2023年5月31日水曜日

第2章第1節 夏期現場研修会から

第2章 差別意識を克服するために
第1節 夏期現場研修会から

    1995年9月、広島基督教社会館において、西中国教区・部落解放夏期現場研修会が開かれました。

    そのときの講師はいまは、部落解放同盟広島県連福島支部の執行部の一人であるAさんでした。 Aさんは、西中国教区・宣教研究会が
発行している『洗礼を受けてから』という小冊子に掲載されている部落差別に関する文章とその文章に引用されている被差別部落出身の詩人・真原牧さんの「五本目の指を」という詩を<被差別>の立場から読むとき、どのように読めるのか・・・、どちらかいうと、<遠慮>がちに、その文章と引用された詩に内在する<差別性>について問題点を指摘されました。

    講演のあと、Aさんの発題を踏まえて、夏期現場研修会の参加者で、分団討議がなされました。 3分団に分かれて『洗礼を受けてから』の文章が差別文章であるかどうか、差別文章であるなら、どのように問題解決していけばいいのか、熱心な議論が展開されました。

    夏期現場研修会で議論された内容をまとめてみると、おおむね、『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章は差別文章であるとの認識が共有され、問題解決のために適切な努力がなされなければならないという確認がなされたといってもいいでしょう。

    現場研修会の分団で討議された内容をもう少し整理して詳述しましょう。

    (1) まず、『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章についてですが、文章本文の<差別性>より、その文章に引用された被差別部落出身の詩人・真原牧さんの「五本目の指」という詩の表現・内容に関心が集中しました。 多くの参加者はこの「五本目の指を」という詩を読んで、こころの中に「暗い印象が残った」といいます。 被差別部落の現実をことさら暗く悲惨に歌ったこの詩は、研修会の参加者に、「差別を再生産しかねない」という問題意識をもたせました。 またその詩に歌われた被差別部落の現実は、部落全体に共通したものではなく、「私の生まれた部落にはこんな悲惨はなかった」という、被差別の側からの反論もありました。

    (2) 『洗礼を受けてから』び部落差別に関する文章の著者の差別性については、「引用した人の感性が問題であるという意見もでました。 さらに著者の感性に踏み入って、「<部落差別の痛み>を少しでも知っていたら、このような引用はしなかったであろう・・・」という声もありました。 引用するなら、差別を助長するような詩ではなく、「こうやって差別を乗り越え解放されるのだっという展望がなければ・・・」という問題解決の方向を示唆する発言もありました。

    (3) 今後の問題解決については、「このまま放置することはできない」との認識が多く問題になっている箇所については、訂正ないし削除・差替えの必要が提案されました。また、部落差別に関する文章だけでなく、『洗礼を受けてから』という小冊子そのものを全面改訂するか、絶版にすべきであるとの意見もありました。

    『洗礼を受けてら』の部落差別に関する文章の差別性を認識し、問題解決の必要を認識しながらも、「部落差別問題をどこまで担っていけるか不安だ・・・」という声がありました。 また教区・教会の部落差別問題との取り組みは、「心の中に差別意識があってもそとにでなければいい・・・」ということではなく、差別意識の問題が教区・教会の課題になっていかなければならないという意見、さらに、私たちの内側の差別意識をとりあげるだけでなく、「具体的に部落の人々と交わりをつくる」必要を訴える声もありました。 また、部落差別に関する文章が書かれてから、20年以上も経過していることを考え、「部落解放運動の流れからみて整理する必要がある」との提案もありました。

    問題解決にあたっては、『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章を訂正・削除等の改訂作業を行うにとどまらず、教区や教会の差別的体質の見直しと、被差別部落との具体的な出会い、部落解放運動との連帯を訴える声もあったことは特筆すべきことがらであると言えます。

    (4) 誰が責任をもって問題解決にあたるか・・・ときう点では、「洗礼を受けてから」の部落差別に関する文章の差別性が指摘されていながら、各総会期の宣教研究会がこの文章の差別性を認識せず、「この問題、この文章についてとりくまなかったことのほうがより重大な問題である」との指摘がありました。 また、教区の部落差別問題特別委員会もその職責上、宣教研究会と共同して問題解決にあたる立場にあったにもかかわらずその職責を怠ったという批判もなされました。 そして、具体的な提案として、「問題解決は、宣教研究会委員にまかせう、教区全体で協議しよう」という、この問題が一部の、関心ある人々の課題ではなく、教区全体の課題にならなければならないという意見もありました。

    部落解放同盟広島県連福島支部の執行部の一人であるAさんの問題提起ではじめた、西中国教区部落解放・夏期研修会は、ある意味で、往年の西中国教区の部落差別問題の取り組みを彷彿とさせるような場面を生み出しました。

    しかし、このようなかたちで、『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章がとりあげられ、その差別性の確認と問題解決への決議が行われていく・・・、そのような状況を批判的にみる声も同時に存在しているということを忘れてはならないでしょう。 この文章の中に、また引用された詩のなかのどこが問題なのか・・・、理解できないとの声も多数ありました。 「この文章のどこが問題なのかわからない」「牧師の私が分からないのにどうして教会員にわからせるか・・・」。 「教会で議論するのは無理・・・」との声もありました。 また差別性を認識しつつ、「歴史文書だから<もはや>とりあげる必要はない」と主張する声、その文書を書いて差別性を指摘されているI牧師の、その当時の努力も評価する必要があるとの声もありました。

    西中国教区・宣教研究会発行の『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章を読んでも、また部落解放同盟広島県連福島支部のAさんの問題提起を聞いても、「それが、なんで差別なのか・・・」理解できない、また理解しようともせず、被差別の側よりも、差別の側を積極的に評価しようとする人が少なからず存在しているという事実は、今後、私たちがこの問題を深めていくうえで留意しなければならないことがらであると思います。



2023年5月21日日曜日

第1章第6節 部落の人々にとってのふるさと

第1章 部落差別を語る
第6節 部落の人々にとってのふるさと


    詩集『部落』は、もうひとりの詩人・丸岡忠雄さんの詩「ふるさと」で』有名になりました。

        ”ふるさとをかくす”ことを
        父は
        けもののような鋭さで覚えた
            

                ふるさとをあばかれ
                縊死した友がいた
                ふるさとを告白し
                許嫁に去られた友がいた

        吾子よ
        お前には
        胸張ってふるさとを名のらせたい
        瞳をあげ 何のためらいもなく
        ”これが私のふるさとです
”と名のらせたい

    部落差別に関するさまざまな文章・論文・書籍の中で引用されている詩です。 丸岡忠雄さんは、この詩を綴った時の思いをこのように語っています。 「私の30年を振り返って、あのような差別という、誰にも言えない、誰にも訴えるすべもない、そしてどこにももっていくことできないあの悲しみとも、怒りとも言い表せない心の重たい傷を、これから成長して行く我が子には絶対に負わせてはならないと思ったんです。 ここに生まれたということで、私たちと同じような重荷を負うとしたら、それは許せないんです。 我慢できないんです。 ・・・ふるさとの名を口にできる、ふるさとを語れる、そういう子どもであってほしい。 その願いをこめて、子どもを抱きあげたときのあの重みを手の内に感じながら、この詩をつくりました」。

    この詩は、丸岡忠雄さんのふるさと、山口県H市の同和問題のパンフレットにも掲載されていますが、そのパンフレットには、彼のもうひとつの詩が掲載されています。 それは、「10年後の詩」という注がつけられた「時の貌」という詩の一節です。

    きょう
    学校で学んだという
    部落問題を 父に訊ねる
    中学生になった吾子の
    生き生きとした澄んだ瞳に
    もうふるさとの重い翳りはない

    無駄に流れてはいなかった
    たしかな”時”の貌を
    私は はっきりと子の眉に見た

    H市がどのような同和行政をしていったか、被差別部落の人にどのような変化をもたらしたか、その実証のために、この二つの詩が対比されています。

    しかし、丸岡忠雄さんは、詩人です。 詩の中におりこんだひとつひとつの言葉は、無意識に選ばれ、採用されたのではなく、彼のこころと思いが込められています。 彼は、中学生になった自分のこどもが、学校で同和教育を受け、そしてなにごとかを感じた。 家に帰ってくるなり、父親である彼のところに詰め寄って、<訊>ねたというのです。  <尋>ねたのではなく、<訊>ねたのです。 中学生の子どもが、英語や数学の問題がわからなくて尋ねたのではありません。 丸岡忠雄さんが、自分の子どもに語ろうとして語り得なかったこと、彼らが住んでいる場所が被差別部落であり、彼らが部落民であることを、彼の子どもは、学校の同和教育を受けることでそれとなく察し、自分の父親に詰め寄って、父親からその事実を<訊>き出したという意味なのです。

    丸岡忠雄さんは、部落民であることを知って、自分の子どもが冷静にその事実を受けとめたことを、喜びをもってこのように歌っているのです。 「
もうふるさとの重い翳りはない。 無駄に流れてはいなかった。 たしかな”時”の貌を、私は、はっきりと子の眉に見た」と歌うのです。

    しかし、この詩には大きな問題が横たわっています。 丸岡忠雄さんのような人物でさへ、自分の子どもに部落民であることを教えることができなかったということです。 中学校での学校同和教育の力を借りなければ、自分の子どもに部落であること告げることができなかった・・・、ということは、この”時の貌”が書かれた時代の被差別部落の人々の状況は、差別がなくなりつつあると言われながら、なお重い差別の中にあったということを意味しています。


    山口県では、学校同和教育の中で、部落の子に部落の子であることを告げることはしません。 大阪や京都で行われているような解放教育は行われていないのです。 ですから、部落の子どもは、何かひとごとのように、部落についての話を聞かされます。 そして、成長度合いに従って、小学校、中学校、高校で同和教育を受け、ある日突然、次のような図式に遭遇するのです。 「農・工・商よりさらに低い身分」=「部落の人々」=「同和地区の人々」。 他人事のように聞かされた部落の話が、江戸時代の身分制度の最下層の人々が、現在の部落に住んでいる部落の子どもの現実と等式で直結され同一視されるのです。

    「昔は武士に生まれたら武士、百姓に生まれたら百姓で一生を終わるのがあたり前でした。 今でも「近代化」の波に洗われていない伝統的な社会では、人々は遊牧民に生まれたら遊牧民、農民に生まれたら農民ということにあまり疑問を感じていません。 しかし現代日本のような社会では・・・」と語る東北学院大学A教授の歴史認識と違って、封建的な身分制度が、現代の部落の子どもたちの脳裏に突然と侵入、大きな精神的打撃をもたらすのです。

    部落差別は、国家や権力がしくんだ、社会の最下層に生きる人々、被差別部落に生きている人々に対する「洗脳」行為、ないしは社会的な「マインドコントロール」だと思うのです。 部落差別は、被差別部落の人々から被差別民衆としての抵抗と闘いの歴史をとりあげ、悲惨でみじめな歴史を強要する、世界に類例をみないほどの残酷な差別なのです。 被差別部落の人々から、過去の歴史だけでなく、現在の歴史を、そして明日の歴史を奪う残酷な行為なのです。

    彼らの生きた証し、被差別部落民衆からその歴史や物語をうばい、彼らの人生を虚空に追いやる行為なのです。 誰が、何の権利をもって、他者の明日の歴史を、あしたの物語を奪うことができるのでしょうか。

    丸岡忠雄さんの詩には、さらに秘話が続きます。  1985年3月、NHK大阪放送局は「差別からの解放ー胸はってふるさとを」という番組を放映しました。 そのディレクター福田雅子さんは、後日、「取材ノートの余白から」という文章の中でこのようなことを書いています。

「同対審答申が出て20年、その歳月に、私たちは、差別意識からどのように解放されたのであろうか。 ・・・大阪・和歌山・島根・山口・福岡・鹿児島と差別の闘いの姿を撮影して歩いた。 ドキュメント番組の製作に協力していただくことは、その人間性の真実に迫り、日常的な現実に私たちが対峙することでもあった。 ・・・放送に出さなかった言葉、映像にならないもうひとつの事実が鮮やかに蘇る。 「吾子よ、お前には胸はってふるさとを名のらせたい。 瞳をあげ、なにのためらいもなく、”これがわたしのふるさとです”と名のらせたい・・・詩「ふるさと」読まれた丸岡忠雄さんが急性心不全で5月に逝去された。 番組の冒頭に、この詩を朗読していただいた日、丸岡さんのふるさとの山口県光の海は青く、白浜に松林が続いていた。 ご子息誕生から20年、その成人を喜びながら、丸岡忠雄さんの心はいまだに結婚差別にであう若者があることをかなしんでいた」。

    政党や運動団体が、党利党略で語る「もう差別はなくなった」という主張に耳を傾けるのではなく、
彼らと行動を共にしながら、自分の心中を吐露し、部落の青年の「明日」を案じた被差別部落出身の一詩人の言葉にこそ耳を傾けるべきではないでしょうか。

    『洗礼を受けてから』の部落差別問題に関する文章を書いたⅠ牧師は、なぜ1冊の同じ詩集から、丸岡忠雄さんの詩ではなく、あえて、真原牧さんの詩を選んだのでしょうか。

    1995年8月、山口県K町の小学校教諭Kが、その小学校便りの中で、静かに部落民宣言をしました。 「ふるさと」と題された文章にはこのような言葉が綴られています。

    「中学校の卒業証書を手に、学校の坂を下りた時、私は二度とこの坂を登ることはないと感じた。 故郷から逃げる第一歩なのだと重い決意を抱き、9年間通った長い坂を振り返ることなく後にした。 同和地区に生まれ、育った私にとって、ふるさとの風は決して心地よいものではなかった。 小学校高学年から中学にかけ、自分の将来を考えるようになるころふるさとの風は、冷たく、厳しく私を厚い壁に打ちつけた。 偏見と差別という壁は、自分にはとうてい越えられそうにない高い厚い壁のように見えた。 幾度となく壁にぶつかり、ぶつからされるうちに自分が幸せになるには、ふるさとを捨て、ふるさとから逃げ出すことだと考えるようになった。 自分の前に立ちはだかる壁にぶつかり、血を流すことからもう逃げたかった。 自分の手で壁を壊そうという気力も越えてやろうというエネルギーもふるさとの風は、奪い去ってしまっていた。 高校・大学、そして就職。 少しずつふるさとの風があたらないところへと逃げていった。 でも、逃げることが自分の幸せにつながらないと思い知らされたとき、私はふるさとに帰ろうと思った。 つらい思いでしか残っていないはずなのに、無性にふるさとが懐かしかった。 私はふるさとに戻ってきた。 くやしさで血がにじむほど唇を噛んでじっと見つめた土も、悲しみであふれる涙がこぼれないように仰いだ空もあの頃のまま私のふるさと。 自分から捨てたふるさとなのに、戻ってくるものを受け入れてくれた。 暖かく、優しく。 今、風がどのように吹くのかそれは、私自身の生き方に自分自身にあるのだと思いながらふるさとに吹く風は、誰にも優しくあってほしいと思う。大好きなふるさとに、大切なふるさとに吹く風は・・・」。

    詩「五本目の指を」の作者・真原牧さんの詩の中にも、ふさとの優しさ、あたたかさを歌った「花」という詩があります。

    解放同盟新南陽支部の青年部長さんが、「読んでみて・・・」と言って持って来られた文章の中にも、ふるさとの部落について、このような言葉が綴られていました。 「わたしは物心ついた頃から、部落について自分なりに考えてきたように思う。 私は自分が被差別の立場にいることを知っていた。 それで随分悲観的に生きている時期もあったし、解放運動をしていても行き詰まることは多い。 しかし、 なぜか部落が好きだ。 両親やおばあちゃん、近所のおばさん・おじさん、部落の話をしてくれたたくさんの人が好きだ。 そして苦しさを秘めて死んでいった人々がいとおしい。 歴史を調べれば調べるほど、ご先祖様がいとおしくなる。 部落に産んでくれてありがとう。 わたしにとって、<えたを誇る>(水平社宣言の言葉)のは今なのかもしれない。」

    もう7~8年前のことですが、解放同盟新南陽支部のおじさん、おばさんからこんな話を聞いたことがあります。 新南陽市の差別住宅条例が問題になったときの話しですが、彼らの話によると、被差別部落は、部落の人だけが住んでいたのではありませんでした。 戦前は、朝鮮から強制連行されたり、日本に職を求めてやってきた朝鮮人たちが、また戦後は、同和向け住宅に、母子世帯や老人世帯、生活保護受給者が共に生活していたのです。 彼らは、行政や社会の冷たい風によって、吹き溜まりの部落に押しやられてきた人たちでした。 町の人は彼らをこばみ、見捨てて部落へと追いやったのです。 でも、被差別部落の人々は、この世から差別される痛みを十分過ぎるほど知っていたので、彼らを追い出すことはしませんでした。 彼らを受け入れて共に生きてきた。 部落の人は、人情があたたかくて、誰一人見捨てたりはしない・・・、と。

    あるとき、地区の一人の古老についての話を聞きました。 死ぬ前に、「これだけは話しておかなければ・・・」といって語ったという言葉は、戦前、山口県徳山市の海軍の燃料庫建設の際に、事故や病気で死んだ朝鮮人のなきがらが、葬られることなくコンクリートの壁の中に塗り込まれているという内容の話でした。 今は、国道2号線沿いに高層アパートや団地が建ち並ぶ場所ですが、日本の経済的繁栄のかげに、その犠牲になった人々が無念さを持ったまま葬られることもなく眠っているというのです。 「これだけは話しておかなければ、死ねない」と言い残してこの世を去った部落の古老の生き方の中にも、戦争中の暗い時代に、朝鮮人と共に一緒に生きた・・・という記憶が鮮明にありました。 解放学級の中で、何度となく戦前、朝鮮人と共に生きた時代のさまざまなことが取り上げられました。

    真原牧さんの「五本目の指を」の詩の中に歌われた部落の人々、その中にも、世の中の冷たい風によって部落に吹き寄せられた人々が少なからず存在していたのではないでしょうか・・・。 部落解放運動は、つねにそのような人々も受け入れ展開されてきたし、展開されているのです。

    私は思います。 『洗礼を受けてから』に記載された部落差別に関する文章は、差別文書であると。 その文書の中にみられる差別性は、『洗礼を受けてから』という本を絶版にしたり、通り一遍の注意書きを付け足したりして解決を見ることができる類のものではないと。 被差別部落の人々と出会い、部落の人々の顔の見えるところで、私たちの差別性を見直さない限り決して乗り越えることができないものであると。

    日本基督教団の第二回部落解放全国会議の分科会で、この『洗礼を受けてから』差別事象と問題の取り組みを報告したことがあります。 そのとき日本基督教団の部落解放センターの委員たちは、このように対応されました。 「差別はいろいろある。 そんな暗い話はもうええ。 明るい話をしようや」。 「あなたが取り組んでいることは、教団が20年前にやってきたことだ」。

    日本基督教団と西中国教区の間に、大阪や京都の部落解放運動と山口や島根の部落解放運動との間に、20年の歳月の隔たりがある・・・、そう指摘されるなら、それはそれで認めざるを得ないでしょう。 しかし、なぜそのような現実に陥ったのか、いたずらに嘆いてみても仕方ありません。 私たちが置かれている山口や島根の状況が20年前の大阪や京都の状況であるというなら、私たちは、教団の部落解放センターが20年前にやってきたことを、最初からやり直す以外に方法はないでしょう。

    日本基督教団部落解放センター委員・小柳伸顕牧師は、「日本キリスト教団の軌跡ー教会と部落差別」という文章の中でこのように語っています。 「この部落差別問題特別委員会(教団部落解放センターの前身)がはじめた活動は、何よりも「自己認識の旅」と呼ぶのがふさわしいかもしれない。 その姿勢は、今日まで一貫している。 つまり、教会への啓蒙を優先させるデスクワークや室内での討論ではなく、差別の現場に足を運び、この手と足と心で差別の現実に触れ、学び、差別を許さない人間へと変革されていくことを何よりも大切にした・・・」。 私は、その言葉を心にとめて、西中国教区、山口東分区の今日の状況の中で部落差別問題に取り組んできたつもりですが、結果は、東岡山治牧師の指摘される通り、「貧しい取り組み」
以外のなにものでもありませんでした。

    大阪・京都・奈良・兵庫などの部落解放の先進地と違って、山口・島根は、部落解放運動が「大衆運動」として成立しにくい歴史的状況があります。 部落出身者もまたそうでない人も、多くの場合、地域から、共同体から、同僚から遊離して、それでも、なんとか山口・島根で、部落解放運動を前進させたいと願いながら、部落解放運動は、全世界的にみると、やがては部落差別が間違いであり部落の人々の歴史や物語の復権が正しいと認識される時代がやってくる、それは勝利が約束された闘いである、しかし、山口・島根の闘いは、なお困難と苦難の中にある、疎外と無関心、憎しみと敵意の中にある、時として、自分たちの闘いを、「大衆運動」として位置付けたいという願いを持ちながら、「ゲリラ戦」とか「トオチカに立てこもった闘い」とか、「レジスタンス運動」として自己理解をせざるを得ない現実にある、終末的な視座から見つめなおさないと前進することができなような状況にあります。 部落の側の解放運動もままならない中、私たちキリスト者が、教会が、部落解放を前進させるためには、どうしたらよいのでしょうか。 「貧しい闘い」をゆたかな実りある闘いにするためにはどうしたらよいのでしょうか。

    1983年の西中国教区の部落解放セミナーの講師・犬養牧師が、西中国教区に対して問題提起した言葉は、今日でも一考するに値します。 「教会から部落へ至る道はあるのか。 部落差別問題を学ぼうとし、それを受取ろうとしている主体である教会そのものが、果たして、それを受け止めるのに値する場所であるのか・・・という疑問を私自身の何年かの歩みの中で考えている。 (中略)教会が触れることのできなかった部分にいかに触れていくかということ、あるいは一つの教会でできなくても、あるところがそれをなしたときには、本当にそれに連ならせていただいて、その事柄から受ける問いを誠実に・・・自分の教会がつぶれるという形さえ含みながらそのことがらに関わっていくという中でしか、被差別部落の問題は教会の問題になって行かないのではないかと思います」。

    経済的な連帯もさることながら、なによりも、「ともに部落解放のために、キリスト者」として闘う」その連帯と協力が不可欠でありましょう。 部落差別に取り組むものが、その共同体の中で孤軍奮闘を余儀なくされる状況では部落解放は前進しないでしょう。 教会が変らなければ部落は変わらない。 部落が変らなければ教会は変わらない。 教会が、世界や社会から遊離していない以上、教会と部落は相互に影響しあいながら部落差別撤廃の運動に参画していく必要があります。

    1995年12月4日の中国新聞に、総務庁の「童話地区実態把握等調査」の結果が一部報道されました。 それによると被差別部落の一人の青年に対して、「絶対に結婚させない」という、一般の側の親が2人。 「家族らの反対があれば認めない」が4人。 「親として反対」が15人。 1人の被差別部落の青年のまわりに、結婚を反対する21人もの親たちがたちはだかっているという数字が出ていました。 しかも、被差別者にとって差別者は身近に存在している人々なので、部落の青年の結婚には、今日でもなお、言葉にならないほど様々な障害が待ち構えていると考えても間違いではありません。

    部落差別は解消に向けて前進した、21世紀までには部落差別はなくなる・・・と言われて久しいけれども、政党の党利党略から「部落差別はもうなくなった」と主張する人々は、この数字をどのように受け止めているのでしょうか。 また政党と一線を画し、宗教家として、キリスト者として、この問題にかかわる私たちは、この数字をどのように受け止めることができるのでしょうか・・・。 中国新聞の記事は、中国地方は、今日においても、全国水準よりはるかに部落差別が根強く存在している場所であると報道しています。

注)文中の固有名詞は、すべて英字一字で表現しました。 しかし、山口県新南陽市の被差別部落で、部落解放運動を展開している、部落解放同盟新南陽支部の書記長さんと青年部長さんについては、実名で表記しました(今回Blogger上で公開するときには役職名のみにしました)。 山口は、部落差別が今も根強く存在し、名前を挙げて運動することは容易なことではありません。 しかし、新南陽支部の運動の流れのなかで、青年部長さんは、「<差別はもうない。 部落はない。 >と常にどこかで言われ続けているが、<寝た子を起こすな>と言い続けている部落内外の多くの人々によって生きてきた証は消されていく。 被差別部落の歴史は常に否定される。 ならば、私たちは常に言い続ける必要がある。 <私たちの先祖は差別に負けずにちゃんと生きてきた。 部落は存在し、部落差別はあると。 > そうないと私たち部落民は消されて、生きながらの幽霊にされてしまう」。 「共に生き共に死んでいった武士や農民の歴史は書き残されるのに、天皇家の歴史はでっち上げられ誇張されるのに、えたの歴史が消されるのは何故か。 差別があるからに他ならない。 自分を誇れない部落が多いから、<えたを誇る>時がきていないから、志ある人によって書かれた部落史でさえ部落の地名も人名も記号で表すしかない。 ・・・現実の差別に対する彼らの配慮は当然のことであろうし、そうせざるをえない気持ちも分かっているつもりだが、わたしは記号ではなく本当の名称で書かれた歴史を読みたいと思った。」という。

    部落の側を実名で、教会の側を、部落差別問題に取り組んでこられた方々を除いて、記号で表現しなければならない教会の現実を、いつの日か文章化したいと思います。

(入力作業中です・・・。 1996年に、日本基督教団部落差別問題特別委員会と日本基督教団部落解放センターによて、没収・廃棄処分にされた、私の拙稿『部落差別から自分を問う』(原稿用紙300枚)をはじめて公開しています。 なぜ、教団は、没収・廃棄処分という、言論弾圧的暴挙にでたのでしょうね・・・。 部落解放同盟新南陽支部の書記長さんは、私の拙稿を読んだあと、「教団は、この程度の文章をなぜ、没収・廃棄処分にしたのか、解せない・・・」との感想を話しておられました。)

2023年5月15日月曜日

第1章第5節 認識不足からくる差別文書

第1章 部落差別を語る
第5節 認識不足からくる差別文書

    数日前、教会に部落解放同盟新南陽支部の青年会長さんが来られました。 そして、いつものように部落差別と部落解放運動について話をしました。 1995年12月4日付けの中国新聞に「寒い心映す<落書き>」と題した記事が掲載されていました。 新南陽支部の取り組みが紹介されていますが、そのコピーを持ってきてくださったのです。

    それは、山口県徳山市・市立図書館の閲覧室の机に刻みこまれた差別落書きに関する文章です。 その差別落書きは、学校が夏休みの間(7〜9月の間)、徐々に書き込まれていったもので、「ヨツはみんな死んでしまえ」と言った被差別部落に対する過激な差別発言から、身体障害者やその他の人々に対する差別発言が机に刻み込まれていました。 図書館の掃除をしているおばさんが、拭いてもふいても消すことができないほど、鉛筆やボールペンで深く刻み込まれていました。 夏休みの間、図書館を利用した小学校の教師によって発見され、何人かの休止の口伝えで、山口県徳山市立A小学校の教師で、部落解放同盟新南陽支部の学習会に参加しているB教諭の耳に達したのです。 依頼を受けて、事実確認のため私も同席し、図書館司書の方と一緒に差別落書きの写真を撮りました。 時間をかけて複数の人間によって書き込まれた落書きであることは明白でした。 部落解放同盟新南陽支部の書記長をされている方は、「たくさんの人の目に触れたはずなのに、誰一人として図書館に伝えていない・・・」と指摘しています。 ほとんどの人が、それが差別落書きで、被差別部落の人や身体障害者に対する差別と侮辱の言葉であることを知りつつ、黙って通り過ぎて行ったのでした。

    山口県徳山市立図書館差別落書き事件が明らかにされたとき、山口県高教組や全解連(いずれも共産党系組織)が、行政に対して、解放同盟の訴えを取り上げないように要請行動を展開しました。 彼らは組織をあげて、差別落書きは部落解放同盟の自作自演ではないか、部落解放同盟は、最近差別事件が少ないので差別事件をやっきになって探している・・・と主張しはじめているのです。

    山口県徳山市立図書館差別落書き事件の最初の事実確認と、市当局との最初の交渉に、私も、一市民として立ち会わせていただきましたが、高教組や全解連が主張するような事実はどこにもありません。

    「ヨツはみんな死んでしまえ」という差別落書きの言葉は、被差別部落の人々にとっては胸にズキンと突き刺さる言葉です。 <ヨツ>という差別語は、<四本指>の略語で、<五本指>(五体満足な人間という意味)を前提として、一本指が足りない・・・、つまり、普通の人間ではないことを意味しています。この言葉は、部落差別の歴史の中で、ずっと被差別部落の人々に向けてなげつけられて来た差別語であることは説明するまでもありません。

    十数年前には、山口県新南陽市T中学校で差別事件がありました。それは理科の授業でフレミングの法則を教えている最中に、担当の教師が、何を思ったか突然、生徒の前に四本指を出して、「九州でこういうことをしたら殺される」と生徒に教えたのです。 そのクラスにいた部落出身の生徒の訴えで、この差別事件が明らかになりました。

    また、1989年、西中国教区部落差別問題特別委員会委員長の目の前で、四本指を突き出して、「あいつらはこれだ」と差別行為に臨みました。 <四本指>という言葉は、今も被差別部落の人々を差別する言葉として力を持っています。

    西中国教区宣教研究会は、『洗礼を受けてから』の改訂版(1972年)を出すときに、初版に、部落差別に関する文章を追加しました。 その文章の見出しが、「五本目の指を」という見出しです。 西中国教区は、部落差別問題をとりあげるとき、「部落差別問題」ではなく、「五本目の指を」という刺激的な表象を採用しました。 在日朝鮮人差別問題については「在日朝鮮人差別問題について」でした。

    改訂版においては、差別語については、一定の扱いが見られます。

    「現在わが国には60万人以上に及ぶ在日朝鮮人がいます。 多くの日本人はかって彼らに<鮮人>とか<半島人>といった差別語を投げつけ、今なお彼らを外国人でも日本人でもないきわめてあいまいな人間とみなす傾向を持っています。」

 改定版は、差別語を用いる時、差別語に傍点をふりコメント付きで紹介しているのです。 1988年の新装改訂版では、この文章は、差別語を紹介することで、朝鮮人差別を助長することを恐れ全面的に削除され、在日朝鮮人差別に関する文章も全面的にかきあらためられました。

    しかし、部落差別に関する文章においては差別語<四本指>が、なにのコメントもつけられることなく引用され続けたのです。  朝鮮人差別問題を取り上げる際に払った差別語に対する注意をなぜ、部落差別に関する文章に置いては払わなかったのでしょう。

    <四本指>は、被差別部落の人々をさす代名詞として用いられ、そして、被差うは、別部落の女流詩人が歌った詩の題「五本目の指を」という題を、西中国教区の部落差別問題を取り組む際の姿勢を表す言葉として用いたのです。 西中国教区宣教研究会は、<四本指>が<五本目の指を>取り戻す運動として、被差別部落の人々の部落解放運動を捉えたことになります。

    差別文書には、二通りあります。
    ひとつは被差別部落に対して「侮辱の意志」をもって書かれた場合、それは典型的な差別文書になり、やはり被差別の側から、確認や糾弾を受けることになるでしょう。 もうひとつは「認識不足」からくる差別文書です。 『洗礼をうけてから』に記載された部落差別に関する文章も、この認識不足からくる差別文書にあたります。

    この問題を取り上げだした当初、牧師や信徒から、「なにが問題なの。 四本指が、五本指になりたいというのだからいいじゃないの。 普通の人間なりたいというのがなぜ悪いの・・・といった言葉を耳にしました。 この文章を書いた牧師と同じく、この文章の読者もこの表現についてなにの問題も感じてはいませんでした。

    このような理解は、キリスト教の信仰、聖書の教えとは絶対になじまないと思うのですが、この問題を問題として受けとめるひとはほとんどいませんでした。 もちろん、この問題は、西中国教区の部落差別問題特別委員会でもとりあげられましたが、「現在、教団の課題は、賀川問題であり、この問題に全力を注ぎたい。 それに、西中国教区は、教団出版局や部落解放センター等の責任ある立場の人の差別発言は追求しても、教区や教会、牧師や信徒の差別発言はとりあげない・・・」との委員長の方針でうやむやになってしまいました。 その当時の委員長は、山口県のH教会の信徒が委員長の目の前で四本指を出して差別行為に及んでいるのに、その場で差別行為を指摘することもなく、その後も、「牧師としての牧会的配慮」から差別事件とはしないとの立場をつらぬかれ、結局、うやむやにしてしまいました。 それから丸5年、時は経過し、前回の宣教研究会で明らかにされたように、差別行為におよんだH教会の信徒はいまは逝去されてこの世の人ではなくなっていました。誰が差別行為をしたか・・・、それを知りつつ、西中国教区は差別事件をもみ消してしまいました。

    キリスト教的人間観、聖書的人間観によると、人間はすべてアダムとイブの末裔で、等しく神によって創造された被造物です。 セム・ハム・ヤペテ、どのような人種・民族・国家・部族に属していても、誰ひとり例外なく、神のみ前に同じ人間であるのです。 聖書的人間観は、「人間外人間」を決して認めない人間観なのです。 <四本指>が<五本指>になるという差別的な論理を是認する余地はありません。

    しかし、『洗礼を受けてから』の著者は、この言葉に感動し、差別語であることに注をふることもなく、その裏返しの表現である「5本目の指を」という言葉を、西中国教区が部落差別問題を語る際の主題として用いているのです。繰り返しますが、被差別部落の人々は、ありのままで私たちと同じ人間です。 同じ神によって創られた同じ人間なのです。

    『洗礼を受けてから』の文章を読む限り、これらの文章が掲載され、それを読んだ牧師や信徒が誰も気がつかないで、気がついても無視してきた背景には、日本基督教団とその教区・教会の牧師・信徒の信仰と神学が、いつの間にかキリスト教源流の信仰と神学から大きく逸脱し、日本の封建遺制の差別にまみれた風土や文化にからめとられ、部落差別を否定する感性を失ってしまったことがあると思われます。

    「被差別部落をどのようにみるか」が問われているだけでなく、このような差別文章を長年に渡って放置した私たちの信仰や神学のあり様も問われているのだと思います。

    『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章の問題点は、その当時の、部落解放運動の流れをできるかぎり忠実に反映しようとの努力がなされていながら、「被差別部落をどのように受けとめるか」と言った一点で、大きく後退して、被差別部落をことさら暗く歌った詩「五本目の指を」を引用したことです。

    『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章を書いたのは、当時、山口県のⅠ市にある日本基督教団Ⅰ教会の牧師をしていたⅠ牧師ですが、彼は、できるかぎり、Ⅰ教会が立たされていた、そして、彼自身が立たされていた場所から部落問題を考えようとして、山口県H市でちいさな出版社から発行された詩集『部落』からこの詩を引用したのでしょう。

    しかし、この「五本目の指を」の作者真原牧さんは、その詩集の中で、このようにも歌っているのです。

    かくれみの 着なくて
    すむ
    時が きたら
    時が きたら
    四本指 のうたなんぞ
    誰が うたいましょう

    詩の作者は、このような歌は歌いたくない、しかし、目の前にある部落差別を訴えるために、あえて、「五本目の指を」を歌ったと思われるのです。

    私は思った
    私は泣いた
        生まれ出た家のひくいのきのこと
        ねこのひたい程の耕地をむさぼる
        ひとかたまりの部落民のこと
        血族結婚の末の精神異常者のこと
        若者たちは自暴自棄
        追い返された若妻
        テテなし子
    私は死のうと思った
        傷をいやす為に

    「五本目の指を」という詩は、詩集『部落』の中に掲載された彼女の詩の中で最も暗い詩なのです。 この詩を読むと、「これが部落差別だ」とつきつけられるものがあります。 衝撃を受け、こころ動かされるのも事実です。 しかし、そこで
わたしたちが納得するところのものは何なのでしょう。 「やはり、被差別部落は、うわさで聞いていたとおり、悲惨な人々の集まりだ・・・」という差別意識の確認以外の何ものでもないのではないでしょうか。

    この詩には、部落の<過去>と、そこに直結する<現在>だけが語られていて、部落の<明日>も<展望>も<希望>も、なにも語られてはいないのです。 この詩に歌われているのは、部落という<過去>を背負わされ、<明日>も<展望>も<希望>もない<現在>の部落の状況の中でもだえ苦しむ部落民の姿なのです。

    部落解放運動は、部落の
<明日>や<展望>や<希望>を取り戻す運動であるはずなのですが、『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章は、被差別部落について、なにの希望も展望も提示していないのです。

    しかし、在日朝鮮人差別についての文章の中では、在日朝鮮人は「独自の文化と歴史を持つ優秀な民族」であり、「民族教育の場を獲得しようとする希望を実現させる」ことに共感し、「平和をもとめ誠実に生きようとする人々こそ、日本にとって必要な人たち」と、共に生きる姿勢をうたいあげています。 沖縄に関する文章の中では、「その状態を・・・忘れ去っていたことこそ差別の歴史」「沖縄・・・今や、人権を戦いとっていくあらゆる運動の原点」「沖縄が直面している重い問題を避けて日本が真に生きる道はない」と言い切るほど明日への展望と希望に満ちています。 それなのに、部落差別について語るとき、なぜ、あえて、どこにも明日への希望も展望も語られていない暗い詩を引用することにしたのでしょう。

 真原牧さんの詩を読者の前に投げ出すだけで、著者はなにの解説もしていません。 ほとんどの読者は彼女の他の詩を読む機会もなく、『洗練を受けてから』に引用された詩のみを通じて部落を知り、そして展望のない差別の悲惨さのみを認識するようになるのです。

    著者のⅠ牧師は、この詩の歌われた部落をたずね、詩に歌われた被差別部落の現実を確認したことがあるのでしょうか。 彼の書いた文章の中に、このような言葉があります。

    今は亡きアメリカの社会学者ヒューバーマンが、かって京都の東七条部落をたずねたとき、案内をした部落問題研究所のT
氏に、ありきたりに皆が問うような部落の状態など問うことをせず、ただ「あなたは過去のこの部落に何を行い、現在何を行い、将来なにをしようとしているのか」と問うた、ということです。

    アメリカの社会学者は、差別問題は、被差別者に対する展望を持つことなくしてかかわることはできないと語っているのです。 著者であるⅠ牧師は、このアメリカの学者の問いを、「京都の東七条部落」での問いとして、自分に向けられた問いとしてうけとめなければならなかったのではないでしょうか。 そうしないと『洗礼を受けてから』の多くの読者に重荷を背負わしながら自分では指1本動かすことをしない愚を犯すことにならないでしょうか。

    Ⅰ市の9つの被差別部落は、地区指定を受けることはありませんでした。 一般に言われるところの「未指定地区」のままです。 山口県の有数の都市の一つであるⅠ市の被差別部落は、1箇所も地区に指定されていないのです。 山口県独自の「みなし地区」として、被別部落の住民に個人給付が展開されているのみで、同和事業はほとんどなされていないのです。 部落海保同盟山口県連の未指定地区実態調査に同行を許されてみたⅠ地区は、想像に絶するものでした」。 戦前は日本の軍隊によって、戦後はアメリカの軍隊によって、基地を拡充する毎に袋小路の狭い地域に押しやられた被差別部落は、いまも、同和対策審議会答申以前の部落の姿を留めています。 今は亡きアメリカの社会学者ヒューバーマンが、山口県Ⅰ市の被差別部落を尋ねたら、案内をする西中国教区のⅠ牧師に、ありきたりに皆が問うような部落の状態など問うことをせず、ただ「あなたは、過去この部落に何を行い、現在何を行い、将来何をしようとしているのか」と問うたのではないでしょうか。

    『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章が差別的な文章になっているのは、西中国教区とその教会が、また牧師と信徒が、被差別部落との出会いなくして観念的な取り組みに甘んじてきたためではないかと思います。 被差別部落とそこに住んでいる人々の顔が見える場所に自分の身をおいて、
『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章を書いていたら、もっと別の内容になっていたと思われます。

    京都の東七条部落の名前を出してはばからないⅠ牧師は、彼が生活しているⅠ市内の9つの被差別部落については何の言及もしていないのです。

    日本基督教団西中国教区の私たちにとって部落とは何なのでしょう。 広島や山口、島根の住民にとって、部落とは、大阪や京都、奈良、兵庫の被差別部落のことではありません。 誰も、広島、山口、島根に身を置いて、京阪神の被差別部落の人を差別しません。 私たちにとっての部落とは、私たちが生活している場所、教会があって信徒が信仰生活を営んでいる場所、そこにある部落こそ私たちにとっての被差別部落です。 自分の現場で、部落差別問題に取り組むことこそ、アメリカの社会学者ヒューバーマンが訴えていたことがらなのです。

    Ⅰ牧師は、「部落問題は、現に日本にある6000の被差別部落、300万人の人たちんお現状を知り、差別の実態や、解放運動への働き、その思想を抜きにしてはかかわりえない問題です。」と、語ります。 6000部落300万人の部落の現状を知ることも大切ですが、私たちの身近に存在する、差別と非差別が見えるⅠ市なら、Ⅰ市内の9つの被差別部落を知ることの方がもっと大切なのではないでしょうか。 かって、教会総会決議として、<部落電動建議案>を成立サせた西中国教区にふさわし取り組みになると思います。

2023年5月14日日曜日

第1章第4節 部落の呼称

第1章 部落差別を語る
第4節 部落の呼称

    1995年12月1日発行の『解放へのはばたき』(第49号
)に、「部落差別問題Q&A 第11問」という文章があります。 その中で、

■今日はぜひお尋ねしたいことがあります。
□あらたまって何ですか。
■部落解放についてです。 部落解放、部落解放とよく聞きますが、その内容がよく解らないのです。 まず部落という言葉です。
□部落解放と言うときの部落は被差別部落をさします。
■未解放部落ということを聞いたことがありますが、同じなんですか。
□たしかに未解放部落と呼んだ時代もあります。
■なぜ、被差別部落に変わったんですか。
□未解放部落だと、いわゆる部落だけが『未解放』で、あとは解放されているように受けとられたからです。
■なにか「部落」だけに問題があるからという誤解を招くからですか。
□それもあります。 「未解放」と言うと、何からの解放か、解放を妨げているのは何かが見落とされてしまうからです。

    少しく引用が長過ぎましたが、この文章を書いたのは、日本基督教団部落解放センター委員の方です。

    最後の問いと答えについて、少し考えていきたいと思います。 ご存知のように、江戸時代の身分制度の中で、「穢多・非人」と言われた人々は、「穢多部落」「非人部落」と呼ばれた地域に居住することを強制されていました。 しかし、明治以降は、その差別的な呼称は廃止され、行政用語としては「特殊部落」という言葉が使われました。 しかし、 この言葉は、「穢多部落」と同じように差別的な響きの強い言葉でした。 「特殊」という言葉は、<特殊>技術とか、<特殊>技能とか、そういう言葉にみられるように「優れた」内容を表現する時に用いられます。  しかし、部落差別に関しては、社会的・身分的に劣位にある人々を指して「特殊」という言葉が用いられたのです。 この逆転した発想の中に差別性が認められるのですが、1922年の水平社宣言では、部落の人々が自分自身を指してこの言葉を用いています。 「全国に散在する特殊部落民よ団結せよ!」。 被差別部落の人が自分で自分を「特殊部落民」と呼んでいるのですが、しかし、この言葉の使い方には注意が必要です。 なぜなら、水平社宣言と同時に出された「決議」においては、「吾等に対してえた及び特殊部落の語をもって侮辱の意思を表示したるものは徹底的に糾弾する」との宣言があわせてなされているからです。

    部落のひとが、差別用語であると認識しつつ自らを表現する呼称として「特殊部落民」という言葉を用いたことが、戦後、問題となり、「特殊部落」に代わる用語が求めれるようになりました。 そこで登場したのが、「未解放部落」という表現です。 部落解放全国委員会(のちの部落解放同盟)の北原泰作氏は、その著書『屈辱と解放の歴史』のはしがきで、「未解放」とは「封建的身分差別から解放されていないという意味」である旨明記しています。  『解放へのはばたき』(49号) の文章は、「「未解放」というと、何からの解放か、解放を妨げているのは何かが見落とされてしまうからです・・・」と語っていますが、未解放という言葉は、あいまいな意味内容の言葉ではなく、「封建的身分差別」からの解放をさす言葉として意図的に部落解放運動の中に導入された言葉です。 「何からの解放か」という問いに対して、明確な解答を提出するものでした。

    しかし、「未解放」という言葉は、早い時期に意味内容の不備がとりあげられ、他の言葉「被差別部落」に置き換えられていきます。 部落解放運動の進展の中で、部落解放運動は、「封建的身分差別」からの解放だけでなく、部落差別が封建遺制の残滓として、それを「許し利用している資本主義と権力」に よって拡大・再生産されているという分析と認識から、部落、封建遺制としての部落差別に対する闘いを越えて、差別を民衆支配の道具として利用する資本主義や権力がつくる新たな差別に対しても闘う必要に直面するのです。 この解放運動の内容をあらわすに耐える部落に対する呼称として、「未解放部落」という言葉に変えて、「被差別部落」という言葉が用いられるようになるのです。1950年代半ば頃から使われはじめましたが、一般的に用いられるようになったのは、1960年代半ば頃からでした。 「未解放部落
」から「被差別部落」への呼称の変更は、「現代の部落問題を封建遺制とする見方から、現代資本主義とその権力の人民収奪と支配の一形態であるという見方への移行」(井上清説)が意味されていたのです。 

    部落差別が単なる封建遺制なら、黙っていても、何もしなくても、時代と共になくなってしあうでしょう。 しかし、現代の権力や社会がそのことを民衆支配の道具として利用し、差別をあらたな形で再生産しようとするなら、そのようなあらたな力に対して運動を展開する必要が出てくるでありましょう。 戦後の部落解放運動は、歴史の過去の差別だけでなく、新しく補強され強化されていく現在の差別や未来の差別も部落解放運動の射程におさめたものです。

    日本基督教団西中国教区の宣教研究会から出版された『洗礼を受けてから』という新書版に記載された部落差別に関する文章の中に、部落に関する呼称と部落解放運動の変遷に関する明確な認識がみられます。

    「差別の問題、たとえば冒頭の未解放部落差別をはじめとして・・・(中略)たとえば、未解放部落(被差別部落)について、この問題を封建遺制だと考える人たちがいます。徳川時代に作られた過った制度や考え方が、今日も観念の残存として残っているという見方です。 (中略)部落問題は、現に日本にある6000部落の被差別部落、300万人たちの現状を知り、差別の実態や、解放運動の働き、その思想を学ぶことを抜きにしてはかかわりえない問題です>。

    この文章の著者は、「未解放部落」「未解放部落(被差別部落)」「被差別部落」と、表現を意図的にかえつつ、日本基督教団西中国教区の諸教会が、部落をどのように呼ぶか、その範例を提示しているのです。 宣教研究会のこの文章は、当時の西中国教区の諸教会の部落差別に関する意識・運動に対して先駆的意味合いをもっていました。 『洗礼を受けてから』の改訂版が出されてから3年後、西中国教区の「未解放部落セミナー」は「部落解放セミナー」へ名称変更されました。 

    『信徒の友』に記載された東北学院大学A教授の歴史理解と違って、『洗礼を受けてから』の文章は、部落解放運動の理念を積極的に評価した文章でした。

2023年5月12日金曜日

第1章第3節 部落差別はなくなったか

第1章 部落差別を語る
第3節 部落差別はなくなったか

 もし私が、東北学院大学教授Aの文章を、部落差別に関して、「差別文書」ないしは、「間違った認識を助長する文章」であると、問題提起したとしたら、どうなるのでしょう。

 私はいままで、西中国教区部落差別問題特別委員会の委員としての若干の職責を果たすために、差別事象(差別発言や差別行為)に遭遇するごとに、その差別性を指摘してきましたが、他者の差別性を指摘するということは、それほど簡単なことではありませんでした。

 山口県で被差別部落の歴史を発掘してきた北川健先生は、社会同和教育等の不特定多数の人々の前で、部落差別に関する指摘をすると、顔に火がついたような思いをする・・・・といっておられました。 聴衆の差別に満ちた眼差しが、一瞬に講師に向けられるからです。 「あの人は、熱心に同和教育に関わっているから、同和ではないか・・・」と言われるようになります。 北川健先生は、部落差別は、「自分の身をさらして語る」ことなくして語れないと言われます。

 北川先生がよく言われる言葉に、<自分はずし>という言葉があります。 <自分はずし>というのは、部落差別について言及したり、部落差別を指摘したりするときに、「私は部落出身ではないけれども・・・」と、自分を問題の枠外に置きながら部落差別の話しをするという姿勢です。

 部落差別について少しでも学べば、同和教育の「たてまえ」と違って、現実の社会には部落差別が歴然として存在しているのに気付かされます。 
差別事象(差別発言や差別行為)の指摘は、指摘されたものにさまざまな精神的葛藤と、また、指摘したものに対して中傷と攻撃、疎遠を引き起こしてしまいます。 部落出身であってもなくても、差別事象の指摘は、いまも、「顔に火のついたような思い」をしなくてはなし得ない行為であるのです。

 私は、他者の差別性を「問う」ときは、いつも同じ差別性についての問いをみずからに問いかけなければならない弱さをもっています。

 新約聖書のルカによる福音書に、「よきサマリヤ人」のたとえ話があります。 その内容は、聖書本文を読んでいただくとして、このたとえ話には、古来からいろいろな解釈があります。 しかし、部落差別問題について、この聖書の言葉からなんらかの示唆を受けるために、私はこのように解釈します。

 エリコという町へ旅をする途上、あるひとが山賊にあって身ぐるみはがされ半殺しの状態で山中に放置されます。 そのあと、そのかたわらを3人の人が通り過ぎて行きます。 祭司とレビ人と、サマリヤ人です。 

 聖書のたとえ話の中には、これら3人の人がどのような「思い」で、それぞれの行為を選択したのかは記されていません。 しかし、もしこのことがあとで、多くの人に、現代社会で言えば多数のマスコミが押し寄せてきてあれやこれや発言を求められ問われたとしたら、彼らはどのように答えたのでしょう。

 祭司とレビ人がする弁明は、推測に難くありません。 彼らはこのよう答えるのではないでしょうか。 「あの場所は山賊が出る場所なのですか。 私は知りませんでした・・・」。 「私が通り過ぎた道のかたわらに、山賊に襲われて傷つき倒れた人がいたなんて、いえ、まったく気づきませんでした・・・」。 知らなかったということが、気付かなかったということが、すべての責から自分を免罪するかのごと主張すると思うのです。

 「知らない」という言葉は、<差別者>が<被差別者>の前で身にまとう最初の<隠れ蓑>なのです。 なかには、1年たっても、2年たっても、3年たっても、10年たっても、こと部落差別に関しては、「知らなかった」、「知らなかった」・・・、と連発する人がいます。 それで本人も周囲も納得してしまうのです。

 彼らは、あとからやってきたサマリヤ人が、傷つき倒れた旅人を助け起こし介抱して宿屋に連れて行き適切な処置をしたという事実をつきつけられて、それをどのように受け止めるのでしょうか。 祭司やレビ人は、サマリヤ人の行為を認めるどころか、倒れた人に示した彼らの姿勢、無関心と疎外、差別と蔑視のまなざしをもってこのサマリヤ人をも見たのではないでしょうか。 彼らにとっては、<罪人>とまじわるものは<罪人>でしかなかったからです。

 サマリヤ人は、祭司やレビ人と違って、神学に精通し、信仰に奥深さを持っていない存在であるのかもしれません。 しかし、祭司やレビ人の目から見て、無学で不信仰と思われていたサマリヤ人こそ、イエス・キリストの福音に忠実に生きようとする人間の姿ではなかったでしょうか。 

 このたとえ話を、部落差別を考えるときのひとつのモデルとして解釈するとき、たとえ話に出てくる祭司やレビ人の姿こそ、今日の日本基督教団の牧師や信徒の現実の姿ではないかと思えるのです。 傷つき倒れた旅人のかたわらを見てみぬふりをして、黙って通り過ぎたとしても(差別事象を看過しても)何の痛みも感じないですませることができるのです。 むしろ、そうすることが彼らの「正義(ただしさ)」でもあるのです。 彼らが見て見ぬふりをして通り過ぎた差別事象は、そのことを指摘し、問題にする人がいなければ、その事実は、永遠に問題にされることなく、彼ら自身のありかたも誰からも問われることなく闇から闇へと葬りさられていきます。

 もし、サマリヤ人のような人が存在して、傷つき倒れた旅人に共感し、彼の隣人となり、山賊(権力)と祭司やレビ人(差別の傍観者)の現実を指摘し、問題提起をし、彼らの差別性や罪を問うというようなことがあったとしたら、サマリヤ人は周囲からどのような対応を受けるのでしょうか。

 前述のように、差別を指摘された人は、多くの場合、「何も知らなかった・・・」という万能の隠れ蓑に自分を包み込んで、自分の免罪を図るでしょう。 意図的な差別をするつもりはなかったこと、それでももし差別したとしたら、それは無意識的・無自覚的にしたのであって、彼の本意ではないことを主張するでしょう。

 しかし、サマリヤ人との対話の中で、自分の差別性に気づきはじめたとき、現代の祭司やレビ人は、自分のこころの中の良心に耳を傾け、自分の差別性を認めるのではなく、その問題を指摘した人に対して、かえって激しい憎しみと敵意を持ち、場合によってはなりふりかまわず反撃をしかけてくるのではないでしょうか。 「ひとの差別性を指摘するおまえには、差別性はないのか! 」 「私は差別意識を持っていない。 単なる言葉尻をつかまえて、おまえはおれを差別者にしたてようとするのか! 」 「糾弾するならしてみろ。おれにも考えがある! 」・・・。 具体的なできごとの中で、何度も耳にした言葉です。

 イエス・キリストのたとえ話は、現代の祭司やレビ人である私たちが、私たちの差別性を問う<被差別>からの問いにまったく無恥・厚顔になりうることを示しています。本当にイエス・キリストの福音に立脚していなければ、祭司やレビ人の側からサマリヤ人の側へ、自分の立ちどころを変えることはできないのです。 <被差別>の声に耳を閉ざし、自己弁明と自己保身に終始し、かえって、差別性を指摘する人々を孤立させ、疎外と抑圧の対象にしてしまうのです。

 たとえ話の祭司やレビ人は、決して不信仰の人ではなく、信仰的な人たちです。自分たちの信仰の深さを自負してやまない人々です。 だからこそ、傷つき倒れた隣人のかたわらを見て見ぬふりをして通り過ぎる、部落差別問題に関わりをもつことをためらい遠ざかる、その姿勢が問われるのではないでしょうか。

 職業差別を中核とする、封建的身分制度の残滓は、今もなお私たちの社会に存在しているのです。 東北学院大学・A教授が語るように、歴史認識に枠外にはずしていい過去の問題ではありません。 むしろ、近代日本の社会にあっても、さまざまな形に変形しつつ近代資本主義の民衆支配の道具として、拡大・再生産されつつ、より陰湿な形で存在し続けているのです。 

 被差別部落の人々(彼らは同じ被差別部落の人々を「同胞」と呼ぶ)だけでなく、被差別部落の人々と共に生き、共に闘おうとする人々(被差別部落の人々は彼らを「同志」と呼ぶ)に対しても、同じような差別と憎悪とが向けられます。 江戸時代にも、開かれたこころと頭脳をもって、<部落差別>の枠を越えようとした人々は少なからず存在していました。しかしそのような人は、<穢多>と交わり、<穢多>と共に生きる・・・、ということで<穢多>身分に落とされてしまいました。 封建時代からまとわりつく、部落差別の幻影は、今日の私たちの精神構造の中にも深くその影を落としています。 たとえ話に出てくる倒れた人だけでなく、彼に近づくサマリヤ人も忌避と疎外の対象になってしまうのです。

 私のささやかな取り組みの中でも、西中国教区の先輩牧師からこのような言葉が投げかけられました。 「人が誰でも避けて通る問題に殊更熱心になるのは、お前の人格になんらかの欠陥があるからだ。」と繰り返し力説する教職。 「そんなに熱心に部落差別と関わるなら、牧師をやめて、解放運動に専心したらよかろう。 あんたには、それが似合っている。」と、恐ろしく差別的な発言をする牧師。 「あなたに向かって同和に関する差別発言をしたのは、あなたがほんとうに同和問題に取り組もうとしているのかどうか確かめるためで、決して悪気で言ったのではない。」と、どう受けとめていいのかわからないほど、屈折した言葉を後輩の牧師である私に投げかけてくる先輩牧師・・・。

 誰でも、部落差別問題が机上の学習であるかぎり、これらの差別事象に遭遇することはないでしょう。 しかし、被差別部落の人々と交流し、部落解放運動にかかわり、自分の身の回りにおける差別事象について、何ごとかを語りはじめるとき、私たちは、部落出身であろうとなかろうと、まるで、私たちが部落出身者であるかのごとき差別的な場面に直面させられることになるのです。

 しかも、差別してくるのは、あたから最も遠い人々がそうするのではありません。 あなたの最も身近な人々が、あなたをこれまでとはまったく違った視線で見るようになり、気がついたときには、あなたは周囲から完全に孤立し、疎外と蔑視の中に立たされていることでしょう。

 差別はあるのか、ないのか・・・。その問いに対する答えは一つしかありません。 封建時代から遠く隔たった現代社会の中においても、いまだに根深く存在しているのです。 部落差別が存在することを経験的に知る最短の方法は、北川健先生がいわれるように、最初から<自分はずし>をしないで、部落<差別>について語り始めること。 あなたの身近なところで、学校や職場で、家庭や教会で、差別について語りはじめること。 部落差別の現実は、あなたが部落民であることを告白することでも、部落民になることでもなく、被差別部落の人々の隣人になるとこで、直接経験することができるのです。 あなたから遠い人ではなく、あなたの最も近い知人・友人・隣人があなたを差別しはじめるからです。


2023年5月11日木曜日

第1章第2節 部落<差別>とはなにか

第1章 部落差別を語る
第2節 部落<差別>とはなにか

 私が部落差別問題に関わるようになったのは、13年前、西中国教区の小教会に赴任した年の総会で、 当時の広島キリスト教社会館館長のM牧師から、西中国教区部落差別問題特別委員会設立の建議案」が出されたことにはじまります。

 当時日本キリスト教団は部落解放センターを拠点に、部落差別問題についての取り組みを全国的に展開するために各教区に、部落差別問題特別委員会をつくるよう働きかけていました。  西中国教区でもその呼びかけに呼応して、「西中国教区部落差別問題特別委員会」を建議案の形で成立させたのです。 この成立過程は、これまでの西中国教区の部落差別問題との取り組みの経緯からすると、部落差別に関心をもった一部の人々から提出された建議案としてではなく、教区全体の課題として、常置委員会提案の形で正式議案として提出されるべきものでした。 このことは、部落差別問題<特別>委員会を、教区の活動から遊離した、また教区の部落差別問題の取り組みの<代行>機関にしてしまいました。 

 総会での審議の過程で、当教会の信徒議員のK姉が、M牧師の建議案に賛同して、「教会はもっと部落問題と取り組まなければならない」と、信徒議員として賛同の意を表しました。 そのとき、雛壇にいた教区執行部から、「今の信徒議員の発言は差別発言である。 西中国教区は長い間、部落差別問題に取り組んできて共通認識を持っている。 <部落>に問題があるのではなく部落<差別>に問題があるとの認識から、部落問題ではなく、部落<差別>問題と呼ぶようにしている。 」との、K姉の発言が差別発言である、という指摘の内容説明がありました。

 私は、「差別」という2字があるかないかで、差別発言であるかないかを断定する(こういうのを差別語狩りという)教区の執行部に、一種の<驚嘆>と<恐れ>を抱きました。 その総会で、私は、部落差別問題特別委員会の一委員に選任されたのです。 そのことは、教会に持ち帰り、教会役員会で審議しました。 「教会役員会が反対なら私も辞退したい・・・」と言ったのですが、教会役員会は、「信徒議員も賛同したことですから・・・」ということになり、私は一期二年のみ委員を引き受けるという、教区執行部との約束のもとに委員を引き受けました。


 部落差別問題に関するほとんど予備知識もなく、また解放運動がなになのかも知ることもなく、部落差別問題特別委員会の委員になりました。 そして、自分で委員を辞退するまで、四期八年に渡って、部落差別問題特別委員会の委員をしてきました。 うまれつき優柔不断な私は、他の委員の方々と違って、その間、それほど部落差別問題についての取り組みをしたわけではありませんでした。 学校で同和教育を担当されている方々の集会に参加していた程度でした。 部落差別問題特別委員会の委員をしていた全期間を通じて、「貧しい取り組みでしかなかった」事実は、自他共に認めるところですが、その間、私をして、部落差別について深く考えさせられるいくつかのできごとがおこりました。

 ひとつは、私が牧会をしている教会の信徒・O兄が自殺するというできごとでした。 彼の自殺に先立って、彼が信徒としてつかえたふたりの教職(牧師Nと牧師T)が相ついで自殺することがありました。 O兄は、そのことをとても残念に思っておられ、自分がつかえたふたりの教職の死を悲しみをもって受けとめておられましたが、牧師Tが自殺して数カ月後、彼は突然自分のいのちを絶ってしまいました。 二人の教職と信徒O兄の死は、私と教会にとって、耐えがたい苦渋に満ちたできごとでした。

 O兄は、被差別部落の女性と結婚し、被差別部落の中に住んでいましたが、息子さんや娘さんがそれぞれ成長し結婚、同じ子育てをするなら被差別部落の外で・・・ということで、年老いた彼を残して部落の外に出ていってしまわれました。 年老いた彼にとって、ひとり暮らしは大変であったのでしょう。 「できれば、むすこやむすめに帰ってきてほしい」という願いもむなしく、彼は、ある日、自分の孤独な生涯に自分で終止符を打ってしまいました。

 牧師である私は、その当時、部落差別は封建遺制であり、部落に住むから差別される、部落を離れたら被差別部落の人は差別されないのではないかと・・・融和主義的な考えを持っていました。 年老いてひとり部落にとり残された父親のO兄よりも、部落を出て、差別されない場所でこどもを育てたいという息子さんや娘さんの気持ちの方がより理解できたのでした。

 O兄の死は、私にとってはとてもショックでした。 その後、私は、真剣に部落差別とはなにかを考えるようになりました。 <なぜ、部落の青年に、部落に戻って年老いた父と一緒に住め・・・>というすすめができなかったのか、部落差別に関する自分の認識や理解を自己批判するようになりました。 それが、私と部落差別問題との具体的な関わりのはじめでした。

 私は、部落差別を、部落解放運動家たちがしている部落解放運動の延長線上で捉えたわけではありません。 キリスト教会の一牧師として、その宣教と牧会の営みの中で、部落差別問題が自分の課題になっていったのです。 私は被差別部落出身者ではありませんし、自分のこととして、部落差別を語る内実を持っていません。 しかし、信徒のO兄の死は、私に大きな課題を投げかけました。 部落差別とは何なのか。 部落差別を克服していくにはどうしたらいいのか。 牧師としての、宣教と牧会の課題として、<部落差別>を明確に意識して取り組むようになりました。

 ふたつめのできごとは、山谷の日雇い労働者の闘いを描いた映画「やられたらやりかえせ」の上映運動をしている際に、キャラバン隊のメンバーとして、広島キリスト教社会館の一青年が下松にやってきたことです。 彼は、上映会のあとの飲み会のときに、このような自己紹介をしたのです。

 「私は、広島キリスト教社会館の一青年です。 部落出身です。 社会館では、部落差別だけでなく、在日の問題から平和・人権の問題まではば広く取り組んでいます。 いろいろな取組をする中で、私は、たかが部落差別だと思うようになりました」。 そのとき、上映運動に参加した人たちは、「そうだ、そうだ、たかが部落差別だ」と拍手喝采しました。 山口県の高校で同和教育を担当している教師たちの発言でした。 私は、その場で、『社会館の青年にとっては、部落差別を克服するための自己の体験としてそのように表現したのだから、それなりに留保するとして、私たちが、「そうだ」「そうだ」というのは間違いではないか。 <たかが>という言葉で総括することができないほど、部落差別が深刻であることは私たちも知り過ぎるほど知っているではないか・・・」と発言しました。

 そのとき、広島キリスト教社会館が、どのような解放運動をしているのか、問題を感じました。 「たかが」という言葉は、「どんなに多く見積もっても」という意味の言葉です。 問題解決に対して努力するという前提なく、ただ対象を傍観して、事態を軽く見る、軽視する気持ちがあるときに用いられる言葉です。部落出身の青年にとって、部落差別というのは、「たかが」という言葉で総括されるような内容なのでしょうか。 部落の青年に、活動の中でそのような意識を植え付ける広島キリスト教社会の部落差別問題との取り組みはいったいなになのか・・・。 そのとき」抱いた小さな疑問は、やがて、当時の広島キリスト教社会館館長のM牧師の部落差別問題との取り組みの姿勢に対する問題意識へと発展していきました。

 3番目のできごとは、「やられたらやりかえせ」の上映会に、支部の人全員(おとなもこどもも)で協力してくださった部落解放同盟山口県連新南陽支部の書記長をされているFさんにさそわれて、「解放学級」に参加されるようになったことでした(注)。

 「なぜ、部落の集会に参加するのですか」という新南陽支部の老婦人の問いに、私は、「牧師としてのつとめをまっとうするために、部落差別が何かを正しく知りたくて・・・」と答えました。 差別をなくするとか、部落解放を前進させるためとか、そんな大義名分のためではなく、自分の日常の教会の中で直面していることになんらかの解答を見出したいと思ったからです。

 あるとき、部落解放同盟新南陽支部は、新南陽市を相手に糾弾会を開きました。 それは

、新南陽市の差別住宅条例に関する差別事件の糾弾会でした。 そのとき、解放同盟の青年たちが語っていたことがらに、私は自分の耳を疑いました。私も前述のK牧師と同じように、部落差別は封建遺制の問題として捉えていたのです。 江戸時代の幕府が民衆支配として採用した(再タイピング中です)統治方法で現代日本の社会ではただ残滓としてのみ存在している。近代的人権意識の普及と共にやがてはなくなるもの・・・と思っていたのです。 ところが、新南陽市の被差別部落の歴史と現在は、私のそのような思惑を超えるものでした。

 新南陽市には、四つの被差別部落があります。

 ひとつは、江戸時代に成立し、明治以降も部落として存在していた地区です。しかし、戦後、国鉄の操車場の拡張のために解体され部落としての地区実態を失った地区です。 その地区住民は、いまは、一般の側に住んでいますが、部落がなくなっても、いまだに部落民として差別されているということです。

 2番めは、江戸時代に成立し、そして今もなお部落として存在し、同和地区の指定がされている地区です。 その地区に、部落解放同盟新南陽支部が存在し、部落解放運動の取り組みが困難な環境にありながら、地道に解放運動を展開しています。

 3番めは、大正時代の部落融和事業の一環で、2番目の部落から一般の側へ集団移転した人々が住んでいる地区です。 「部落に住むから差別される」というので大正時代、新南陽支部のある部落から、一般の側にある部落に移住したのですが、当初のもくろみにもかかわらず、今は部落として地区指定されています。 この地区のひとびとも部落として差別されている現実があります。 

 そして、衝撃だったのは、4番めの地区のことでした。その地区は江戸時代、部落ではありませんでしたし、明治以降も一度も部落に数えられたことがない地域です。 それなのに、行政の施策の都合で、同和地区指定され<部落>とされている地区です。

 糾弾会の時に、部落解放同盟新南陽支部の青年部長のFさんは、「部落ということでどれだけ差別を受けてきたか。 私たちは部落として差別されていることは知っている。しかし、W地区の人々は、行政がたかだか道路1本を引くために、部落でないのに地区指定されて部落とされている。 W地区の人は、最近、結婚も就職もうまくいかないが・・・ということで、同和地区指定の実態を知らないまま部落の人と同じ差別を受けることになるのではないか。 部落出身であろうとなかろうと、誰ひとりとして部落の名で差別されることは許せない。 W住民にことの経緯を明らかにし、地区指定を解いて国庫から受けた同和対策事業費を返還すべきである・・・」と訴えていたのです。

 山口県新南陽市に存在する四つの被差別部落の存在の多様さは、部落差別が単なる封建遺制の問題ではないことを物語っていました。 部落は、明治以降お、そして戦前の融和事業や、戦後の同和事業の最中にあっても、拡大・再生産され続けたのです。私が被差別部落に出向いて自分の目で見た部落差別の現実と実態とはこのようなものでした。

 しかも、部落解放運動は、ただ、被差別部落の民衆による、被差別部落民衆のためだけの闘いではなかったのです。 「彼らは、部落のためだけでなく、差別の恩讐を乗り越えて、民衆の人権確立のためにも闘っている。 それなのに、私たちは、そのような運動に対して傍観者でいいのか・・・」。 その時持った印象は極めて強烈でした。

 行政を相手に、部落解放同盟中央本部の小森龍邦委員長が、静かに、切々と、差別がなんであるのかを訴えておられた姿を見て、世にいう「糾弾」がなんであるのかも知ることができました。 その部落解放同盟新南陽支部とのまじわりは、西中国教区の部落差別問題特別委員会の委員を辞したあとも継続しています。

私は、部落出身者でもなければ、部落解放運動<家>でもありません。 しかし、差別問題を皮相的にしかとらえていない、西中国教区の牧師や信徒のなかには、私のこれまでの取り組みを「解放運動のプロ・・・」「だから、誰も追従できない・・・」かのように言われる場合もありますが、それはまったくの事実誤認です。 私は、一牧師として、宣教の課題・牧会の課題として、この問題を考え続け祈り続けたにすぎません。おそらくこれからもこの姿勢に変わりはないでしょう。

2023年5月8日月曜日

第1章第1節 部落差別とはなにか

第1章 部落差別を語る
第1節 部落差別とはなにか

 1995年12月号の『信徒の友』に、東北学院大学・A教授が、このような文章を掲載していました。

 <それから、先進国の若者ほど人生の進路に悩むという問題があります。 昔は武士に生まれたら武士、百姓に生まれたら百姓で一生を終わるのがあたり前でした。 今でも「近代化」の波に洗われていない伝統的な社会では、人々は遊牧民に生まれたら遊牧民、農民に生まれたら農民ということにあまり疑問を感じていません。 しかし現代日本のような社会では・・・>

 この文章は、部落差別問題について書かれた文章ではありません。 しかし、Aの教授は、自分の議論を展開していくために、江戸時代の身分制度を題材としてとりあげています。 「武士に生まれたら武士、百姓に生まれたら百姓」という封建的身分制度は、江戸時代の「士農工商」制度として知られています。 さらに言えば、この身分制度は、明治以降の近代日本の教育の中では、「士農工商・穢多非人」という形で歴史教育されてきました。 江戸時代の身分制度は、「武士に生まれたら武士、百姓に生まれたら百姓」だけでなく、被差別にある人々に対して、「穢多に生まれたら穢多」であることを強制する制度でした。

 居住と職業を強制する身分制度は、江戸時代の被差別民衆の上にも重くのしかかっていました。 身分制度に疑問を感じなかったどころか、大いに疑問を感じ、「士農工商」という縦一列の封建社会を横一列の社会に改革しようという農民一揆は、江戸時代を通じて数限りなく発生しました。 身分制度の最下層に身を置かれた「穢多非人」と呼ばれた人々は、封建的身分制度のまっただなかにおいても「脱賤」(被差別民衆)がその出身を隠して一般の側に身を置くこと)という方法で、身分制度の重圧をはねのけ、それに抵抗していきました。

 A教授は、「『近代化』の洗われていない伝統的な社会では、人々は遊牧民に生まれたら遊牧民、農民に生まれたら農民ということに、あまり疑問を感じていません」・・・と書いていますが、伝統的な社会であればあるほど、遊牧民は遊牧民としての、農民は農民としての抑圧と悲哀を感じているのではないでしょうか。

「解放の神学」運動が展開されてきた、南米やアフリカ等の民衆の人権確立の運動は、前近代的・封建的身分制度からの解放運動をも内包しているのです。 ちなみに旧約聖書は、遊牧民屋の被差別・被抑圧からの抵抗と解放の物語(歴史)ではないのでしょうか。

自分の国を「先進国」と位置づけることになにのためらいも感じていない東北学院大学・A教授は、その対局にある<後進国>(<開発途上国>ともいう)の人々に対して、彼らの置かれた現状を無視した、「俗説」を展開しているように思われます。 「農民に生まれたら農民ということに、あまり疑問を感じて」いない人々・・・。 よく「寝た子を起こすな」ということが言われますが、A教授によってこのように表現されている<後進国>の人々は、まさに「寝た子」にあたります。 また、彼らは、起きようとしているのに、様々な政治的抑圧のもとに、「寝た子」であることを強制されているひとびとであるともいえるのです。

 <後進国>の人々に対する<俗説>を展開しているA教授は、「先進国」「現代日本のようさ社会」に対する正しい認識を欠きます。 「しかし、現代日本のような社会では・・・」と続く文章は、現代の若者の動向を綴る文章へとクロスしていきますが、この文章によって、A教授は、「先進国」日本の社会には、もはや、<後進国>、昔や今の伝統的な社会で見られるような身分差別(職業差別を含む)はないと主張しているように思われるのです。

 封建的身分制度は、ほんとうに私たちの社会からなくなったのでしょうか。 江戸時代の身分制度は、「先進国」日本にも、部落差別という形で継承・温存され、場合によっては、資本主義の社会的・経済的構造の中で拡大・再生産されているのではないでしょうか。

 A教授の文章は、統一教会やオウム真理教などのカルトの問題をとりあげ、教会がそのカルトに囚われた若者を救済する必要を訴えているのですが、A教授は、「人間とは、自分を本当に受け入れてくれる人に出会うと「変わる」ことができる存在なのだ」と強調します。 同感するところですが、今日の教団や教会は、被差別部落の民衆を、また被差別部落に代表される多くの被差別民衆を、「本当に」受け入れることができるのでしょうか。 また受け入れているのでしょうか・・・。 多くの教会で一般的に見られる、「寝た子を起こすな」という言葉に代表される、「無関心」「ひとごと」「さわらぬ神にたたりなし」といわれるような対応は、被差別民衆がイエス・キリストの救いにあずかることをさまたげることはすれ、決して彼らを教会に、「本当に受け入れる」ことにはつながらないでしょう。

 1995年3月、オウム真理教への強制捜査を撹乱するために、オウム真理教東京総本部火炎ビンを投げ込んで逮捕・裁判にかけられた元オウム真理教信者Iは、10月の初公判の意見陳述において、「自分は同和地区に生まれ育ち、いわれなき差別に苦しんできました」とオウム真理教への入信動機と被差別体験を語りました。 「一度は結婚したものの、一方的に離婚させられ、なにかにすがりたい一心だったとき、オウムの本に出会い、矛盾や疑問がとけたと思いました。 私のような悩みに苦しむ人を救いたいと思い、オウムに入信しました」と告白したのです。

 オウム真理教教祖・麻原彰晃は、自らが身体障害者であること、障害者差別問題に関与していることを力説しつつ、被差別部落出身ではないにもかかわらず、被差別部落出身となのり、そのことで被差別部落の青年を懐柔、とりこみ、彼らの解放のために労するのではなく、かえって、彼らを自己の野望の実現の道具として利用し犯罪へと駆り立てていった事実は、とうていゆるされるべきものではありません。

 I被告にとって、オウム真理教は、部落民としての彼を「本当に受け入れてくれる」存在ではありませんでした。 部落差別に関する啓発が、「部落」に対する「恐れ」をとりのぞき、その結果、「部落」をあらたな差別のもとに置く・・・オウム真理教にみられるような体質を、私たちはどのように払拭しているのでしょうか。 

 オウム真理教やカルトにとらわれていった青年たちを救済するには、部落差別に関する正しい認識を持つ必要があります。 東北学院大学・A教授の書いた前掲の文章を読む限り、教会が、あるいは基督教主義の大学が、被差別部落の人々にとって、「自分を本当に受け入れてくれる」存在になっているとは言い難いと思うのです。

 被差別部落の人々を受け入れる・・・ということは、(1)被差別部落の歴史的状況を正しく把握する、(2)被差別部落の今日的状況を正しく把握する、(3)被差別部落の人々と<未来的状況>を共有することを意味します。

 「部落」とは、昔、なにだったのでしょう。 今、ないなのでしょう。 そしてこれから、なにでありつづけるのでしょう。 被差別部落の人々を受け入れるというのは、この三つの問題に答えることができてはじめて可能なことがらなのです。 被差別部落民衆のレーゾンデートル(存在理由)を共有する、そのことができてはじめて、部落の人を「本当に受け入れる」ことに繋がるのです。

 被差別部落の人々に、「<現在>のあなたなら受け入れましょう」というのは、受け入れることを拒否しているに過ぎないのです。 他者を本当に受け入れるというのは、被差別民衆の<現在>だけでなく、過去・現在・未来、神によって生を与えられたその全存在を受け入れることと同じなのです。

 権力によって、「百姓に生まれたら百姓に」という生き方を強制されることと、農民が、農民であることに誇りと生きがいとをもって、農民の道を選択していくこととは、まったく違います。 被差別部落の人々が、国家や社会によって「部落に生まれたから部落」という生き方を強制されるのと、部落民が、自分たちの歴史を掘り起こし、再解釈し、被差別に置かれながらそれに負けず、破れても破れても戦い続けてきた歴史を自分の手に取り戻し、今日の部落民として生きるその姿勢に反映させ部落民としての明日を切り開いて行こうとする生き方を選択するのとは、まったく次元が違います。 部落を受け入れる・・・というのは、部落の過去・現在だけでなく、未来をも受け入れることなのです。

 しかし、当教区には、前述のような受容の仕方とは異なる受容の仕方が存在しています。 。1992年、北海道から沖縄までの教区・教会を対象にして、部落解放全国キャラバンが実施されました。 その際、西中国教区・K牧師(教区の旧執行部)によって、「なぜ、被差別部落出身を名のり、強調するのか。 だまっていればいいのに。 いまさら、ことさら部落出身を名のることはないのに。 」という発言が、部落解放全国キャラバンに参加していた部落出身の牧師に向けられました。 その経緯は、「走れキャラバン」という本にまとめられていますが、その発言について、被差別の側からこのような反論がなされています。 「言葉を変えていうならば、部落の者は差別から逃避し、差別に立ち向かうことをやめて生きていきなさいと奨励している」。 この発言は、「部落差別をなくそう、部落を解放しようと頑張って運動をしている部落大衆にとっては許すことができない発言」だと言われています。

 そのあと、K牧師と話をしたことがありますが、K牧師は、彼がなぜ差別だというのか、よくわからないというのです。 私は、K牧師が部落差別についてこれまでいろいろな形で取り組みをしてきたことを知っています。彼は決して、部落解放全国キャラバンに参加した部落出身の牧師を差別するためにあのような発言をしたのではありません。 部落差別はなくなればよい・・・それは彼のこころからの願いでもありました。 彼は彼なりに部落差別に取り組んできた果に、彼は、まさにこの問題に直面したのです。

 彼によると、部落差別を江戸時代の身分制度が今日まで残っている封建遺制の問題として受けとめていたというのです。 封建遺制の様々な問題は社会の近代化と近代的人権意識の確立でやがて解消する。 「部落」であるという理由で、誰も差別したりされたりしない時代がやってくる。 それなのに、なぜ、いまあえて、部落を名のって運動を展開しようとするのか(時代に逆行することにならないか・・・)。 K牧師の言葉は、彼ひとりの言葉ではなく、日本基督教団の部落解放センターの<部落解放運動>と、西中国教区の<同和問題との取り組み>のギャップを物語るものでした。 なぜ、教団の解放センターと西中国教区の取り組みの間に、そのような認識と意識の違いが生じたのか。 それを検証し、克服していくことは、K牧師だけでなく、西中国教区全体の課題でもあるのです。

かって、宗教者の差別性が問われた事件に、町田差別発言事件があります。世界宗教者平和会議第3回大会で、山口県の禅宗の僧侶・町田さんは、「日本に部落問題は存在しない「国も地方自治体も誰も差別していない」と、現在の日本の社会の中に、部落も、部落差別も存在していないと主張しました。 彼は、「過去」の部落の存在は認めても、「現在」の部落の存在を認めようとはしなかったのです。「現在」の日本の社会には、封建遺制(封建的身分制度)はないと、東北学院大学A教授の主張と同様な主張をしたのです。 部落の「現在」を否定する、そのような僧侶・町田さんにとって、部落の「未来」、部落の「明日」、部落解放運動の「展望」を語ること等、想像もできなかったことでありましょう。

部落差別は、人間と人間外人間を区別する、差別者と被差別者を区別する非人間的な行為です。 いかなる理由があっても、部落差別は存在してはなりません。 部落出身であろうとなかろうと、誰ひとりとして「部落」の名をもって差別されるということがあってはならないのです。

しかし、そのことは、「部落は存在してはならない」とか「部落民は存在してはならない」とか、そういう発想とは結びつきません。  山口県では、学校同和教育や社会同和教育の場面で、その講師が、同様の差別発言をよく繰り返します。 なくならなければならないのは、部落<差別>であって、決して部落でも部落民でもありません。 <差別>という言葉の持っている重みを考えるべきです。「昔は武士に生まれたら武士、百姓に生まれたら百姓で一生を終わるのがあたり前でした。 今でも「近代化」の波に洗われていない伝統的な社会では、人々は遊牧民に生まれたら遊牧民、農民に生まれたら農民ということにあまり疑問を感じていません。 しかし現代日本のような社会では・・・」という文章は、現代日本の社会に、今も封建遺制の残渣、部落差別に苦しむ被差別民衆が存在しているという事実を一蹴し、読者に誤った認識を与える可能性があります。 部落差別だけでなく、封建的な差別政策の影響を受けている今日のさまざまな差別の局面を看過させることにもつながります。 日本の農村社会に、フィリピンをはじめアジア諸国の女性が嫁ぎ、「昔」の農民と変わらざる環境に置かれている事実は、どのように受けとめられるのでしょうか。

東北学院大学A教授の書いた文章には、現代日本の社会には、江戸時代のような身分制度はないこと、ひいては部落差別はないこと、そのような思想がみえかくれしているように思います。

はじめに

 この文章を書くことになったのは、1995年の夏、京都教区の部落差別問題夏期研修会に参加した際、近江平安教会の N さんから、「いままで、いろんな話を聞いてきたけれど、一度文章で書いたものを読んでみたいわ。 もう、自分の差別性を見つめながら、部落解放運動にかかわることでどう自分が変わったか、書けるんとちがう。 絶対に読むから書いて・・・」と言われて、「文章を書くのは苦手だけど、挑戦してみるかな・・・」と返事したことに端を発します。

 しかし、部落差別に関する文章を書くということは、ほんとうに大変です。 部落差別解消を願いながら、書き上げた文章が差別的であったら、かえって逆効果を招く・・・、そんな思いがいつもあって、なかなか文章化作業をすすめることができませんでした。

 昨年の11月、12月、西中国教区の宣教研究会が発行した『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章の<差別性>が取りあげられ、宣教研究会の委員と、部落差別問題特別委員会の新旧委員とで、<差別性>の検証と問題解決に向けて対応策が検討されることになりました。 そのような委員会で、いくつもの差別的な表現・思想が出てきました。 東岡牧師の顔がくもる、そんな場面がいくつもありました。 この問題は、1996年度も継続され、西中国教区の今後の部落差別問題との取り組みの方向が定められることになるでしょう。 いままで、いろいろな差別事象がありましたが、なにひとつとして解決されることなくほうむりさられていったことを考えると、今回の取り組みは、部落差別事象に対する西中国教区の最初の問題解決への試みです。 できるかぎり、有意義な作業にしたいと、あえて文章化をこころみたのが、第二の動機で、第1章はその委員会のために書きました。

 第2章、第3章は、1996年1月29日に予定されている第3回委員会で配布するために、クリスマスの日から、年末・年始にかけて、2週間以上の日数を費やして書き上げました。 解放同盟新南陽支部の解放学級に参加していただいた膨大な資料をアトランダムに引用しながら、思いつくままに文章化しました。 原稿用紙300枚を超える文章を一気に書くことは、生まれてはじめてなので、毎日、夜遅くまで、タイピングを続けました。

 今年、京都教区の夏期研修会で会ったら、Nさんに是非感想をお聞きしたいと思います。 (1966年1月11日記)

2023年5月6日土曜日

『部落差別から自分を問う』を再録

私は、日本基督教団西中国教区部落差別問題特別委員会の委員を押し付けられて、4期8年、部落差別問題に関わったことがありますが、その取組を、新書判1册程度(原稿用紙300枚程度)にまとめた『部落差別から自分を問う』は、当時の、日本基督教団部落解放センターから没収・廃棄処分にされたことがあります。

そのとき、部落解放センターの主事をしている牧師は、<他の牧師には、部落差別と取り組めという。 しかし、あなただけには、言わない。 即刻取り組むのをやめろ。 あなたが書いた『部落差別から自分を問う』は、没収・破棄させてもらう。 あなたの取り組みはなかったことにする。 それでも部落差別問題と取り組むなら、日本基督教団の部落解放センターとは関係のないところでやれ。 >と、私を切り捨てると宣告してきました。

そのときの『部落差別から自分を問う』、この前、ファイルした資料を整理していたとき、その縮刷印刷したものが出てきました。 日本基督教団部落解放センターの言論弾圧により、没収・廃棄された私の文章ですが、今回、Blogger 上に公開することにしました。


目次

 『部落差別から自分を問う』の目次 はじめに 第1章 部落差別を語る  1. 部落差別とはなにか  2. 部落<差別>とはなにか  3. 部落差別はなくなったか  4. 部落の呼称  5. 認識不足からくる差別文書  6. 部落の人々にとってのふるさと 第2章 差別意識を克服する...