 信徒の場合も、なんどかそのような話を聞かされましたが、西中国教区の中では、ほとんど無視され、そのことが、西中国教区の部落差別問題の取り組みの上で、部落解放のさらなる展開の上で、大きなきっかけになったり、エネルギー・原動力になったりすることはありませんでした。 話をした、しかし、共に差別について考え、共に差別を克服する道を歩む、そのような地平が開かれるのではなく、無視と沈黙の世界に直面し、そのことは二度と、彼らの口から語られるということはありませんでした。 部落差別について、真剣に考え、行動に移していった牧師や信徒の声は、教区と諸教会の差別性を前にかき消されてしまっているのです。



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目次

 『部落差別から自分を問う』の目次 はじめに 第1章 部落差別を語る  1. 部落差別とはなにか  2. 部落<差別>とはなにか  3. 部落差別はなくなったか  4. 部落の呼称  5. 認識不足からくる差別文書  6. 部落の人々にとってのふるさと 第2章 差別意識を克服する...