2023年8月31日木曜日

第3章第3節 部落には嫁にやれぬ・・・

    第3章 差別意識の諸相
    第2節 部落には嫁にやれぬ・・・

    部落差別はなくなったか。 すでに、部落差別は解消されたと叫ぶ声もあるが、本当に差別はなくなったと言えるのか。 部落解放同盟S支部の青年部長さんは、資料を前にこのように話されます。

    被差別部落出身の詩人・丸岡忠雄さんのふるさと、山口県H市の『光市保護者意識調査』(1986年)では、部落差別があると考えている人は、市民の80%にのぼります。 そして自分のこどもが被差別部落の人と結婚したいといいだしたとき、親としてどうふるまうかの問いに、積極的に認めるは1.1%に過ぎません。 その場に直面してみなければわからないとの、あいまいさを残した回答を含めると99%の人が、自分のこどもが被差別部落の人と結婚するのに反対しているという結果が出ています。 『洗礼を受けてから』の著者が住んでいたI市の調査では、自分のこどもの結婚に際して相手の身元調査をすると回答した人は68.8%に上ります。

    部落解放同盟S支部の青年部長さんは、部落差別は、この数字よりもっと厳しい状況にあると言います。 行政が実施する、部落差別意識調査は、「恋愛結婚」を対象に設問されていており、その中には、「見合結婚」が含まれていないのだそうです。 日本の婚姻制度の中では、いまでも、「見合結婚」は大きなウエイトを持っています。 出身・家柄、学歴・地位・・・、それらの外的条件で、一人の人間の生涯が左右されるということが、今日の日本社会の中で厳然と存在するのです。 部落差別がなくなったかどうか、それは、「恋愛結婚」ではなく、「見合結婚」の調査を実施してみればすぐに分かる。 「見合結婚」は、身元調査を前提にした婚姻制度であり、この「見合結婚」では、部落出身であるかないかが重要な意味を持っていると言います。 「見合結婚」に際しての「釣書」には、「被差別部落出身」ということばは一言も出てこないといいます。 本当に社会から部落差別がなくなったというらなら、「釣書」に「被差別部落出身」と書かれていたとしても、それでその人を差別「しないで、「おう、被差別部落出身か。 それなら、うちの嫁にしよう」という、一般の側からの親が出てきてもいいではないか。 しかし、差別が歴然とする日本の社会の中では、「そのような光景を想像することすら難しい・・・」、そのように指摘されます。

    日本国憲法第24条は、「婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により維持されなければならない」と規定されています。

    しかし、明治維新以降、天皇制国家を形成する過程で、婚姻制度は、天皇制確立のために重要な機能を担わされます。 天皇制は、「家」に集約され、一家の長は「戸長」として、その家の中で絶大な権力を持ちます。 この「戸長」の了承なくして、誰も結婚できなくなります。  自分の意思で結婚できるようになるためには、婚期が著しく遅れることを覚悟しなければなりませんでした。

    そのような枠組みの中で、「嫁にやる」「嫁にやらない」という発想が強化されました。 自分のむすめは、家を継承・発展させるための道具・手段として、場合によっては、多くの青年がそのための犠牲になってしまいました。 天皇制という枠の中での家制度、婚姻制度は、私たちの意識の中にも深く影を落としています。 私たちが無自覚に考える結婚観の中には、その時代の残滓が残っている場合も多いのです。 なにをもって「結婚」とするか、そのために採用されたのが、「法律婚制度」でした。 行政の窓口に届けることによって、日本の社会の中で、その婚姻が有効になる制度です。

    しかし、江戸時代から、またそれ以前から延々と民衆が続けてきた結婚制度、「事実足る結婚」、二人が一緒に生活をはじめることで結婚が成立するという制度(あるいは風習)は、近代結婚制度の中では否定されることになります。  そこで、民衆の「事実たる結婚」と天皇制国家が強制する「法律婚」制度が、ある場合に抵触するようになります。  抵触の結果生じるさまざまな問題を解決するために、国家は、「事実たる結婚」を一部容認せざるをえず、「準婚」という法概念を作り出しました。

    戦争に敗れて、民法が改正、「新民法」が成立しました。 そして、民主化を実現するために、家制度や結婚制度が見直され、民衆は、そのような封建的な枠組み、戦前の天皇制の枠組みから解放されて、一人一人の人間としての権利保障の観点憲法から、第24条の条文が現実化したのです。 婚姻は、両性の合意に基づいてのみ成立する。 しかし、新民法が施行されたあとも、旧民法が民衆に要求した天皇制的婚姻制度は今も民衆の中に息づいているのではないでしょうか。 新民法の時代に入っても、克服されなかった旧制度が、いまも部落差別の温床になっていると言えます。

    結婚についても、私たちが、社会構造的な枠の中で婚姻制度をとらえないかぎり、天皇制を批判しつつ、人生の重要な部分については考察を欠落させてしまう可能性があります。 反天皇制をどんなに声高にさけんでも、自分の具体的な生き方の中で、天皇制の枠組みの中で強制された婚姻制度を無自覚に受け入れ、天皇制の迎合して生きていく、生き方を貫徹することになります。 

    部落差別をめぐる結婚差別事件は、数多く発生しています。 それらは時々、新聞や雑誌などで報道されますし、ある場合には、その差別事件とその取り組みについて単行本として出版されたりしていますから、部落差別における結婚差別がなになのか、誰でもその実態を知ることができます。 しかし、多くの結婚差別事件は、事件として処理されることなく、被差別部落の側の泣き寝入りで、解決されることなく闇から闇へほうむりさられていきます。

    西中国教区の牧師も、結婚に直面して、部落差別問題に直面することもあるでしょうし、また、信徒の結婚問題において、具体的に部落差別に直面することになるでしょう。 しかし、牧師という立場においては、<牧会>という職務上、もっと、部落差別について基本的な姿勢が要求されるように思います。

    あるとき、部落解放同盟S支部の書記長さんから、ある結婚差別事件の記録を見せていただきました。 〇〇町で結婚差別事件が起こり、解放同盟が調査に入ったのですが、それは結局当事者の意向で事件にはなりませんでした。 しかし、〇〇町での結婚差別事件は、結婚差別事件がいかに残酷な差別であるのかを物語っていました。 それと同時に、キリスト教会がそのような問題に、どのようにかかわらなければならないのか・・・、いろいろな問題提起を内包している事件でした。プライバシーを侵害しない程度に、事件の内容を再構成してみます。

    〇〇町には、昔から被差別部落がありました。  そこに、AさんとBさんが住んでいました。AさんとBさんとは、同じ町内に住むおさななじみで、子供のころよく一緒に遊んだといいます。 Aさんは山口大学教育学部に入学、Bさんは、山口の地を離れ、大阪の大学に進学しました。

    AさんとBさんは、それぞれ大学生活の場所が違っても、交際を続けていましたが、Aさんはあるとき、父親から、「気づいているだろうが、家は部落だ・・・。 ほかに問題はないが、結婚については、部落ということが問題になるから、Bさんとは友達つきあいで終わっておいた方がよい。 結婚となると、悲劇が起こる・・・」と告げられます。

    Aさんは、大学の冬休みにBさんとあったとき、自分が部落出身であることを告げます。  Bさんは、「そういうことは関係ない」とふたりとも結婚を前提に交際を続けていくことを約束します。 そして、卒業後は、ふたりで京都で人生の新しい出発をしようと約束します。 卒業を前にして、AさんとBさんは、それぞれの両親にそのことを告げるのですが、いろいろ問題があって、Aさんひとり京都に旅立つことになります。 しかし、学校の教師をしながらも、Bさんとのやりとりに、次第に不安になってきたAさんは、鬱状態に陥り、勤務をやすみがちになります。 ふたりで新しい人生の出発をと考えていたのが、一人での、屈従と悲しみに満ちた出発に変わってしまったショックがAさんの上に重くのしかかっていたのでしょう。 しかし、Bさんの方は、父親の差別的な対応に疲れ果て、「愛情」も「同情」見失ってしまいます。 Aさんは、「やっぱり、あなたは部落のものと結婚する勇気はないんだ」「おとうさんと同じようにひどい人だ」・・・、Bさんに話したそうです。 その語、Bさんの家に連絡しても、Bさんは不在であるという言葉が返ってきたといいます。あるときAさんは、部落の古老にさそわれて、その人が通っている「キリスト教の集会」に参加したと言います。 差別に傷つき、疲れ果てたこころを癒したかったのでしょう。 しかし、Aさんは、教会関係者から、「Bさんは不在ではなく、家にいる」と聞かされます。 「Bさんとあって話をしたい・・・」とAさんは何度もBさんの家に連絡するのですが、今は不在であるととりついでもらえないのです。 小学校・中学校のPTAの会長を長年してきたBさんの父親のさまざまな圧力で、両家の利害関係を含みながら、二人の間は決定的なものになっていきます。 Aさんは、「このままでは、自分が生きていく力がでない。 忘れるようにと言われるが、納得できない・・・」、そんな思いをもちながら、Bさんとの新しい人生の出発を断念せざるを得ませんでした。

    部落解放運動のない〇〇町で起こったひとつの結婚差別事件でした。 この詳細な経過記録を読みながら、部落解放同盟S支部の書記長さんは、Aさんが訪ねたという<キリスト教の集会>はどこの教会だろうか・・・、と言われました。 部落差別の現実に悩み苦しみ、傷つき倒れんばかりのAさんに、教会はどのような対応をされたのでしょう。 日頃、部落差別と無縁に生きている教会は、その痛みの一端すら、感じることはできなかったのではないでしょうか。 教会は、Aさんの側の情報ではなく、Bさんの側の情報を知り、Aさんに無自覚に対応されたのです。 日本基督教団西中国教区の諸教会の礼拝や集会に、やはり、被差別部落の人々が悩みや苦しみをもって、神の前に立っている・・・、そのことを私たちはきちんと認識しなければならないのではないでしょうか。

    山口の〇〇町で起きたこの結婚差別事件を通して思わされたのは、部落差別が、愛し合っている青年を、生身を引き裂くように引き裂いていく、いかに残酷なものであるかということでした。 部落の側からも、一般の側からも、被差別部落の青年の結婚は問題視され、青年の心に深い傷を残していくことになります。AさんもBさんも、深い傷をいやされることなく、こころに差別という痛みを感じながら、その生涯を過ごすことになるのです。

    私たちは、「嫁にやる」「嫁にやらない」という発想そのものが、封建的な発想であることを知っています。 結婚に際しては、当事者の結婚への意志と会い、誠実さがおもきをなします。 しかし、被差別部落の青年にとっては、そのことが許されず、差別社会から重い十字架を背負わされることになります。 戦後民主化されたと言われて久しい現代日本の社会の中にいまだに存在する、この<差別>意識を、私たちはどのように克服していけばいいのでしょうか。 「その場になってみないとわからない・・・」という発想は、「その場になると、差別する」可能性が高い、ということを意味しているだけで、根本的な解決ではありません。 ただ問題を先送りにするだけです。

    今の私に言えることは、部落差別をめぐる<社会的>差別意識としての結婚差別を克服していく最善の方法は次のようなものです。 部落差別だけではありません。 どのような差別が絡む場合でも、結婚差別を克服する方法は、次のような場合にのみ、正当性を見出すように思います。

    5~6年前、『遠い夜明け』という映画がありました。 ドナルド・ウッズが書いた2冊のドキュメントを再構成して作成された映画です。

    その主人公は、アパルトヘイト反対をさけぶ黒人解放運動家・ピコです。 被差別に置かれた黒人の解放を叫ぶ彼らに、「白人差別主義者」のレッテルが貼られます。 マスコミの悪質な捏造記事に怒りを抱いた新聞記者によって、黒人差別の実態が明らかにされていきます。

    記者はまず病院で、このような言葉を耳にします。 「我々黒人の最大の問題は、白人の差別よりも自分たちの劣等感だ。 黒人も、白人と同じ医師や指導者になる能力を持っている」。

    また、黒人の解放運動家を裁く法廷で、記者はこのような言葉を聞きます。 「忘れないでくれ。 我々は白人の来る前に文化を持っていた。小さな村が方々にいくつもあった。 我々の言葉をご存じなら、<甥>はこのように言う。 <兄弟の息子>と。 テンジ―は、私の妻を<伯母>と呼ばず、<母の姉妹>と呼ぶ。 家族を呼ぶのに特別な言葉はなく、すべて最初は兄弟か姉妹ではじまる。 たすけあう心だ」。

    黒人解放運動が高まっていく中、フットボール場で行われた野外集会(不法集会)では、このように演説がなされるのです。 「我々の怒りは当然だが、忘れてはならない。 我々のさいだいの敵は、ある種の人間が別の人間より優れているという考え方だ。 その考えを殺すことは白人だけの仕事ではない。 白人に頼る習慣を捨てて黒人であることの誇りに目覚めよう。 子供に黒人の歴史を教え、我々の黒人の持つ伝統と文化を教えれば、白人の前での劣等感から解放される。 そして対等の立場で彼らと向かい合う。 闘いをとるなら、手を広げて言おう。我々の住む価値のある南アを建設すると。 白人にも黒人にも、平等の国を。 美しい国土とそこに住む我々のように、美しい南アフリカを」。

    ピコたちは、再びとらえられて法廷に立たされたときも、演説を続けます。 「黒人は苦しい暮らしに耐えています。 政府のでかたも酷い。 苦しみを甘受することはありません。  対決するのです。 人生の苦難に屈服することなく、こんな状況の中でも持つべきです。 明日への希望、自分たちの祖国への希望です。 それが黒人解放運動の訴えているものです。 白人は無関係なのです。 黒人が目覚めて自らの人間性を確立し、地球上に正当な地位を得るのです」。

    しかし、ピコは、不法な裁判でこの世から抹殺されてしまいます。 自分たちの指導者を処刑(リンチ)した白人たちに対する怒りにあふれながらも、ピコの葬儀の中で、このような説教がなされます。 「私は、現体制を憎む。 だが、ピコの詩をいたむ白人の方々は歓迎します。 ピコはこの国の将来を信じ、それを我々に教えられました。 その夢は必ず実現します。 あらゆる者が人間として認められ、神の子として平等とされるとき、その日を待ち、反感を育てる人種の壁が取り除かれ、そこに友情と愛が生まれるときを待ちましょう」。 南アの政府の抑圧と弾圧にもかかわらず、その闘いの名kで、このような差別を乗り越えた希望と展望とが語られる。

    私は、その映画を見ながら、人間解放運動のすばらしさにこころ打たれる思いがしました。 『遠い夜明け』という映画は、人間が人間であることを宣言する、黒人解放運動によって生み出された言葉の結晶の集合体のように思うのです。 どの部分にも、被差別を跳ね返して生きていこうとする人々の誇りと闘いの声に満ちています。

    ピコの惨殺の写真を国外に持ち出すことを決めた二人の新聞記者によって、次のような会話がなされます。

    「ぼくには子供が2人・・。 将来が心配だ。 君ならどうするね。」
    「ぼくも、こどもが。 だが、白人が黒人を支配する時代は終わった。 時代は変わる。」
    「友好に、それとも流血か。」
    「子供たちのために友好を祈る。」
    「ピコみたいな連中と。」
    「それなら最高だ。」

    この会話は、2人の白人の新聞記者によってかわされたものです。 最初、「おや」と思いました。 黒人差別反対を訴えてきたこの2人の新聞記者は、それが自分のことがらとつながるとき、彼らの子供が、例えば黒人と結婚するというようなときに、どうするのか・・・。 この場面で、白人と黒人の結婚の問題が直接論議されているわけでありませんが、遠い将来その可能性がないわけではないことは、言葉の節々にうかがうことができます。 2人の白人の新聞記者が、ふとわれにかえって、自分たちの子供のことを思いながら、自分たちの子供と黒人解放運動のことを考えているのです。 相棒の新聞記者が切り出します。「ピコみたいな連中と」。 すると、もうひとりの新聞記者がこう答えます。 「それなら最高だ」。

    <ピコなら、最高だ・・・>。

    私は、差別をめぐる結婚差別を乗り越える、最善の解決方法はこの言葉にあるのではないかと思います。 黒人として生まれること、それは、黒人が自分でのぞんで生まれてきたことではありません。 ある程度成長することで、はじめて自分が黒人であることに気づかされます。 そして、黒人としての被差別意識を、支配者である白人よりもより劣等な位置にあることを、その教育や生活を通じて意識の底に植え付けられていきます。 ピコをはじめ、黒人解放運動を展開した人たちは、その黒人差別という現実に甘んじるのではなく、その現実を、神の前で確認し、その現実からの打開こそ、神の良しとするところであると、解放運動に邁進して行きます。 人間としての誇りと闘い、「ピコなら最高さ!」という言葉は、差別に負けて、限りなく逃亡を繰り返すみじめな黒人の姿ではなく、同じ差別の状況にありながら、差別と闘い、希望と展望をもって、黒人の人間としての明日をつかもうとする姿に対してささやかれた言葉であると思います。

    部落差別という現実を前にした、<社会的>差別意識の克服も、このような展望の中で解決されるべきものではないでしょうか。

    自分の子供が、ただ、差別に負けて逃亡するしかすべのない、人生とこの世に背を向け恨みにみちた生活しかできない青年と一緒になるというと、部落出身でなくても、そのような青年との結婚にたいしては、親としては、おおきな不安とためらいを持つでしょう。 しかし、自分の置かれた状況、それがどのような状況であったとしても、それを否定することなく、受け入れ、神から与えられた課題として、自分のしあわせだけでなく、被差別民衆のために、部落差別だけでなく、黒人差別、朝鮮人差別、アイヌ差別・・・、いろいろな差別を克服して生きて行こうとする青年に対しては、誰が共感をもたずにおれるでしょうか。

    「嫁にやる」か「やらないか」ではなく、被差別者と差別者が共に見上げることができる、共通の闘い、人間としての誇りと自覚に生きるその姿勢をどのように共有していくかが大切なのではないでしょうか。 どのような差別であっても、その差別から逃亡しないで、共に闘うひとであってほしい・・・、それは、キリスト者の親が、その子供に対して持っているひとつの願いではないでしょうか。 

    イエス・キリストは、福音書の中でこのようにお話しになりました。 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。 あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和でこころのへりくだったものであるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

    イエス・キリストは、「あなたがたの重荷をわたしのまえにおろしなさい・・・」と言われます。 イエス・キリストが言われた本当の意味は、抱えている重荷を捨てるだけでなく、イエス・キリストの愛の故に、一端捨てた重荷を信仰と希望を持って、負い直すことの大切さではないでしょうか。 「わたしもあなたの重荷を負い続けよう。だから、あなたもあなたの重荷を負い続けなさい・・・」、イエス・キリストの言葉には、そのような響きがあると思うのです。 逃亡ではなく闘い、あきらめではなく前進、絶望ではなく希望、そのような文脈の中でしか、私たちは、いろいろな差別を前にして、結婚差別という<社会的>差別意識と克服していく道はないと思うのです。 <寝た子>ではなく<起きて闘う子>にしか、本当の明日はないと思うのです。

第3章第2節 寝た子を起こすな・・・

    第3章 差別意識の諸相
    第2節 寝た子を起こすな・・・

    西中国教区・部落解放セミナーで、また分区や教会の部落差別問題研修会で、この「寝た子を起こすな」という主張は、数限りなく語られてきました。

    この言葉は、教区・分区・教会が、また牧師や信徒が、部落差別問題を避けて通るときの最適な口実として、繰り返し主張されてきまたした。 ある教会の牧師に、部落差別問題の取り組みを促すと、「教会の役員の中には、<寝た子を起こすな>という考えの持ち主が多くて・・・」、教会が部落差別問題と取り組むことは難しいという主張が返ってきます。 それなら、教会の役員の方に、教会で部落差別問題をとりあげるようにすすめますと、「牧師が<寝た子を起こすな>といいますので・・・」と教会内で責任を転嫁されていきます

    <寝た子を起こすな>という<社会的>差別意識は、教区・分区・教会のなかに、そして、牧師や信徒の中に、潜在化したかたちで、この言葉の問題性を検証する必要もないほど自明の理として受けとめられているのではないでしょうか。

    <寝た子を起こすな>という言葉は、そのうしろに、言葉化されない言葉が続いています。 「寝た子を起こすな。部落問題はほおっておけば自然になくなる・・・」、「そのうちに自然になくなるから、<部落の人は>それまでは我慢しなさい・・・」、<寝た子を起こすな>という言葉は、民衆が、差別者の側に立っているという事実を看過させ、そして被差別民衆に対しては、<ことさらこだわらなくても、いつか差別はなくなる>という、「差別の苦しみにあえいでいる被差別者の立場や気持ちを無視した考え(小森哲郎著『部落問題提要』)に裏打ちされています。

    同和対策審議会答申の中でも、「<寝た子を起こすな>式の考えで、同和問題はこのまま放置しておけば社会進化にともない、いつとはなく解消する>という論理には同意できないとの主張がなされています。

    ある行政が作成した同和教育向けのパンフレットには、差別の側から語られる「寝た子を起こすな」という差別意識だけでなく、被差別の側から語られる「寝た子を起こすな」という意識について、このような説明がなされています。

    「同和地区住民の中にはいまだに厳しい差別の現実があり、同和地区出身であることが明らかにされることによって、自由や権利が侵害されるおそれがあるので、<寝た子を起こさないでほしい>という考えがあります」と。 しかし、そのパンフレットは、被差別の側からそのような見解があることを受けとめつつ、「こうした、寝た子を起こすな、知らない子に知らすなという考え方は、部落差別の解消につながらないばかりか、人権意識を眠らせ、かえって差別を助長拡大するような結果を招いている」と指摘、<寝た子を起こすな>という考え方が、同和問題の解決につながらないこと力説しています。 このパンフレットには、このような主張が続きます。 

    「また現実には「寝た子を起こすな」という考え方によって、親が娘に同和地区住民であることを隠し、娘は結婚後もそのことを知らないまま厳しい差別を受け、ひどい手口によって離婚を強いられたという、取り返しのつかない不幸なことおが起きてします。そしてその娘は「良心も学校もそれを教えてくれなかった」と言い、その親は「はじめから部落のことを考えておけばよかった・・・娘にはすまないことをした」と後悔しています。」

    1993年夏の西中国教区の第1回現場研修会で、広島の被差別部落出身の青年は、<寝た子を起こすな>という考えが間違っていることを指摘されたあと、「私たちは、別に自分たちが部落だからといって、そこから逃げるつもりはないし、隠すつもりもない。 今3歳になる子と6カ月になる子もいるが、その子が成長したら、部落の子であること、そして部落民がほこりをもって生き抜いてきたことを教えたい。 自分たちの歴史を隠すのではなく、部落民としての歴史を誇りを持って生きていく姿を子供たちにみせたい」と話されました。

    前述したパンフレットは、1977年に東京都教育委員会が発行した『同和教育をすすめるために』という名前のパンフレットです。 いまから20数年前の文章です。 しかし、具体的に取り上げられた部落差別の事例は、西中国の諸教会が立たされた、広島・山口・島根においても確認されるのです。

    広島で女子高生結婚差別事件が起こったことは、私たちの記憶に新しいことです。 中学校時代の教師から、結婚差別を受けて、女子高校生が17歳の命を奪われた「広島結婚差別自殺事件」のことです。

    女子高校生〇〇さんのおとうさんは、山口の人で、被差別部落出身ではありません。 おかあさんは、広島の被差別部落出身で、結婚したあとは、地区外に住んでいました。 そして、自分のむすめには、母親が部落出身であることを隠していました。 〇〇さんは、部落出身であるという自覚はまったくもっていなかったといいます。 しかし、〇〇さんを好きになって、結婚の相手と選んだ、〇〇さんが中学校時代の教師は、〇〇さんにとっては楽しいデートを身元調査のために利用し、〇〇さんのおかあさんが部落出身であることを知ると自分たちの関係を清算する挙に出たのです。 そのことで深く傷ついた〇〇さんは、自分が降らく出身者であることを知らされることなく、差別の現実に押しつぶされて自害していった・・・、という事件です。

    部落解放同盟の中央本部が「広島結婚差別事件」の全国キャラバンを行なったさい、私も誘われて、部落解放同盟S支部の集会に参加したことがあります。 そのとき、「部落差別は、<血>の問題であると受けとめられている。 父親は部落出身ではないが、母親が部落出身であるということで、中学校教師は、〇〇さんの中にも部落の血が流れているということで、結婚を断念しようとした・・・」との説明がありました。 

    そのときの話し合いの中で、「母親が、娘に部落出身であることを隠していたことは、くやしい。 最初から知っていれば、差別あされても跳ね返すことができたのに。 彼女は、自分がなぜ差別され、抑圧うされているのか、愛する人からさえそのような仕打ちを受けなければならないのか、自覚しないまま、差別に負けて死んでしまった、そのことを考えるとほんとうに悔しい、差別が憎い」という声がありました。

    部落差別は、部落の人が、<寝た子を起こすな>という考えで、そっと生きていきたいと願っていても、差別の方が追いかけてきて、それをあばき、差別し、疎外し、悲惨な結果へと追いやってしまうのです。

    「広島結婚差別事件」の糾弾会において、〇〇さんを死に追いやった中学校教師の考え方、またその背後にいる多くの学校教師の中に、「寝た子を起こすな」という考えがいまだに根強く存在していること、そのことが今回の事件の遠因になっていることが明らかにあsれたと、新聞は報道していました。

    山口県で、社会同和教育に熱心に取り組んでこられた山口県立古文書館の北川健先生は、「<同和>への反言、どうキリカエスか」という文章の中で、「寝た子は起きる」答えたらとよいとすすめています。 <寝た子を起こすな>という主張を黙って見過ごすと、その<社会的>差別意識はますます強化委・助長されます。 それに対して「寝た子は起きる」というアンチテーゼを持ち出して一考を迫るということは、あながた意味がないことではありません。 

    1992年に行われた教団部落解放全国キャラバンにおいても、キャラバン隊の行く先々で、「寝た子を起こすな」という発言が繰り返されました。 キャラバン隊にあって中心的な役割を果たしたT牧師は、日本基督教団が組織的に部落差別問題を取り組みをはじめた1975年以降と、それ以前と大きな違いがあることを認めながらも、<寝た子を起こすな>が支配的な諸教会の状況をあらためて認識せざるをえなかったと言われます。「<寝た子を起こすな>の否定は取り組みの前提であるが、それがまだ諸教会には届いていない」、その現実打開のために、かなりまとまった論述を展開されています。 一度、自分で読まれてみるとよいでしょう。

    T牧師は、教区の諸教会での発言を分析しつぎのような結論を出しています。

    (1) 「寝た子」と言うが、被差別部落の人もそうでない人も、<寝ている>かに見えて実は<寝ていない>。
    (2) 「寝た子を起こすな」との考え方は、部落差別を存在させる社会的根拠を無視している。
    (3) 部落出身を隠すことにより部落差別を温存している。
    (4) 上記の3ついのことから了解されるように、「寝た子を起こすな」は部落差別を無くそうとする取り組みに水を差し、妨害すうrものとなっている」。

    これらの点から<寝た子を起こすな>は間違っており有害である。
    そして、T牧師は、 <寝た子を起こすな>と主張する被差別の側に向けてもこのように語りかけます。 「部落差別が存在するとは、被差別部落が社会的にマイナス視されていることである。 このマイナス視のひどさ、厳しさの中で、自分が被差別部落出身であるのを直視するのはつらく、その現実からできる限り逃れ、寝ていなくても寝ているふりをせずにはおられない。・・・しかし、<痛み>になるからと言って、<寝た子を起こすな>とするのでは問題を隠すだけで、本質的には<痛み>の原因は解消されず、かえって<痛み>が温存される」と指摘されています。 「自身被差別出身を述べて部落差別に正面から向き合っている被差別部落の人も多い・・・」。 T牧師は、被差別の側にある牧師や信徒が、部落解放運動に達があるようお呼びかけています。

    『続・日本のことわざ』(金子武雄著)の中で、「寝ている子をおこす」ということわざにつちえ、このような解釈がなされています。

    「幼児にとっても、
寝た間は仏
であり、黙っていれば、なんの欲望もなくなんの不満もない。その上、
    寝る子は育つ
と言う。 だから寝ているに越したことはない。 しかも起きている子をあやすのは、なかなか容易ではないのである。だから、
    寝る子は賢い親の助け
    寝れば子も楽守も楽
などという。 親にとっても、子が寝ていてくれるほど助かることはない。 ところが、せっかく寝ている子を起こすとしたらどうだろう。 子にとっても守りにとっても迷惑なことだろう。
    同じように、せっかくおさまっている事をつついて、面倒なことをすることを、「寝ている子を起こす」と言うのである。
    「寝ている子」を、過ってうっかり起こしてしまうということもあるであろう。 しかし、またわざと起こすということもある。 けれども、そのために、その事関係にのある当人も、あるいははたのものも、迷惑を蒙ることになるのである。 だから、「寝た子を起こすな」は、当然、そういう人を非難することばとして用いられる。
    もちろん、これは事なかれと願う心に立脚している。「寝た子を起こすな」ことが本当に無益であり、あるいは有害であるならばそっとしておくのがよいに決まっている。 けれどもたとい一時は「子」がその平安を破られようとも、その犠牲を償って余りあるほどの大きな幸福がえられるような場合だってある。 そんな場合には、はたの者の迷惑などには遠慮せず、起こしてやるのが親切というものである。 これを非難すrのは、自分の利益のためでしかないのである。 起こしてやってよい「寝ている子」が世界にも日本にもいくらでもいるようだ。>

    この文章は、部落差別に関する文章ではありません。 しかし、部落差別問題の文脈で語られる<寝た子を起こすな>という言葉を、本来に意味に立ち返って考えてみるときに、よき参考になります。  この文章を書いた金子さんは、最後で、<寝た子 を起こすな>という言葉は、「自分の利益のため」になされる主張であると語っています。 差別する側が<寝た子を起こすな>と主張するとき、どのような利益を念頭においているのでしょうか。 また、被差別の側が、<寝た子を起こすな>と主張するとき、どのような利益を守ろうとしているのでしょうか。 教団の部落解放センターの課題として、教団・教区・分区・教会の中の、<寝た子を起こす>営みを今後も更に展開していってほしいと思います。 また、西中国教区の部落差別問題特別委員会の課題としても、教区・分区・教会の中から、この「寝た子を起こすな」という<社会的>差別意識を取り除く努力をしていただきたいと思います。

2023年8月29日火曜日

第3章第1節 部落は近くにない

    第3章 差別意識の諸相
    第1節 部落は近くにない

    十数年前、今、牧会している教会に赴任してきた次の日、教会員のFさんがやってこられて、このような会話をしました。

    F: 教会の近くには被差別部落があります。 そのつもりで伝道してください・・・。
    筆者: そのつもりというのは、どういうつもりですか・・・?
    F: 教会にも、被差別部落から来ている人がいます・・・。
    筆者: 誰ですか?
    F: わたしの口からは言えません。 そのうちわかります・・・。
    筆者: そのうちって何時ですか?
    F: そのうちです。

    そう言って、Fさんは帰って行きました。 しかし、私の関心は、教会の近くに被差別部落があるかないか、教会に被差別部落の人がきているかいないかにではなく、もっと別なところにありました。 Fさんの言葉は、ただこころにとめて、もうひとつの関心に気持ちが移っていきました。

    というのは、その教会の前任の牧師が、教会で自害された・・・という事実が、私の上に重くのしかかっていたからでです。 赴任が決まったあとで、西中国教区議長と執行部の牧師から、前任者が自害されたこと、「そのような負い目を負った教会の宣教は難しいから、2~3年がんばって難しいと思ったら、教会関係者の〇〇さん(現住陪餐会員ではない)と話をして、教会を閉鎖してください・・・」と聞かされていたからです。 バルト神学にのめり込んでいた私は、「自殺も罪の一つに過ぎない・・・」と理解して、現在の教会に赴任しました。 赴任した次の日、教会の裏の道を通って行く人が、「この教会は、首括りの家よ・・・」と話しあっているのが聞こえてきて、教会の置かれた状況の厳しさにショックを覚えていました。

    私が牧会している教会の教会員は、教会の近くには被差別部落があります・・・」と表現していましたが、西中国教区の部落差別問題特別委員会の委員になって、いろいろな教会の牧師や信徒の方に、部落差別問題と取り組むように訴えていく過程で、「
教会の近くには被差別部落があります」という表現と正反対の表現、「教会の近くには被差別部落はありません。 だから、教会は、部落差別問題と取り組むことはできません・・・」という言葉を何度か耳にしました。

    私は、山口の教会に赴任してくるまでは、山口の地に、知人・友人は一人もいませんでした。 ですから、被差別部落がどこにあるか、知っているはずもありません。 それに、<被差別部落がどこにあるのか、調べることは差別行為である・・・>と漠然と思っていましたので、長い間、山口の教会の牧会をしてこられた牧師や、地元出身の教会役員をされている信徒の方々から、「教会の近くには被差別部落はありません」と言われると、「そうですか・・・」と文字通り受け止めざるをえませんでした。

    どこに被差別部落があるのか。 それを知るようになったのは、部落解放同盟山口県連S支部の解放学級に参加するようになってからのことです。 ある日、部落解放同盟山口県連の松浦委員長から、「同和関係地区一覧表」をいただきました。 そこには、山口県の市町村名・世帯数・人口・同和地区数・世帯数・人口・世帯別地区数の内訳がリストアップされていました。同和対策審議会答申が出された前後の調査資料で、山口県には、158の被差別部落が存在し、そのうち91が地区指定を受け、67の地区が未指定地区であるとの数字が並んでいました。 私は、「同和関係地区一覧表」と「西中国教区教会・教師名簿」を比較してみました。 それでわかったことは、日本基督教団西中国教区の教会がある場所には、必ず被差別部落が存在しているということです。 被差別部落があるのに教会が存在していない場所はたくさんありますが、教会があるのに被差別部落が存在しない場所は一か所もありませんでした。 ということは、山口県にあるどの教会も、宣教活動や伝道活動の範囲に、必ず被差別部落を含む・・・ということを意味しています。 日常生活の中で、牧師も信徒も、被差別部落となんらかの接点をもっているということをも意味しています。 それなのに、なぜ、教会は、「教会の近くには被差別部落はありません。 だから、教会が部落差別問題と取り組むことはできません・・・」というのか納得することはできませんでした。 教会と被差別部落の間の距離が、<近い>か<遠い>か・・・、それは、物理的な距離ではなく、心理的な距離を意味していたのです。 信徒の方が、「自分の住んでいるところから、被差別部落は遠いので・・・」と言われる場合でも、その人が住んでいる場所から、道1本、通り1本隔てただけの向かい側が被差別部落であったりします。 「教会の近くに被差別部落はない」という表現は、教会として、被差別部落にも、部落差別問題にもかかわりたくないという差別的な意思表明だったのです。

    今の教会に赴任したとき、教会員から、私に要望が出されました。 自害した前任者は<社会派>牧師で、教会の中にいろいろな社会問題を持ち込みました。しかし、今度きた牧師には、社会問題とかかわってほしくない。<福音派>の教会形成をしてほしい。できれば<純福音>の教会形成をしてほしいと。 私は、<いいですよ。 みさなんが純福音の教会になることをお望みなら、そうしましょう。 皆さんも純福音の教会に相応しい信仰者になってください。 社会問題ではなく、福音宣教の教会にしていきましょう>と答えました。

    しばらくして、教会の集会案内を配ることにしました。いわゆる伝道トラクトの配布ですが、礼拝出席者が10数名の少人数の教会ですから、できるかぎり広範な地域にトラクト・チラシを配布するためには配布をみんなで分担しなければなりません。 私は、教会の役員の方に住居地図をコピーしてもらって、」それと教会員名簿を照合しながら、どの地区に誰がチラシを配布するか配分計画を立てました。 そして一人ひとりに、「あなたが住んでいる、この地区にチラシを配布してください」と地図を指さしながらお願いしました。 みんな、こころよく受け入れてくださったのですが、その配分方法について、あとで問題が出てきました。 Kさんが、「今度来た牧師は、わたしに遠い場所にチラシを配れといった」と不満を言っているといううわさが耳に入ってきたのです。 私は住居地図とKさんの住所を念入りに照合したのですが、なにも問題があるようには感じませんでした。 Kさんが、教会の礼拝から遠ざかるようになって、初めて、他の信徒の方から、「牧師さんが、Kさんに被差別部落に行ってチラシをまけといったので、Kさんは、牧師がそんなことを要求する教会には行けないと、教会から遠ざかってしまった・・・」、という話を聞かされました。 他の信徒の方の説明ですと、Kさんの家の前の通りから、被差別部落になるということでした。 Kさんが<遠い>と表現した場所は、ほんとうは、Kさんにとって、最も<近い>場所であったわけです。

    教会を純福音の教会にしたいという教会員の要望で、信徒の<純福音化>をはじめた牧師と教会役員会は、(1)主日礼拝・聖書研究祈祷会の厳守、(2)十一献金の励行、(3)福音伝道の推進、  (4)牧師の家庭訪問と高齢信徒の配慮・・・などを具体的に検討していたのですが、<純福音>の教会にしたいと言っていた教会員たちが、「それが純福音の教会であるというなら、この教会を純福音の教会にしてもらわなくて結構です。」と言い出し、教会の<純福音教会化>計画は頓挫させられることになりました。

    蛇足になりますが、戦前の1935年の調査では、広島県の被差別部落は426地区、、島根県の被差別部落は154地区にのぼります。 山口県と同様、西中国教区の教会の存在している地域で、被差別部落がない地域は存在しないと思います。 教会にとって、被差別部落は<遠い>存在ではなく、とても<近い>存在であるといえます。

    西中国教区部落差別問題特別委員会で、分区・教会に対して、部落差別問題との取り組みをするよう働きかけたことがあります。 『教区月報』や、印刷物を配布しただけでは、なかなかすすみません。  それで、各教会の牧師・役員に取り組みを促すことにしました。西中国教区は、「教団の中でも先駆的に部落差別問題と取り組んできた教区」というイメージをもっていた私は、相応の期待をもって分区・教会に働きかけました。 しかし、分区・教会の反応は、まったく消極的なものでした。 そのような、委員会活動の中で、私は、西中国教区の分区や教会に存在するさまざまな<差別意識>に直面することになりました。 教区・分区・教会に存在する<社会的>差別意識は、日本の社会に一般的に存在する差別意識とそれほど違いはありませんでした。

    差別意識について論じた本は多々あります。 しかし、ここでは、抽象的に論じるのではなく、西中国教区、特に山口県の諸教会に内在する差別意識について具体的に論じてみたいと思います。 広島県・島根県の諸教会についても同様の論述を展開したいのですが、部落解放運動は、県や市町村の行政単位で行われる場合がほとんどです。 同じ西中国教区の分区・教会と言っても、広島・山口・島根の各県では、被差別部落の歴史と現状におおきな違いがあります。 また、被差別部落の人々による運動にも、かなり大きな違いが存在しています。 現実に根差した部落差別問題を取り上げようとしますと、広島・山口・島根の諸教会を一律に論じることはできません。 やはり、それぞれの歴史と現状、部落の側の運動の状況をも視野に入れながら、論ずる以外にはありません。

    1988年頃、部落差別問題特別委員会で西中国教区の総会資料に掲載された、「教会活動総括」に報告された部落差別問題の取り組みの内容を検討したことがあります。 山口県のH教会は、教団の部落解放センターから学習ビデオを借りて、それを牧師と信徒が一緒に見て、部落差別問題についての研修のひとときをもったという報告です。 そのとき、研修会に参加していた高齢信徒の方が反発して、牧師に対して、「そんなに部落差別のことをいうなら、自分の娘を嫁にやれ、わしゃ、嫌じゃ! 」と差別発言も出てきたが、教会全体としてはよい学びのひとときとなった・・・という意味の報告でした。 それを部落差別問題特別委員会の機関紙発行の準備号に掲載したところ、H教会の牧師から、抗議の電話が入ってきました。

    西中国教区の総会資料に、「H教会の部落差別問題との取り組みを載せることについてはなにの問題も感じないが、部落差別問題特別委員会の機関紙にそれを紹介するのは、問題がある」というのです。 私としては、あまり部落差別問題と取り組みがない教区や分区の状態の中で、H教会はよく取り組みをしている・・・という意味で、好意的に紹介記事を書いたのですが、「非常にまずいことをしいてくれた」と言われるのです。 私も、差別をなくしたいという思いをもって書き始めた機関紙に差別表記を載せてはいけないので細心の注意をはらって書いたつもりです。 H教会の牧師から指摘を受けた最初、なにか差別的なところがあったのかと戸惑ったわけです。

    不安の思いを持って、「なぜですか・・・?」と尋ねると、「あの記事を読んで、教会に来ると困るから・・・」、という答えが返ってきました。 「誰が来るんですか?」と再度尋ねますと、「被差別部落の人が来ると困るから・・・」と言われるのです。 H教会の牧師は、さらに続けて、「次号で、前号に掲載したH教会に関する記事は、委員の事実誤認で、H教会は、部落差別についてなにの取り組みもしていない。牧師も信徒も差別的であると批評してもいいから、H教会が、部落差別問題に前向きに関わっているという記事を撤回してほしい」と言われたのです。

    H教会の牧師の発言の前提は、「教区・分区・教会には、被差別部落出身者はいない。 だから、H教会が、教区総会資料に掲載する教会活動報告に<H教会が部落差別問題と取り組んでいる>と言っても、それ以上なにの問題も起こらない。総会資料が、被差別部落の人々の手に渡ることはまず考えられない。 しかし、教区の部落差別問題特別委員会の委員会報は、教区外・教会外にも配布され、いろいろな人に読まれる可能性がある。 H教会の近くの被差別部落の人が、教会に来て、牧師に、<お前のむすめを嫁にくれ>と言ってきたらどうするのか・・・」。 H教会の牧師の電話の声には、なにかおびえたような響きがありました。

    当時、H教会の牧師は、西中国教区宣教研究会の委員の一人でした。 『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章に関しては、見直し作業が行われず、差別を再生産しかねない「五本目の指を
」という表題と、その詩を掲載し続けたと批判された、当の宣教研究会の現実を示すできごとでした。

    H教会のある町には、「五本目の指を」の詩が収録されている詩集『部落』のもうひとりの著者・丸岡忠雄さんの住んでいる被差別部落がありました。 H教会の牧師は、「教会の近くには被差別部落はありません。 だから、教会が、部落差別問題と取り組むことはできません・・・」というのではなく、「教会の近くに被差別部落があります。 だから、教会が、部落差別問題と取り組むことはできません・・・」と主張していたのです。

    西中国教区の諸教会においては、教会の近くに被差別部落が存在していてもしていなくも、それが、教会が部落差別問題と関わることができない理由になるのです。 被差別部落が教会の近くにあるから部落差別問題と取り組めない、近くにないから取り組めない・・・、それは、教会や牧師・信徒が<教会は部落差別問題に取り組みたくない>、その意思表示をするための単なる方便でしかなかったのです。

    H教会の牧師は、それでもなにとか部落差別問題と取り組まなければならないと発言を繰り返しながら、やがて、「教会の中には、被差別部落の人がいません。 だから、牧師一人が取り組みをはじめても、教会員が誰も協力してくれない状況では、部落差別問題と取り組むことはできない・・・」と考えるようになったと言います。 「協力してくれる人がいれば、本当に取り組みができるのですか? 」と、H教会の牧師の真意を確かめるように語りかけたのですが、大学生のとき、学生部の執行部として〇〇大学で〇〇闘争に参加してきた彼の言葉にうそいつわりはないであろうと一つの事実を告げることにしました。 「あなたの教会の〇〇さんの息子さんは、解放同盟山口県連〇〇支部の支部長さんです。 彼と話をすれば、きっと協力してくれるでしょう・・・」とためらいの思いを持ちながら伝えました。 教会の外に部落解放運動の関係者がいるのではなく、教会の内に部落解放運動の直接の関係者がいる、そのことは、H教会の牧師にとって、教会が部落解放運動にかかわる一歩になると思ったのですが、H教会の牧師は、急に任地が決まったとかで、あわただしく、他の教会に転出して行かれました。

    「教会に、被差別部落の人がきていないから、教会は部落差別問題に取り組めない」「、教会に、被差別部落の人がきているから、教会は部落差別問題に取り組めない」・・・、西中国教区の教会では、二律背反のまったく異なる理由で、「教会は、部落差別問題に取り組むことはできない」というい同じ結論を導き出すことができるのです。

    教会の近くに被差別部落があろうとなかろうと、教会の中に被差別部落出身の人がいようといまいと、教会は、部落差別問題と正しく認識し、<社会的>差別意識を克服する努力をしなければならないのではないでしょうか。

    当時の宣教研究会の他の委員も、このような発言をしていました。 「教会の近くには、被差別部落があります。 しかし、ここの地域は差別が厳しくて・・・。 教会はとても部落差別に取り組める状況ではありません。 牧師が一時的に取り組んでも、教会員があとに続いてこないでしょう」。 彼がいうように、牧師は、教会のある地域の人にとっては、確かに<余所者>でしょう。 しかし、<余所者>は、地域の人が見ることを避けて通っているさまざまな現実を客観的に見ることができる立場にあります。 「ここの地域は差別が厳しくて・・・」というその牧師の言葉に偽りはないでありましょう。牧師も教会の役員も、差別が厳しいから・・・という理由で避けて通っている、その教会で、前述した、教会員によって、「あいつらは、これだ」といって四本指を突き出す、典型的な差別事件が起きたのです。

    広島キリスト教社会館で開催された、1995年度の部落解放夏期研修会で、「(牧師である)私にわからないのにどうして教会員にわからせるのか・・・」という発言があったと分団討議の報告がされていますが、部落差別の本質を「わかろうとしない」牧師によって、教会の部落差別問題との取り組みが阻害されてきたという現実があることを、私たちは認識しなければならないのではないでしょうか。

    私が牧会している教会で、チラシ配布が、部落差別との関連で問題になったとき、教会員のFさんが、「これを見て、チラシを配ってください」といって、数10ページにのぼる住所録をもってきました。 「なんで、チラシを配るとき、この住所録を見るの? 」と尋ねると、チラシを郵便受けに入れるとき、表札とこの住所録を照合すればよくわかります・・・」といわれます。 「・・・」、返事に困っていると、「この住所録は世帯主の名簿ですが、私は、すべての住民票を持っていますので、家族構成が必要ならコピーしてさしあげてもよろしいのです」と言われます。 そのとき、なにが話されているのか、理解できなかった私は、「チラシを配布するのに、そんなのはいらないでしょう・・・」と言ったのですが、Fさんは、その住所録をおいていかれました。

    それから数年、机の中に他の書類と同様にただ突っ込んでいたのですが、部落差別問題特別委員会の職務を遂行していく中で、また解放同盟S支部の解放学級に参加して差別・被差別がなんであるのかを学ぶ中で、私が住んでいる市の被差別部落の2か所の名前を知りました。 「まさか・・・」と思って、しまい込んでいた、Fさんが置いていった住所録を見ると、その住所録には、旧地区名が掲載されていました。 教会周辺の広範な地域の名簿でしたが、そこには、昔から被差別部落として差別されてきた部落名、〇〇と〇〇を含む旧地区名が明確に掲載されていました。 解放同盟S支部のある隣保館の館長さんに見せていただいた、教会の近くにある二か所の被差別部落の世帯数とほぼ一致するものでした。 その住職録が作成された時期は、前々任牧師の名前が掲載されていますから、同和対策審議会答申以前の文書であることは間違いありませんでした。 それに、地番順に並んでいるところを見ると、なんらかのかたちで、行政から流出した文書であると思いました。

    その住所録が、地名総鑑差別事件で問題にされている住所録と同じ性質のものであることが分かったとき、Fさんにそのことを確かめました。 市内の県立高校で、同和教育を担当、市の同和対策推進委員をしておられる教師Fさんにも、「こういう文書が、一般的に出回っているのか・・・」尋ねました。「黙っていた方がいいよ。大問題になるよ・・・」とのことでした。

    また、部落解放同盟S支部の書記長さんにもこの住所録について話をしたことがあるのですが、書記長さんの話によると、山口では、いまだに同種の住所録がいろいろなかたちで出回っているといいうのです。 地名総鑑差別事件として、明らかにされた文書は、ほんの一部で、現実にはかなり多くの差別文書が氾濫しているというのです。 「被差別部落の人が自分の出身を隠しても、差別する側は、きちんと差別してくる。 だから、部落のものは、部落差別から逃げないで、それと闘っていかなければならない・・・」と話されました。

    教会のある地区の被差別部落の全世帯の名簿を保有しているということは、私の中に複雑な種々雑多な思いを引き起こしました。 私が、<悪意>にみちた差別者であったら、このことをあきらかにせず、密かに被差別部落の人を差別するために使ったのではないか・・・。 仮定上であったとしても、そこにはおそるべき差別的な世界が待っています。

    部落解放同盟山口県連の松浦委員長からいただいた「同和関係地区一覧表」を見たときにも、また、解放同盟S支部の書記長さんから、被差別部落内外の歴史的、今日的資料をいただいてそれを見たとき、それ自体なにの問題も感じませんでした。 しかし、「部落解放運動」の文脈以外の場所で入手した、その部落名の入った住所録は、うすぎたなく、差別の手あかに汚れた差別文書のように思われました。

    そのとき考えさせられたのですが、「この世の中から、部落差別をなくしたい、部落の名で一人も差別されることのない時代をつくりたい、そういう願いをもってなされる部落解放運動の場以外で知りえた、被差別部落に関する知識・情報は、すべて差別知識・差別情報である、それがたとえ学術的で歴史的な文献・資料であったとしても、差別文書に転落する可能性を持っている」・・・と。 私は、それ以来、部落解放山口県連S支部や、そのS支部と連携して部落解放運動をしているいくつかの支部の解放運動の文脈の中で語られる、被差別部落の歴史や文化、部落解放運動の闘いと展望の中でしりえたことしか、自分の「被差別部落韓」、「被差別部落史観」に組み込まれないことにしました。

    しかし、西中国教区の諸教会と被差別部落との間に、まったく関係がなかったというわけではありません。 戦前・戦後の話でいえば、日本基督教団の牧師・賀川豊彦は、日本の教会が、被差別部落に対する伝道をかえりみなかった時代、被差別部落の人々と接触をもった稀有の人物です。 彼が青年時代に書いた『貧民心理の研究』が差別文書として指摘され、絶版を約束していたのですが、彼の死後、キリスト新聞社が全集に収録、のちに、部落解放同盟から、差別文書を発行したとの理由で糾弾を受けることになりました。

    賀川問題は、全教団的に取り組みが行われました。 西中国教区でも、数年に渡って、その部落解放セミナーで、賀川問題を取り上げました。 そのとき私が発題したときの原稿を、賀川問題に関する論文集に転載したいとの申し出が、キリスト新聞社の五十嵐善信さんからありました。 「西中国教区では、正当な評価がなされなかった発題」なので辞退、他の方の文章を掲載されることをおすすめしたわけですが、五十嵐さんの言葉では、私の発題は、(1) 一辺倒の賀川批判ではない、 (2) 賀川問題と取り組む新たな視点「優性思想」を提供している・・・ことを評価して、是非掲載したいということでした。

    そのとき、五十嵐さんは、「問われて、差別問題と取り組むようになった。本当なら、もっと早く資料集を出版することができた。 こんなに時間がかかったのは、牧師たちがあまり賀川問題との取り組みに熱心でなかったことが一因している。問われて答えることによって、問う側より問題がよくわかるようになった・・・」と話されていました。 そんな五十嵐さんの気持ちに打たれて、私の粗雑な発題を、発行が予定されている論文集に掲載することを認めたのです。

    論文集が発行されたとき、西中国教区の分区長をされていたK牧師から、お叱りの言葉をいただきました。 「教区が評価しなかった発題を、なぜ文章化して公表したのか! 」「頼まれたにしろ、辞退する方法はいくらでもあったはず」「それをしなかったのは、お前が謙遜の美徳に欠け、パーソナリティの品性が欠落しているためだ」「部落問題を利用した売名行為はいいかげんにやめるべきだ」、怒りというより激怒に近い言葉でした。

    分区長のK牧師は、「〇〇部落の〇〇さんにたずねたら、吉田という牧師なんて知らないといっていた。 山口の部落民をみんな知っているかのような大きな顔をするんじゃない! 」「共産党に聞いたら、吉田牧師は間違った運動をしていると言っていた」「部落差別問題特別委員会の委員を自分でおりたのだから、いいかげんに、部落差別についてはくちをつぐんで話すのをやめろ!」と言われます。

    K牧師から、侮辱・憎悪・敵意という言葉があてはまるような悪口雑言を浴びせられることは二度や三度ではありませんが、「時代が変わって、共産党が政権をとって、<寝た子を起こすな>が正しい時代が来たら、今度はおまえが糾弾される立場になる。 それでもいいのか! 」 「おまえは、教区や分区から浮いているだけでない。 共産党からも浮いている! 」というK牧師の私に対する批判は、教団の部落解放センターの歩調にあわせて部落差別問題と取り組もうとしている私に対する、別な運動論からの批判攻撃でした。

    なぜ、一人の名もなき、無学な、力なき牧師が、部落問題と取り組んだからと言って、そこまで、反対してくるのか。 分区長のK牧師は、私とは違う立場で、私とは違う世界で部落と深く関わってきたためでしょうか・・・。 異常なまでの反対は、かえって、K牧師の部落・部落問題とのかかわりの深さを想像させます。

    賀川豊彦の中にも、<社会的>差別意識があります。 しかし、人間というものは、<差別>・<被差別>は、どこかで輻輳するものです。 賀川豊彦の文章の中にも、このような言葉がありました。 それは、水平社の応援演説に奈良にでかけたときの文章ですが、「雪の中を貧しい部落に出入りすると、私は何となしに悲しくなりました。 あまりにも虐げられている部落の人々の為に、私は涙が自ら出てそれなどの方々が過激になるのはあまりに当然過ぎるほど当然だと思ひました。 私は水平社の為に祈るのであります。みな様も水平社の為に祈ってあげて下さい。・・・神様どうか、水平社を導いて下さい。 雲の柱、火の柱をもって導いて下さい。アーメン。」

    私は、この賀川豊彦の言葉、そして涙は真実であったと思うのです。 多くの人が、水平社運動に対して批判的になっていた時代に、賀川豊彦はまさにこの言葉を綴ったのです。水平社運動に共感し、奈良の被差別部落の人々のために、解放の福音を説いたのです。 だからこそ、賀川豊彦の中に内在する<社会的>差別意識がいかに残酷に人を変えてしまう力をもっているかを考えさせられるのです。賀川豊彦の右の言葉は、賀川豊彦の、<社会的>差別意識と被差別民衆に対する深い共感とのせめぎあいの間に生まれてきたことばであると思います。

    賀川豊彦の感化を受けた、山口県出身の被差別部落の人に松本淳がいます。 1989年に『茨の座』という詩集が出されました。 松本淳にとって、賀川豊彦とその関係者を通して与えられたキリスト教の影響は少なくないものがあります。

    松本淳は、「貧民。 そしてまた呪わしい因襲の鉄鎖が重く錆びつつまつわりついている者の群れの中に私は生まれ育てられた。」といいます。

    そんな松本淳が、尋常小学校3年の頃、こころの中に部落差別という深い傷を負わせられます。 祭りというものは、どんなこどもにとっても楽しいものです。 太鼓や笛のはやしの音が聞こえてくるとこころが躍るものです。 しかし、松本淳は、鎮守のお宮の秋祭りの日、神舞を前に、このような話を耳にするのです。

    「〇〇の・・・」
    「〇〇の者を舞殿へ上がらせる訳にはいかぬ」    
    「・・・」
    「あしこの者が出した縄で棟木を縛る訳にの行くかいで」
    「穢れるぞ・・・」

    松木淳は、「私達をいがませ、臆病にしたものは、私達の魂に終生痛み疼く烙印を押し付けたのは、その人々であった」といいます。 彼は、学校や社会だけでなく、人間の幸せを追求する宗教からも、差別の烙印を押されたのです。

    松本淳は、「山や川や野原、高く飛ぶ鳥。 美しい声で歌う鳥や虫、私は世間の人の仲間に入れない寂しさに、いつもそれ等の入っていくより他なかった・・・」と言います。 しかし、それは、彼にとって、「喜びではなかった」と言います。

    山に向かいて呼べど山は物言はず
    我荒寥と
    頂に立つ

    水平社運動にも参加する松本淳でしたが、相次ぐ官憲の迫害で挫折、彼は、ふるさとを離れ、賀川豊彦の世界と関りをもつようになります。 賀川豊彦を通して知りえたキリスト教によって、

    人はみな
    古里のことを恋しと言へど
    われには呪ひの名にてありけり

と歌った海が、

    ひとみをこらせば
    海のはるけさよ
    ひとみとづれば
    我イエスのささやきこゆ

と、主イエスがささやきかける場所へと変えられていくのです。 松本淳にとって、キリスト教の影響、否、聖書にしるされた主イエスの影響は非常に深いものがありました。

    荊冠 よし 貧苦またよし 病みもよし
    我行く道は父のみ旨ぞ

    詩集を読む限り、被差別部落出身である彼をこばんだのは、賀川豊彦やその周辺の人物ではなく、彼のふるさと・山口の地をはじめ、各地に散在するキリスト教会ではなかったかと思われます。

    教会に行かず
    牧師にまた行かず
    ただ影の如き
    キリストを思う

    被差別に置かれた彼は、この世からだけでなく、教会からも疎外され、孤独な信仰生活を過ごさざるを得なかったようです。 

    悲しきは認識不足
    差別する 反抗する
    おろかしき人々

    山口の教会と被差別部落の人々との出会いの機会は、いままで数多くあったのではないでしょうか。 それを、さまたげ、教会から被差別部落の人を排除してきたのは、部落解放への「認識不足」、悲しいまでの、教会や牧師・信徒の中に内在する差別性にあったのではないでしょうか。

    西中国教区の部落差別問題特別委員会に、山口のK教会から、部落差別についての取り組みの報告が入ったことがあります。 その当時の委員会には、部落差別問題の研修会の講師派遣の依頼も少なく、教区内の各教会の取り組みの報告もほとんどない状況が続いていましたので、委員長も委員もビックリしました。 

    というのは、K教会は、教会に、被差別部落の人を招いて、被差別部落の人から直接、差別の話を聞いたというのです。 「さすが、K教会! 」と、私もあらためてK教会の社会問題との取り組みの多様さと熱心さに尊敬の思いを持ちました。 解放同盟S支部の解放学級に参加すうろうになったある日、「日本基督教団は、部落差別について、どういう取り組みをしているの? 」と聞かれるので、なによりもまず、K教会の具体的な取り組みのことを話しました。 するとS支部の書記長さんが、「もしかして、K教会に話に行った部落民て、私のこと? 」というのです。 私は、意外な展開に、「何の話をされたのですか? 」とお聞きしたところ、「なにのための集会なのか、よくわからなかったので通り一辺のことを話しておきました・・・」という返事でした。 なにか、K教会の牧師や信徒の、「私たちは、部落の人を招いて学習会をした。 部落差別問題でも、K教会は先頭を走っている。 部落差別問題についても、教区の取り組みの先駆者である・・・」との自負が、みるみるうちにメッキがはげていくように、崩れていく思いでした。

    「そのあと、K教会とのつながりは、どうなったのですか」と尋ねてみると、「ああ、それっきりですよ」という答でした。

    K教会と被差別部落の人々との出会い、それは世にいう、K教会も部落差別問題と取り組んでいるという「アリバイづくり」以外のなにものでもなかったようです。 教会の近くに被差別部落がある、ない、教会の中に、被差別部落の人がいる、いない、そんなはざまで、このような、教会と部落との出会いもあるのです。 教会に部落の人を呼び寄せ、差別についての話をさせるけれども、教会が部落を尋ねて、彼らから差別について学ぶことがない・・・。 ここでも教会と部落の出会いが、手のひらからこぼれ落ちてしまったようです。

    西中国教区総会で、山口M教会のT牧師が、M教会の近くの被差別部落の人々と学習会をしているという発言が、ありました。 解放同盟S支部の書記長さんに話すと、「解放同盟のM支部の〇〇さんに聞いてみよう。 M支部も孤軍奮闘しているから、M教会の牧師さんが協力してくださったら、M支部にとってもおおきなはげみになる・・・」、期待をもって調べられたのですが、わかったことは、M教会のT牧師が一緒に部落差別問題の学習会をしている人たちは、学校の教師たちで、誰一人として部落出身者はいませんでした。 T牧師は、部落差別問題を一緒に学習しているそれらの教師たちを、「部落出身者」と認識して、教区総会で、そのような発言をしたのです。 学校の教師が部落出身者を名のることは山口ではほとんどありません。 ですから、T牧師は、「熱心に部落差別問題と関わっているものは、部落出身者に違いない」という、山口でよく見られる<社会的>差別意識から、その教師たちを部落出身者と断定したようです。 彼は、「東北出身だから、部落差別はよく知らない」といいますが、部落差別は知らなくても、<部落差別をする>すべは知っていて、それをきっちり実践されたようです。 その教師たちによる部落差別問題についての学習会も、教会と部落との大きな出会いの機会でした。 しかし、ここでも、その教会は、牧師の手の平からこぼれおちてしまいました。

    しばらくして、部落解放全国キャラバンの被差別部落出身の牧師を前に、彼は、「私は、東北出身ですから、部落差別がなにか知りません」と繰り返し発言していました。

    教会と部落、牧師や信徒と被差別部落の人々・・・、その出会いの機会は決して少なくありません。 しかし、それが、ほんとうの出会いにはならない、なぜなのでしょう?  それが問題なのです。 教会と被差別部落との出会いを妨げているのは、被差別部落の詩人・松木淳がいう「認識不足」と自覚されることのない「差別性」(社会的差別意識)にあるのではないでしょうか。 

    部落差別が何か知りません、部落差別がなにか知りません、部落差別が何かしりません・・・、そう繰り返しながら、きっちり被差別部落の人々を差別することができる現実を、私たちはもっと直視しなければならないでしょう。

    西中国教区内で、かって生じたさまな差別事象をとりあげてきましたが、教会と被差別部落は、いつ、どこで、どのようにして、向かい合う関係になるのでしょうか? どのようにしたら、教会と被差別部落を切り結ぶことができるのでしょうか。

    西中国教区は、広島キリスト教社会館において、保育事業を中核に、さまざまな取り組みを展開してきました。 部落解放をになう人々によって、いまも、その取り組みが展開されています。

    教区の部落解放セミナーの席上で、〇〇牧師は、むすめさんが被差別部落の青年と結婚されたことを報告されました。 また、〇〇教会の牧師は、教区の現場研修会で、やはり娘さんが、在日韓国人の青年と結婚されたときの、親の気持ちを話されました。 祝福したい・・・、そんな気持ちを抱かされる発言でした。 信徒の場合も、なんどかそのような話を聞かされましたが、西中国教区の中では、ほとんど無視され、そのことが、西中国教区の部落差別問題の取り組みの上で、部落解放のさらなる展開の上で、大きなきっかけになったり、エネルギー・原動力になったりすることはありませんでした。 話をした、しかし、共に差別について考え、共に差別を克服する道を歩む、そのような地平が開かれるのではなく、無視と沈黙の世界に直面し、そのことは二度と、彼らの口から語られるということはありませんでした。 部落差別について、真剣に考え、行動に移していった牧師や信徒の声は、教区と諸教会の差別性を前にかき消されてしまっているのです。



2023年8月28日月曜日

第2章第4節 第6項 差別意識が生まれるとき

    第2章 差別意識を克服するために
    第4節 差別意識とはなにか
    第6項 差別意識が生まれるとき

    部落解放同盟山口県連S支部の解放学級で、「人はいつ差別者になるか」、ということが話題になったことがあります。

    そのとき、S支部の支部長さんは、小学校の5~6年頃には、みんな部落に対する差別意識を持って差別者になっていると言われます。 なぜなら、小学校に入って1~2年は、部落のこどもは、部落外のこどもと楽しく遊ぶことができるというのです。 部落のこどもが町のこどもの家に遊びに行ったり、また町のこどもが部落のこどもの家に遊びにきたり、いろいろな交流がこどもなりにあるというのです。 しかし、3~4年になると、一人減り、二人減りと部落外のこどもとの付き合いが段々減ってくる。 自然、部落のこどもは、部落のこどもとだけ遊ぶようになっていく。 5~6年生になると、部落のこどもは、部落外のこどもと誰も遊ばなくなる。 町のともだちがほとんどいなくなる・・・。 支部長さんは、自分のこども時代のことを振り返りながら、自分の経験からそのように話されました。

    支部長さんは、逆からいうと、部落外のこどもは、小学校1~2年生の頃は部落がなにか、なにもしらないが、5~6年生の頃には、親やまわりのひとからそれとなく聞かされて部落のこどもと遊ぶことをやめ、部落に出入りしなくなる、部落のこどもに対してすっかり差別者になってしまている・・・、と言われます。

    支部長さんは、小学校や中学校、高校や大学で、同和教育を受ける前に、こどもは、部落に対して差別意識をもった差別者になってしまっているといいうのです。 ひとは、差別意識を身に着けないように努力することからものごとをはじめるのではなく、いったん、身に着けた差別意識を取り除くことからはじめることになる・・・・と言われるのです。

    こどもが小学校に入学するとき、就学時の知能検査を受けさせられます。 親は、自分のこどもがどのような検査をされているのか、知るすべがありません。 小学校にまかせきりになっているといってもよいでしょう。 わたしのむすめが小学校に入学するときも、就学時の知能検査がありましたが、それがどのようなものであるのか、ほとんど関心がありませんでした。

    あるとき、解放学級で、山口県T市で行われた就学時の知能検査が問題になりました。 その検査の中に、こどもの顔を描いた考えがあります。 こどもの顔には、目と口がありません。 教師は、こどもにこのように質問します。 「この顔の中で何かたりないものがあるでしょう。足りないところを鉛筆で書いてごらん」。 <目と口を指摘すれば正解>というものです。

    この知能検査は、「普通学級で指導することの可否を判定」するものだそうで「ことばの明確さ」「大小の判断力」「多少の判断力」「欠陥指摘能力」「形の構成能力」の5種目について「能力」がテストされます。

    目と口のないこどもの絵を見せて、「たりないところ」を指摘させるテストは、「欠陥指摘能力」テストという名前で呼ばれています。 「絵を見て欠陥を指摘し、完成する能力を見る」ものだそうです。 就学時のこどもに要求される能力に、欠陥指摘能力がある・・・ことをはじめて知りました。

    その時、絵を見ながら思ったのですが、それは、障害者差別を助長することにはならないのでしょうか。 目がないという障害を、ことさら指させる必要があるのでしょうか。 しかも「欠陥」としてです。 小学校に入る前のこどもは、人間としてのやさしさをもっています。  そのやさしさではなく、また障害者と共に生きる共感ではなく、障害者の障害を「欠陥」として指摘する能力がもとめられるのです。 義務教育は、最初から、差別教育として展開されているのではないか・・・。 非常にショックを感じる就学時の知能検査でした。

    確かに、アリストテレスにはじまる、「種」と「差」の論理は、学問をする上で必要な論理であるのかもしれません。 しかし、本来、「差」ではないものを「差」として指摘させ、それを「能力」と評価することは問題であると思います。

    小学校に入学することは、、部落のこどもにとってもうれしいできごとです。 入学前に、親は、こどもの入学に備えて、学生服や学生帽、靴や上履きをそろえます。

    解放同盟s支部の青年部長の方は、一番上の子が入学するというので、準備をしていて、驚いたというのです。 学生服の上着のポケットに、「〇〇小学校第一学年氏名〇〇〇〇」と書かれた名札をつけるよう指示が書かれていたのですが、その下に、1.5cm×5センチの白布に地区名を記載するよう指示されていたのです。 「地区名をその布に書くことを求められると、被差別部落の親は、自分のこどもの名札の下に、部落の名前を書き込むことになる。 部落の親としてそのようなことはできない・・・」と、抗議されました。

    〇〇諸学校は、抗議される数年前から、突然この制度を導入したそうです。 部落のこどもは、学生服を着て、部落外のこどもの家に遊びに行くと、その親は、遊びに来たこどもが、どこに住んでいるのか、その白い布に書かれた地区名を見てすぐわかるというのです。 被差別部落のこどもは、自分の胸に、部落の名前をつけて学校に通わされることになります。

    〇〇小学校の校長は、「心に痛みを受けている方がいることに気づかなかったのはうかつだった」と説明しました。 また、山口県の同和教育課長は、「まだこういう学校があることを知りショックを受けた」とコメントしました(朝日新聞の報道)。

    部落解放同盟S支部の、市当局に対する確認会で、書記長さんと市長との間でこのようなやりとりがありました。

    (書記長)「差別がない、こどもが、部落名を書いた名札をつけて歩いても差別されないというなら、市長も、その名札の下に、部落名を書いた白い布をつけて市内を歩かれたらどうですか」
    (市長)「できません」。
    (書記長)「なぜですか。 差別がないというなら、市長が、胸に部落名を書いた布をつけてあるいても、なにも問題がないではありませんか」。
    (市長)「今も、差別があります。 名札をつけて歩くことは、私にはできません」。

    学校教育は、最初から<差別教育>なのでしょうか
。 教育は、権力構造(天皇制)と深く関わり、さまざまな差別の再生産の場になっているのではないか・・・。 〇〇小学校名札差別事件は、非常にショックでした。 部落のこどもが、学校でどのような対応を受けているのでしょう。

    解放同盟山口県連S支部の書記長さんにすすめられて、山口県H市の社会同和教育主事・A教諭の話を聞きに行ったことがあります。 彼は、講演の導入部分で、「(黒板に)絵を描くので、素直に答えてください。 皆様がどれだけ素直な気持ちになっているか、試してみたい。 これは何ですか? 」と言いながら、黒板に〇を描きました。 受講者から、「まるです」という答えが返ります。 A教諭は、「それでは、これは何ですか?」と、その隣に三角形を描きます。 受講者の中から、「三角です」問答えが返ります。 A教諭は、「これは? 」といいながら、最初に〇を描いたその下におなじように〇を描いていくのですが、最後、書き始めと書き終わり、始点と終点を結ぶときに、ぐいと力を入れて、始点と終点の間にすきまを残してとめます。 三角形の場合も同じです。 「これは?」という質問に誰も答えませでした。 するとA教諭は、「これは欠けがあるので、円ではありませんね。 この三角形も同じです。 しかし、欠けているところをお補って考えると、これは円で、これは三角形ですね。 人間的に欠けがあっても、人をいろいろな方向から見て人間として見てあげることが大切ですね。 同和教育は、そういう教育です」と、同和問題の本論に入っていきました。

    講演の終わりで、「マイナス発言が出たとき、はっきりとそれを指摘できなければならない」と言われるので、「それなら」と講師のA教諭に、それは差別発言・差別行為だと指摘しました。 解放同盟S支部の書記長さんも、A教諭の夜の部の講演を聞きに行かれました。 講師のA教諭は、昼間の講演で聴講者から指摘されたことがらを完全に無視してしまいました。 そして、昼間、その講演になにも問題がなかったかのごとく夜の講演もされたようです。

    解放同盟S支部の書記長さんから、A教諭の講演の内容を聞いた山口県立古文書館の北川健先生は、その機関紙『むぎ』(160号)で、このように論評しておられます。

    この9月、ある他の講座に講和しに行ったところ、地元の方がいうには、前に晩に来きた講師の主事の先生は次のように説いたというのです。 まず、黒板に不完全な<円>と<三角形>の図を描いて、「皆さん、これ何ですか?」って問いかける。 それで受講者は「まァ、円です」「一応、三角形です」と答える。すると講師先生は、「そうですネ。不完全な形ですけど、皆さんはそれぞれを丸や三角形にみましたですネ。 たとえどこか不足したものであっても、整ったものとしてアタリマエに見ていく、人間についても、そういう直でオオラカな気持ちで見ることが大切ですネ。 それが同和の精神でありまして・・・」と本題に入って入った、のだそうです。 オカシイ! と思いますヨ、 私は。 これだと地区の人間は「不完全」で「1本足りない」「ハンパだ」といっていることでしょう。・・・「チガウものをオオラカに見る」のではなく、「オナジものをアタリマエに見」るというのが同和教育のはずですよネ。それを根本から取り違えているんですから」と、問題点を指摘されています。

    欠陥指摘能力・・・の世界は、義務教育全体を通じて、教育の根底に流れているようです。

    山口県では、大阪や京都のような解放教育はおこなわれていません。 解放教育が行われていたら、こんなへんな発想は生まれてこないと思うのです。 西中国教区の宣教研究会が発行している『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章にも、A教諭と同じ発想が通底しているように思われます。 欠けのある、丸や三角形こと書かなかったけれども、詩「五本目の指を」を引用することで、読者に同じような差別意識をふりまいたのではないでしょうか。

    ともかく、私たちは、差別社会の中の、学校教育を通して、それが公立であろうと私立であろうと、知らずしらずのうちに差別的体質を育成されているのではないでしょうか。

    S支部の支部長さんが、解放学級で、ご自分のことを話してくれたことがあります。 被差別部落の人がどのように、<被差別>の意識をみにつけていくか・・・、私たちはそのことを知ることで、その対極にある差別者がどのように<差別>意識を身につけていくか・・・、私たちの差別性を認識できるのではないかと思います。

    支部長さんの話しによると、最初の、被差別の経験は、14歳頃であったといいます。戦争中の勤務先での話しです。

    その当時、支部長さんは、「同和」とか、「差別」とか、何も知らなかったといいます。 その当時、会社に勤めている若者の娯楽といったら、芝居を見に行くことぐらいたったのでしょう。 会社の昼休みには、自分たちが見た芝居について話し合っていたそうです。 勤め出して3年くらいたったある日、支部長さんの前で、会社の同僚の一人が、「〇〇のこれがのうお・・・」と、四本指をかざしながら、話しはじめました。 支部長さんは、その時、〇〇がどこを指しているのか知らなかったといいます。 同僚に、「〇〇は、どこにあるのか」と尋ねたら、「おまえ、知らないのか」と聞き直されたと言います。 すると、もう一人の同僚が、近くに寄ってきて、指をかざしながら、「お前も、これでよ」と言われたそうです。 そのとき、指をかざして、「お前も、これでよ・・・」とささやかれたことが分からなくて、家に帰って、夕食時に、父親に、会社であったできごとを話したそうです。 「だれが、そんなことを言うたか・・・」とぼそりと、悲しそうにつぶやくだけで、それ以上何も言わなかったそうです。

    支部長さんは、その時、差別されても、なんで差別されるのか、わからなかったと言います。 しかし、そのことがあって、いままで楽しかった職場が、急に面白くなくなって、同僚音いままでのように自由に話をしたり、笑ったりできなくなったそうです。 「せんない、せんかい・・・」。 理由もなく、押し付けられる<抑圧>と<疎外感>に、やがてたえられなくなって、会社を休みがちになっていきます。戦争中であったため、職場にでない支部長さんをいぶかしがて、警察から呼び出しがかかったといいます。 「なぜ、会社に行かないのか・・・」。 そのように詰問されても、支部長さんは、その理由が言えなかったと言います。 自分が感じている、何とも言えない抑圧感、疎外感を言葉に表現できなかったそうです。 戦争が終結するまで、同僚との気まずさをかかえたまま、支部長さんは、会社に通い続け、戦争が終わるとすぐ、差別的な職場を離れたそうです。

    支部長さんは、20歳の頃、漠然と差別され、疎外されているとは感じたそれがものの、部落差別であるとの認識を持っていなかったと言われます。 30歳頃になって、自分の子どもの頃、青年時代のさまざまなできごとを思い起しながら、「あれが、差別だった・・・」と部落差別がなんであるのか、自分の内に追体験するようになったと言います。

    支部長さんが、部落解放運動をはじめるようになったのは、むすめさん夫婦の影響が大きいと言います。 娘さん夫婦と、部落のことを話している間に、支部長さんは、自分が被差別の中に身を置いて考えてきたこと、行動を起こそうとしてきたこと・・・、それが娘さん夫婦が考え、実行しようとしていることとピッタリあったといいます。 「それなら、一緒にやってみようか」、ということで、部落解放同盟の支部をつくって、少人数ではあったが運動をはじめたというのです。

    支部長さんは、「言っておかなければならないことがある。 部落の側も、差別を前にして、それをはねかえす意志が弱かったのかもしれないが、差別の一言が、部落の人の人生を大きく曲げてしまう。 部落の青年が、まっすぐに、自分の人生を生きていこうと思っているのに、なにげなくささやかれたたった一言の差別の言葉がそれを台無しにする」といいます。 「差別するものは、<なにが部落差別か、わたしは何も知らない>、<差別で、部落の人がどんなに傷ついているか、知らない>、そういいながら平気で差別してくる・・・」といいます。

    支部長さんの話を聞きながら、考えさせられたことは、被差別部落の人が、<被差別>であることを自覚するようになるのは、そんなに簡単なことがらではないということです。 被差別部落の人は、最初から、<被差別>の意識を持って生まれてくるわけではありません。 被差別部落の人は、こどもから大人に成長するにつれて、自分の人生の歩み、時の流れ、人生の季節の移り変わりと共に、<被差別>がなんであるのかを、そのこころに刻みつけられていくのです。

    支部長さんは、<被差別>を自覚し、それを言葉で表現できるようになるまで、差別を跳ね返し、部落民としての誇りに生きようとするまで、30数年の歳月を要したといいます。 部落解放運動のない場所で、被差別部落の人がどのような人生を歩み、その歩みの中で、どのように<被差別>の意識を押し付けられていくか・・・、気の遠くなるような歳月が費やされるのです。

    差別するものは、「差別が何かしらない」と公言してはばからない。 天皇制という差別社会の中に生きていながら、近代身分制度の<天皇>の対極に、その身分制度の最下層に生きることをお押し付けられた<部落民>の存在を知りながら、それでも、「部落差別が何か、知らない」という。 認識不足と無関心さ、被差別の側から「差別だ」と指摘されても、被差別の側に生きるものの苦しみや痛みをすこしも理解しようとしない、できない人々・・・。 そのような人々によって、被差別部落の人々は、真綿で首を絞められるようにじわじわと差別され、疎外され、抑圧され、自分の人生と心の中に<被差別>を刻みこんでいかなければならなかったのです。

    支部長さんの話を聞きながら、わたしは、「部落を知らない」、「部落差別を知らない」というのは、最大の差別、最も深刻な差別であると思いました。 被差別部落は、日本全国どこにでもあったし、日本の近代・現代の歴史の中に、郷土の歴史の中に、その存在と、彼らが生きてきた様々な文化や技術が記録されているのです。 それにもかかわらず、「部落を知らない」、「部落差別をしていない」・・・と主張してやまない私たちの精神構造こそ、検証しなければならないことがらではないでしょうか。

    被差別部落の人々が、その<被差別>を認識していくのに時間と歳月を要するように、被差別部落の人々を<部落>として差別する差別者の<差別意識>も、こどもの頃から青年・壮年に至る長い歳月をかけて、ゆっくりとその人生とこころに<差別意識>を刻みこまれています。

    天皇制の枠の中で、限りなく、その最下層の<被差別部落の人々>から、無関心になり、疎遠になり、「部落を知らない」と発言しつつ遠ざかることによって、限りなく、その対極の、天皇制の頂点に立つ<天皇>に近づいていきます。 「育ちのよさ」を誇り、「由緒正しい家柄」であることを誇り、<天皇>制度の頂点に限りなく近づくことで、被差別部落の存在を、意識の外に追放してしまうのです。

    旧約聖書の伝道の書の中に、このようなことばがあります。 「わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た。 見よ、しえたげられる者の涙を。 彼らを慰める者はない。 しえたげる者の手には権力がある」。

    ドイツのキリスト者であり法学者でもあるラートブルフがその『法学入門』の見開きに書き込んだ聖書のことばです。 この言葉は、私たちキリスト者が、どのような視座に立たなければならないかを示しています。

    まず、権力を見上げることからはじめると、その権力の下であえぐ多くの民衆がなんとみじめで悲惨に見えてくることでしょう。 権力を見上げて、それから民衆や被差別民衆を見ることで、権力によって差別され、抑圧された痛みや苦しみ、その涙が見えなくなってしまうのです。 そういう状況では、権力の下であえぐ民衆の姿は、みじめさと暗さ、悲惨に色濃く彩られて見えることでしょう。 <差別>社会を民衆支配の道具としてつくりあげてきたのは、まさに権力そのものに他ならないのです。

    ラートブルフは、伝道の書の著者は、まず、権力によってしえたげられた被差別民衆に自分の目を向けることを求めます。権力の下で差別され、抑圧されているものの「涙」を見よ! というのです。その「涙」をみつめることができたとき、その人の目に「権力」はどのように映るのか・・・。民衆を差別者と被差別者に分断し、相互に憎しみと敵意を持たせることで、その怒りや闘いが権力そのものに向かうことを回避し、民衆支配を貫徹させようとする権力の悪しき意図が見えるではないか・・・。 キリスト者で法学者であるラートブルフは、ナチの政権掌握後すぐに公職追放の処分を受け、ハイデルベルク大学教授の地位を追われ在野に下った人物です。 政治的確信犯に対する死刑反対を唱えた法学者です。

    支部長さんは、「被差別部落の人は、職場において、仕事ができてもできなくても差別されるといいます。 仕事ができるから「あれは、部落じゃ」と言われ、仕事ができないから「あれは、部落じゃ」といわれる、できても、できなくても、部落だといわれて、職場からも社会からも疎外されていく・・・。 支部長さんは、部落差別の残酷さをそのように語りました。 どうして、部落出身であるということで、そのような重荷を背負わされなければならないのか・・・、支部長さんは、自分の話を閉じるにあたって、「まあ、わしの一代というのは、それぐらいなもんで、他にしいて変わったことはないでよ」と語られました。 被差別部落の人の生き方に、部落差別がどれほど深刻な影を落とすか・・・。 支部長さんの自分史を通して多くのことを考えさせられました。

    支部長さんの娘さん、青年部長さんは、『部落に生きて』と題された、S市の同和教育の研修会で、このように語られました。

    「多くの人は、<私は、差別しない。 したこともない。 部落差別なんて過去のことなんでしょう>と言います。 私の友人ですらそうです。 私が被差別体験を話しても、私の友達は理解できません。 私は、解放運動にであうまで、絶望して暮らしていました。 私の祖母の時代は、学校に行くとき石を投げられたそうです。私の父の時代は、父は会社に勤めていたのだけれど、会社で、<おまえはこれだ>と四本指を出されて会社へ行くのが嫌になってやめてしまいました。 その後、父は、日雇い労働をしながら、職場を転々としました。 私は、直接そのようなことを言われたことはありません。 でも、やはり、恋愛をしたり、結婚したりするということにすごく考えました。 最近の若い人は、部落問題についてほとんど知りません。 ある人に行ったことがあります。 <私は、部落出身なんですが・・・>。 その人は、<かまわないよ>と言いました。 その言葉自体はとてもいいのですが、でも、その人の心の奥にある<かまわないよ>は、<部落のことは、ぼくにはわからない。 全然知らない。 だから、あなたの気持ちもよくわからない・・・>そういう意味だったんです。 私は、敏感にそれを感じました」。
    (中略)
    「<差別はない、差別はない>と言われます。 それは、<差別があってほしくない>という願いとか希望とかを、現実と取り違えているからだと思います。 本当に部落差別がないのなら、「<私は部落民です>と言っても、なにの不利益も受けないはずです。 私がここに立って話をすると、差別をしようと思っている人は、「あれも親戚やから、あれも部落やろ」と頭をめぐらします。 結婚問題 とか、自分に関わる問題がでてきたときに、それを口にしだすのです」。
    (中略)
    「部落差別というのは、私たち市民が、すべて引き裂かれているという現実です。 そのことに、怒り、悲しみ、真心をこめて、差別を解決したいとは思わないでしょうか。 差別をなくそうとしても差別が起こる・・・それも事実です。 しかし、差別が起こってしまったとき、行政も市民も、その事件を解決する能力がないという、私たちは、それが悔しんです」。
    (中略)
    「水平社宣言を読んだとき、私は、思いました。 差別というのは、人間の誇りを奪いとっていくものなのです。 私たちは、その誇りを奪い返すために運動をするのです・・・」と話されました。

    部落差別は、被差別部落の人々の全生涯を通じて、押しつけられ、刻みこまれていきます。 差別は、その人一身にとどまらず、次の世代へと引き継がれていきます。 長い差別の歴史の中で、反差別の闘い、差別を乗り越えて、部落民としての希望と展望をつかもうとする運動も、それに匹敵する時間と歳月が要求されます。

    <被差別>を刻み込まれる歴史の長さを思いみるとき、それと同じ程度に、<差別>を植え付けられる歴史の長かったことも考えさせられます。 私たちが、日本の差別社会の中で展開される、学校教育や社会教育で、またさまざまな人間関係の中で、知らずしらずのうちに植え付けられてきた、<天皇制>という差別社会の遺産、<社会的>差別意識をどのようにしたら克服できるのでしょう。 本当に、時間と熱意をもって、自分自身と闘い、自分の内から<社会的>差別意識を取り除いていかないと、「心理的差別」を克服することはできないでしょう。

    差別の厳しい、解放運動がほとんど容認されない山口の地で、それでも、山口の部落解放の夜明けを願って、希望と展望をもって差別と闘いっている解放同盟S支部の人々の話を聞きながら、私は、民衆支配の道具として、<完成された部落差別>の状況をこのように考えるようになりました。 <差別>の側にあるものが、<差別意識>を自覚せずに、被差別部落の人々を差別してはばからない状態、そして、<被差別>にあるものが、差別されても差別されていることを自覚できない状態・・・、そういう状態のことではないかと思います。

    天皇制という、根本的な差別社会の中にあって、「部落差別を知らない」ということは、「差別から自由になっている」「差別をしていない」ということではなく、<完全な差別>の身に着けてしまっている、ということを意味しているのではないかと思わされるのです。 天皇制という、差別的枠組みの中で、民衆を分断し民衆によって民衆を差別させている力<権力>を意識しないで、<差別>の側にあるものと<被差別>の側にあるものが、互いに憎しみと敵意を持って生きる・・・、これほど悲しむべき、民衆の悲惨は姿はありません。 <差別>・<被差別>に無自覚であればあるほど、私たちは、差別を常に再生産する本当の敵、私たちが闘わなければならない相手を見失い、差別社会を肯定し、差別社会の体制を補完する機能をにないながら生きていくことになります。

    解放同盟S支部の青年部長さんは、「差別をなくそうとしても差別が起こる・・・(不幸にして)差別が起こってしまったとき、行政も市民も、その事件を解決する能力がないという、それが悔しんです」と語ります。 差別事件を解決するためには、民衆を「差別する民衆」と「差別される民衆」に分断し、「差別をつくりだす力(権力)」、この三者の差別構造を正確に見据えないと、正しい問題解決の展望を持つには至らないでしょう。

    ひとつの差別事件が、その共同体の啓発の機会となり、再び、二度と、同種の差別事件を起こさないためには、相応の努力が要求されるのです。しかし、それは、被差別にある人々のためにだけなされる行為ではありません。 「民衆」が、人間としての誇りを、本当の意味で取り戻すいとなみ、闘いでもあるのです。 部落解放の父と言われた松本治一郎は、「貴なければ賤なし」といいました。 天皇という「貴」が存在するところでは、「賤」は、繰り返しくりかえし再生産されていきます。 私たちは、そのことももっと自覚する必要があると思うのです。

        *差別思想としての「天皇制」・「賤民史観」は、日本の左翼主義思想家が作り出して用語です。

第2章第4節第5項 糾弾に学ぶ

    第2章 差別意識を克服するために
    第4節 差別意識とはなにか
    第5項 糾弾に学ぶ

    1995
年12月15日、浄土真宗本願寺派・山口教区の糾弾会が行われました。 浄土真宗の山口県内636ケ寺から88名が参加して行われました(私は新聞記者に同行)。

    浄土真宗は、1971年、同胞運動本部を設置、部落差別問題との取り組みをはじめました。 そして、1985年には、基幹運動本部を設置、教団の基幹となる運動としての位置づけがなされ取り組みが展開されていくのですが、1993年以降、教団内に、さまざまな差別事象が発生します。 東海教区住職による差別発言、教団関係学校における差別発言、札幌別院における差別落書き、教団本部における差別落書きなどの差別事件が多発するにおよんで、真宗全教区の「糾弾会」となっていったのです。

    なぜ、教団をあげて、部落差別問題と取り組んでいるのに、差別発言があいついで発生するのか・・・。 浄土真宗本願寺派・山口教区は、

    (1) 「感動の理念が充分、浸透されていなかった」
    (2) 「運動が事実から離れて、抽象的であった」

の2点をあげています。 部落差別問題と取り組んできたといいながら、その内容は、「差別の現場、現実を知っていたとはいえない」と総括されているのです。 さらに、「仏教本来の真俗二諦>を転用し、仏法の領域を<真諦>、<世間>の領域を<続諦>として切り離す<真俗二諦論>によって、教団の社会的位置づけを計り、仏法の領域だけに教団をとじ込ませ、世法には追従する現実肯定・体制補完を担ってきた」、また、「僧侶は、真宗の信心を説くことが第一で、社会の問題は二の次、あるいは、<信心は生死の問題にかかわることだから、社会とは無関係だ」として僧侶がかかわることではないという立場に固執して、傍観の態度を生み出してきた」と内部批判がなされています。

    そして、差別解消に向けての今後の取り組みとして、

    (1) 「現実から切り離された信心は、現実を生き要る力とはなりえないばかりか、現実の苦悩を傍観し、自分だけ救われたらよというような利己的な信仰に堕してしまう」ことを認識し、「十万衆生を等しく必ず救う」という本願に立ち返り、自己中心的な生き方を否定し、新しい普遍的な生き方を生み出す。 自他の対立を越えて、共に生き、共に共感する平等の世界を開く」

との決意がなされています。

    (2) 「反差別の教学」については、教団の課題として、仏教の原点に立ち返る、「業・宿業」については、「社会的矛盾や差別は歴史的社会的につくられたものであって、それによってもたらされる不幸を被害者である本人の責任に転嫁し、不幸を引き起こした本当の要因から目をそらさせてしまうような業思想」は誤りである

等真宗教理の問題点が再検討されているのです。

    さらに、「僧侶の体質」につていは、「自ら特権階級であると思いこみ、社会の差別性に気がつかない、また目をそらせる傾向がある。 自己の保身を計り、何事も世間体を第一にして、穏便にすませようとするか、聞き流す傾向がある・・・」と指摘されています。

    「糾弾会を受けるに至った今、念仏者として部落差別をどう認識し理解し学んだか、またその克服のためにどう行動してきたのかが、今さらながら問われている」との認識に立って、「部落解放を教団の課題として」受けとめ、「そのためには、私たち一人ひとりの姿勢を自ら問い、仏陀釈尊から親鸞聖人と開顕された平等の精神を自らのものとし、同じ時代に生を受け、同じ世界に生きる人間として、差別を見逃すことなく、差別克服のために、一人ひとりの教団人が部落解放・差別解消に向け、何ができるか模索し行動に移していくことこそ、今必要なことであります」と結んでいます。

    真宗教団の本部や東海教区・北海教区で起きた差別事件を、<社会的>差別意識として、自分たちにも内在する差別意識として、被差別の側から問われたことがらについて、右のような回答を出しているのです。

    浄土真宗に対する糾弾の中で、浄土真宗側が出した回答は、文言を変えれば、私たち日本基督教団の教区や教会、牧師や信徒が、部落差別に関して直面し、また克服しなければならない、今日の課題をも描き出しているのではなでしょうか。

    西中国教区に部落差別問題特別委員会ができて十数年が経過します。 その間に、教区や分区、教会の中で、さまざまな差別発言がありました。部落差別だけではありません。 障害者差別発言や性差別発言が、また差別行為がありました。 しかし、どの差別事象も、闇から闇へとにぎり潰されていきました。 今日、それらの差別事象を、文章で追跡することはおろか、そしてそれらの差別発言や差別行為を、教区や教会の差別性を見直すための材料として使用することすらできません。

    かって、部落差別問題特別委員会に一委員としてその名前を連ねたものとして、差別を解決するのではなく、むしろ、繰り返し生起する差別事象をにぎりつぶすことに一役になってきた・・・、との批判を回避することはできません。 10数年の間に生じた、さまざまな差別事象が、私の手の中で、どぶがわのあぶくが、ぶつぶつ音を立てて、現れては消えて行ってしまうように、私の手のひらでにぎり潰された差別が悪臭をはなつのです。 差別隠しだけを期待され、差別問題と取り組んでいる格好だけが要求され、具体的な取り組みが否定されるような委員会の委員に誰が続けてなるものか・・・、そんな思いがあって、4期8年続けた部落差別問題特別委員会の委員を辞退しました。

    委員をおりたあとも、教区では、いろいろな差別事象が続きました。部落差別問題特別委員会委員長A牧師の女性差別事件、教団部落解放キャラバンに対する種々の差別発言、東岡牧師を前にした、初歩的な差別事象の数々、なにひとつとして解決されることなく、すべての差別が、何も起こらなかったかのごとくに闇から闇へと葬り去られて行きます。 今、拡大宣教研究会で、『洗礼を受けてから』に記載された部落差別に関する文章の差別性が検証されていますが、部落差別問題特別委員会がつくられて、はじめての差別事件の解決にむけての本格的努力といってもよいでしょう。

    差別事件をどのように解決していくか。 東岡牧師の指導を得て、この作業を進めていくことは、西中国教区の、部落解放の前進に大きくつながっていくことでしょう。 部落解放の前進だけでなく、教区の宣教活動の見直しと、さらなる展開が進められると思われます。

第2章第4節第4項 差別意識を自覚しつつ、差別行為をしない場合

    第2章 差別意識を克服するために
    第4節 差別意識とはなにか
    第4項 差別意識を自覚しつつ、差別行為をしない場合

    はじめて、解放同盟山口県連S支部の解放学級に参加したとき、私は、「自分の内にも差別意識があることを自覚しています。 しかし、差別意識があっても、差別しない人間になりたいと思います」と自己紹介しました。 神奈川教区のときに、完膚なきまでに叩かれた私の論理の再現でした。

    隔週火曜日に開かれるS支部の解放学級に参加したいと思うようになって一年かけて、祈り、準備をしました。 教会が創立以来毎週火曜日に守ってきた聖書研究祈祷会を、火曜日から水曜日に変更することを教会総会で承認してもらい、被差別部落の中で開かれる解放学級に公然と参加できるようになったのです。

    はじめて、被差別部落の集会に参加した日、その日は、ちょうど水平社創立記念日でした。被差別部落のおじさん・おばさんに大歓迎されました。 「はじめて部落に入ってきた牧師さんや」いうて。 そのとき、私が被差別部落の人々に対していたいた印象はこういう印象でした。 ふつう、部落差別の話をすると、そこに集まってきた人々の間に、どこか重苦しい空気が流れ、話が暗くなり、その場を逃げ出したい憂鬱と焦燥にかられるのに、この被差別部落の人々のあかるさはいったい何なのか。 差別する側は、暗い顔をしてひとごとのように部落について話をするけれど、被差別部落の人々は、差別されても、誇りと希望をもって胸をはって、差別と闘い、それをはねかえそうとしている・・・。 差別の側のまっくらな闇と被差別の側の真珠のような明るさを比較しながら、部落解放とはなになのか、部落解放同盟S支部の解放学級にキラキラ光る、人間としての真実な生き方を思い起こしながら、部落差別はなになのか・・・、毎日、毎日、考えるようになりました。

    「差別意識をかかえながら、差別しない人間になりたいと思っている」という私の言葉に対して、S支部の書記長をされている方が、「差別を前にして、わたしたちに糾弾する資格があるか・・・と問われたら、わたしたちにもその資格はない。わたしたち部落のものも、この差別的な日本の社会の中では、差別意識を持たされ、部落差別以外の差別においては、差別者となっていることを否定することはできない。 しかし、そう自覚している分、わたしたちは差別者ではない。 差別をしたときおに、差別をしているよといってくれる人がいたら、自分の差別性を自覚できる。 お互いにそうすることができるような関係をつくっていきたい・・・」。 水平社創立記念の日に、S支部の書記長さんは、部落の人はもちろん、学校の教師や宗教者を前に、このような発言をされました。

    神奈川教区が、どんなに私に問いかけても、見出すことができなかった、部落差別とかかわるときの姿勢が、部落解放同盟S支部の書記長さんのひとことで、つきくずされ、被差別部落の人々の部落解放運動をするときの希望と喜び、その闘いが何であるのかを知ることができたのです。 「自分の差別意識を自覚しつつ、差別しない人間になっていく・・・」。 いまの私に言えることは、部落差別に関わるときの、もっとも柔軟な姿勢は、この第四の
差別意識を自覚しつつ、差別行為をしない立場ではないかと思います。

    ここでいうところの差別意識は、同対審答申がいうところの「心理的差別」であって、人間の精神的内面に限定された差別<意識>だけを意味しているのではありません。答申にも明言されているように、「心理的差別」は、社会的差別<意識>としても存在しているのです。 個人的差別<意識>と社会的差別<意識>をあわせもつ概念が「心理的差別(差別意識)なのです。

    しかし、私たちが、二元論的な思考方法に埋没しますと、「心理的差別」は、かぎりなく個人の精神的内面へと押しやられ、差別発言や差別行為をした人の、個人的な差別<意識>の問題、その人の感性の問題として、個人の差別性の問題に還元されてしまうのです。

    そのような場面では、多くの人は、現実に生じた差別事象を、自分とは関係がない、差別発言をした人の個的問題であると・・・、第三者的に傍観者的に見てしまいます。 そのような雰囲気と理解の中では、私たちが、本当の意味で、部落差別に取り組み、イエス・キリストの解放の福音に生きることができるのでしょうか。

    差別事象があるとき、なぜ、それをとりあげなければならないのでしょうか。 差別発言に対して、また差別行為に対して、なぜ、その差別性が指摘されなければならないのでしょう。 被差別部落の人をことさら差別うするつもりはないのに、差別発言や差別行為に及んでしまう。 「わたしは差別意識をもっていない。 たまたま偶然に、無自覚的に失言したにすぎない」と弁明する前に、自分の内在する<差別意識>がなになのか、なにが問題にされているのか、考えてみたらよいと思います。 自分ではのぞみもしない差別意識が、自分の中にどっしりと根を張っているのを自覚することができるようになります。 差別的な日本の社会と文化の中で、わたしたちが知らず知らず身に着けてきた<社会的>差別意識です。 <社会的>差別意識は、天皇制と同じく、わたしたちの精神構造の無意識層に深く刻みこまれたものです。 わたしたちが、天皇制をはじめとする日本の社会や文化の負の遺産から完全に自由になっていない限り、どのような人の中にも、部落差別は、<社会的>差別意識として存在しているのです。 この<社会的>差別意識と自覚的に、意識的に闘い、それを克服しようとしないかぎり、それは、ますます私たちの心の奥深くに潜在して、わたしたちの<個人的>差別意識としてしか姿をあらわさなくなるのです。

    差別事件の解決は、差別をした個人の差別意識だけでなく、そのひとが所属している共同体の、そのひとが教区や教会に所属しているというなら、教区や教会に共通して保有されている<社会的>差別意識として問題にされ、問題の共有化が模索されなければ、差別事件の問題解決はできないのです。

    西中国教区に、部落差別問題特別委員会が設置されてから、十数年の歳月が流れました。 その間、実にさまざまな差別事象が発生しました。 しかし、その差別事象の多くは、<個人的>差別意識に根ざすものと理解され、それが<社会的>差別意識として全教区的に認識されるということは、ほとんどありませんでした。 牧師や信徒の差別発言が、教区や教会内に内在する<社会的>差別意識のあらわれとして受けとめられ、教区や教会に所属するひとりひとりが、その差別意識が問われる・・・、ということがありませんでした。

    「なぜ、被差別部落出身であることを名のり、強調するのか。 黙っていればわからないのに・・・」という発言も、「部落差別は目に見えない。 黙っていればわからない・・・」という発言も、「部落出身だとわかっても触れないようにしよう」という発言も、<個人的>差別意識というよりは、<社会的>差別意識であるといったほうがよいでしょう。 差別的現実を、個人的にとらえるのではなく、全共同体的にとらえなければ、この問題を解決することはにはつながらないのです。

第2章第4節第3項 差別意識を持たず、差別行為もしていないと主張する場合

    第2章 差別意識を克服するために
    第4節 差別意識とはなにか
    第3項 差別意識を持たず、差別行為もしていないと主張する場合

    差別<意識>と差別<行為>が分離されて認識される場面では、「わたしたちは、差別<意識>を持っていない。 差別<行為>もしていない。 しかし、差別をする人は許せない・・・」という主張が起こります。

    14~5年前、神学校を出てすぐ、神奈川教区のある教会に赴任したとき、神奈川教区の常置委員会や教区総会で、「なぜ、牧師になるのか」「どのような宣教活動をするのか」・・・、いろいろな問いが私に投げかけられました。

    「部落差別問題とどう取り組むのか」という問いの前で、私は、どう答えたらよいのか、思い悩んだことがあります。 その当時、私は先輩、牧師から投げかけられる問いに対して、どのような立場からの問いであったとしても、それが問題提起者の側からでも、福音主義教会連合の側からでも、できるかぎり誠実に答えようと努力していました。 しかし、次から次へと投げかけられる問いに、十分に答えることはできませんでした。 問われて、答えることができないもどかしさ・・・、そのときのいらだちを思い出すと、いまでも悔しさがよみがえってきます。

    「部落差別問題にどう取り組むのか」。 その問いに対して、呻吟わたしが、しながら出した答えはこのうような言葉でした。 「自分の内なる差別性を見直しながら、差別問題とも関わっていきます・・・」。 そのとき、先輩の牧師たちから投げかけられた言葉は、それ以上どう答えていいのか、わからない言葉でした。 「私たちは、被差別部落に対して、差別意識を持っていない。 しかし、あなたは、自分の内に差別意識があることを認めるという。 そんなことで、今日の、部落解放という教団や教区の課題を担うことができるのか」。 私は、その時、日本基督教団神奈川教区の牧師たちは、部落差別に限らずすべての差別に対して「差別意識を持たない」、「差別行為をしない」ことを自負している集団であると思わされたのです。

    彼らは、このようにも問うてきました。 「あなたは、農村伝道神学校を出た。 それなのに、なぜ、都会の、しかも高級住宅街の教会に赴任してきたのか」。 部落差別等の差別性から自由になっていると豪語する先輩牧師たちが、学歴差別、出身神学校差別(学閥)に無自覚、無頓着に、農村伝道神学校の卒業生はそれにふさわしいところに赴任すればよい・・・と、ひとのこころを完膚なきまでに批判し、うちのめしたのです。 私は、神奈川教区の差別的な<現実>に敗れ、神奈川教区を去ることにしました。 学歴差別・神学校差別を克服することができなかった、結果でもありました(あとで、神奈川教区のある牧師から、「あなたが、なぜ、教区や教会を去らなければならなかったのか、いろいろなひとに聞いたところ、あなたの<育ちが悪かった><高学歴・高資格を持っていないただの牧師>ということが大きな理由を占めていました・・・」との電話をいただきました。

    「わたしの人生の中で、聖書にしるされたイエス・キリストに出会い信じることができるようになったのは、最大の喜びである。しかし、差別的な日本の教会で信仰生活をしなければならないのは、最大の不幸である」と、痛みの走る右手で、聖書の1ページに走り書きしたのもそのころのことです。

    次の西中国教区で、今度は、部落差別問題特別委員会の委員を<させられ>、私に、部落差別問題との取り組みが強制されたのです。 なぜなのでしょう? 西中国教区において、部落差別問題について10数年かかわってきた背景には、神奈川教区で、「問われて答えることができなかった」・・・、そんなくやしさをやぶれを自覚して、避けてとおることができない問題であると認識していたことも要因としてあげられます。 部落差別とかかわりながら、学歴差別や<出身>神学校差別(学閥)のことを考えて、それを克服する道を模索していきました。 いまだに克服できたとはいえません。 私が変っても、そのような教団や教区、牧師や信徒の体質はなにも変わっていませんから・・・。

     

2023年8月25日金曜日

第2章第4節第2項 差別意識を自覚することなく、差別行為にのぞむ場合

    第2章 差別意識を克服するために
    第4節 差別意識とはなにか
    第2項 差別意識を自覚することなく、差別行為にのぞむ場合

    この範疇には、差別意識を自覚していない人々だけでなく、自分のうちに差別意識があることを認識しようとしない人々も含めることにしましょう。

    大半の差別事象を引き起こした人は、自己弁明のうちにこのような論理を展開します。 自分の差別<意識>と差別<行為>を切り離して、差別<意識>を持っていないにもかかわらず、そのときの状況と雰囲気で、偶然無自覚的、に差別発言してしまった・・・と主張します。

    差別発言であると指摘を受けた人のなかには、<意識>と<行為>の二元論的枠組みを利用して、「差別<意識>をもっていないわたしのちょっとした失言をとらえて、差別発言だと糾弾された・・・」と、その指摘の不当性を主張する人もいます。

    西中国教区の部落差別問題特別委員会で、『部落解放西中国』を発行しようと企画ことがあります。準備号を2回出したのですが、あまり好評ではありませんでした。 準備号で、他者の差別発言ではなく、西中国教区の内部に向けた、『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章の見直しを主張した文章等を掲載したことも、その要因でした。「西中国教区は、教団にさきがけて、部落差別問題と取り組んできた。 教団にはたらきかけ、今日の教団の部落解放運動のさきがけとなった。 それなのに、教区の中に、こんな差別文章があると背後から指摘するのは、西中国教区の先輩たちが築き上げてきた功績を切り崩す、著しく反教区的な行為である・・・」、こんな批判も受けることになりました。

    紆余曲折を経ながら、部落差別問題特別委員会で、『部落解放西中国』を委員会の正式機関紙として発行することが決まったとき、その巻頭言を書いた、当時の委員長の文章にこのような言葉が含まれていました。 「舌足らずの文章ですが・・・」。 この表現の中に、障害者に対する差別用語が含まれていました。

    この言葉、当時の委員長が、不承不承、『部落解放西中国』を容認せあるをえなかった経緯を暗示していますが、「舌足らず」という言葉は、「舌のまわりが悪く、発音の不明瞭なこと」「言葉の表現が不自由なこと」「言い方の幼稚なこと」を意味します (広辞苑)。

    「舌足らず」という言葉は、言語障害をさす言葉です。 しかも日本の社会の中では、極めて差別的に用いられ、差別語としての垢にすっかりそまってしまった言葉のひとつです。 それを文章表現のまずさをあらわすのに、負の価値づけを行なってこの言葉を用いたことは、やはり、差別表現であるといわざるを得ません。 委員会で、そのことを問題にすると、当時の委員長は、「だれでも、うっかり差別語を使うよ」とひとこと弁明しただけでした。 差別意識は持っていないけれども、ついうっかり差別語を用いたにすぎない・・・。

    しかし、西中国教区の部落差別問題特別委員会は、委員会で、教団出版局や部落解放センターが、また新聞社等が掲載した差別文章について、指摘と告発を続けていたのです。 いつのまにか、教区の外部に対しては、差別発言が、差別意識に根差したものであることを徹底的に糾弾し、しかし、教区の内部に対しては、内なる差別に対しては、差別意識のないものがおかした単なるあやまち、とりあげるにたらない失言にすぎない・・・と、外剛内柔の分裂して精神構造をつくりあげていました。 やがて、いつか、『部落解放西中国』は、「反差別を叫んでも、足元からくずれるというような危機感」から、乗り越えるすべもなく、部落差別問題特別委員会の委員会報正式発行の気運は消え失せてしまいました。

    西中国教区の山口某分区の、1994年度の信徒大会で、東岡牧師を講師に招いて、部落差別問題の研修会が開催されました。

    そのとき、ひとつの分団で、西中国教区の常置委員をされたことがあるMさんが、被差別部落の人を指して、「特殊部落」という言葉を用いました。 Mさんは、被差別部落の中の施設で長年に渡って働いてこられた方ですが、それなのに、「特殊部落の人を一人も教会にさそうことができなかった・・・」と言われたのです。

    その場で、<特殊部落>という語が、差別語であることを指摘しました。 Mさんは、「<特殊部落>という言い方は、差別語なんですか。 知りませんでした。 部落の人を指していつもこの言葉を使っていたのですが、特殊部落の方から一度もそういう指摘を受けたことはありませんでした・・・」と言われました。 「さそったけれども誰一人教会にこなかった・・・」。 Mさんの話しに<さもありなん>と思わされました。 <特殊部落>という、水平社宣言の時にも、差別語であると指摘されている、被差別部落の人々に向けられた典型的な差別呼称を、たとえ無自覚であったとしても、使ってはばからないMさんを、被差別部落の人々がどのように受け止めていたのか・・・想像に難くありません。 公務員や学校の教師等、自ら解放運動の熱意にほだされて参加したのではなく、職務上、部落差別問題にかかわらざるをえなかった人々は、被差別部落の人々と、本当の、人間と人間との出会いを経験することなく、このような状態に陥ってしまうのです。

    教区の教育セミナーで、自分の教え子に、「どもり」、「どもり・・・」と差別語で呼び捨てるクリスチャン教師に、差別だと指摘したとき、その教師は、「どもりと呼び捨てにしても、そのこどもは私になついてくれた。 それなのに、あなたが、なんの文句をいうのか・・・」という意味の反論をされました。

    Mさんの話には、差別的な内容は含まれていませんでした。 それは、その教師とMさんが大きく違うところですが、ただ被差別にある人々に対して、その教師やMさんが、<力>(権力)を持った立場にあるという点では共通しています。 「部落でないのに、あんなに一生懸命部落のために働いてくださるのだから・・・」、「少々言葉は悪いけれど、親身になってくれるから・・・」という被差別部落の人々の配慮が、かえって、その人の差別意識を助長することもあるのです。 長い、長い・・、西中国教区の部落差別問題との取り組みの中で、<特殊部落>といいう言葉を使っても一度も指摘されたことがない、「それでも糾弾、されるというなら、されてもいいですよ」、Mさんの私に対する居直りのことばでした。



第2章第4節第1項 差別意識を自覚しつつ、差別行為にのぞむ場合

    第2章 差別意識を克服するために
    第4節 差別意識とはなにか
    第1項 差別意識を自覚しつつ、差別行為にのぞむ場合

    典型的な差別発言・差別行為がこれにあたります。 最も典型的なものが、山口県のH教会でおきた、「あいつらはこれだ」と言って、当時の西中国教区部落差別問題特別委員会の委員長の目の前に四本指を突き出した事件でしょう。 差別行為にのぞんだ人は、H教会の信徒であったそうですが、その人は、「四本指」をつきだすことが、被差別部落の人々に対する敵意と憎しみ、侮蔑の差別的行為であることを自覚しつつ、「あいつらはこれだ」と差別行為にのぞんだのです。

    当時の委員長は、差別行為を前にしても、「いまどき、教会の中にこんな差別が・・・」と驚きの思いをもったけれども、「その行為で、誰も傷つくことはない」との認識から、なにの指摘もしなかったのです。

    「あいつらはこれだ」と差別された人々は<爆弾三勇士>の名で知られています。 <爆弾三勇士>の話は、戦前、日本の民衆を戦場へと駆り立てるために、国家が仕組んだ神話です。 <三勇士>の一人は被差別部落出身者であったと言われていますが、被差別部落の人に強制された死が利用されつつ、「部落民でさへ、天皇のために、国のために命をささげた。 まして、おまえらは・・・」というかたちで、日本の民衆は戦場へと
駆り立てられていったのです。 最初、<爆弾三勇士>の一人が被差別部落出身であると言われていたものが、差別の拡大再生産の中で、さらにもうひとりが部落民に数えられ、山口県のH教会の信徒においては、「あいつらは」という言葉にみられるように、<爆弾三勇士>全員が部落民とされているのです。 部落差別を押し返すのではなく、部落差別が拡大再生産されているのです。 当時の西中国教区部落問題特別委員会の委員長は、H教会の信徒が、「<あいつらはこれだ>と四本指を出しても、爆弾三勇士は過去の人物なので、誰も傷つかない・・・」と弁明されたのですが、誰も傷つかなければ、差別発言も差別行為も問われないで済むのでしょうか・

    『天皇陛下万歳・爆弾三勇士序説』(上野英信)のプロローグに、著者が<爆弾三勇士>の一人の妹にあたる小学校教師にあてて書いた手紙が掲載されています。 

    「あなたは、終始、兄のことについてはいっさいふれてほしくない、書いてほしくない、いまはただそっとしてほしい、と主張続けてこられました。 それっは決してあなた一人の要求ではありません。 言葉にこそされませんが、恐らく三勇士の遺族全員のもっとも切実な心情そのものでありましょう。遺族のみなさんと会うたびに、私は痛いほどそのことを感じ、顔を見るのもつらい思いに沈むばかりでした。 見てはならない人の姿を見るおもいとでも申せましょうか。 生きながら殉死を強いられた人のおもかげのみ濃密でした。 そっとしてほしいというお言葉は、いまの私には、限りなく深い地底から聞こえてくるような気がしてなりません。・・・あなたのお兄さんを通して、あなたがたが三勇士の遺族であることによってどれほど深い傷を負わされているか、現になお負わされつつあるか、私はいやというほど思い知らされました」と。

    軍国主義によって押し付けられた恐るべき幻影に、部落差別というもうひとつの幻影を押し付けられた<爆弾三勇士>に対する、国家や民衆がつくりあげてきた差別意識が、すでに世を去った<爆弾三勇士>だけでなく、その遺族にも及び、言葉にならない、堪えがたいい苦痛と悲しみを与えているという事実を考慮するとき、「その行為で、誰も傷つくことはない」という認識は、決して正当なものではありません。

    それが、たとえ、すでにこの世を去った、過去の歴史上の人物であったとしても、その人に対する差別を許すことで、あとに残された遺族の上に、さらに差別にみちた眼差しが向けられることを考えると、決して、許されることではないのです。

    江戸時代に被差別に置かれた人々は、この山口県の長州藩の資料をみただけでも、江戸時代300年間に渡って、その歴史の資料の中に、また明治維新後百数十年たった今日も記録され続けている事実を考えても、過去の人物に対してなされた差別発言は、それにとどまらず、被差別に生きる今日の人々の上にも、深い影を落とすのです。

    差別意識を自覚しつつ、差別行為にのぞむ場合は、H教会の事例にとどまりません。  西中国教区の山口某分区の信徒大会で、講師のCさんは、「特殊な地域には、アル中が多くて。 ああ、これは差別発言でしたね。」と発言されました。 Cさんは、「特殊な地域」という言葉が、被差別部落をさすことを十分知っていたにもかかわらず、あえて言葉に出して、「アル中が多くて・・・」と聞いている人々に差別意識を植え付けたのです。

    同じ集会で、講師のCさんは、広島の女子畑の話をされました。 「女子畑(おなごばた)の人々は、皆、字が読めなくて、好畑(すきはた)という地名を、女と子をわけて、女子畑と呼んだのがはじまり・・・」と説明されました。 聞いている人は、みな笑っていましたが、広島の女子畑は、戦国時代の昔からずっと<おなごばた>であって、一度も<すきはた>であったためしはありません。 Cさんは、自分の話を聞いている人々の中に女子畑の出身者はいない、そういう前提で、差別的なつくり話をして、聴衆の関心を集めているのです。

    山口県S市で開かれた社会同和教育で、講師が、偏見というものがなにであるのか、その具体的な例として、会津若松の話をされたことがあります。 「人権教育がすすんで現代でも、偏見は根強く残っています。 たとえば、ある人が会津若松に行ったとき、寒い冬の朝なのに雨戸をガラガラとあけるのです。一軒がガラガラあけると、「うちもあけなければ」と世間体が悪いから、とのうちもガラガラご雨戸をあけるのです。 会津若松では、朝、いっせいにガラガラと雨戸をあける音がします・・・」。 聞いていた人は、優越感に包まれたようにドッと笑い出しました。

    質疑応答のときに、「なぜ、そのような発言をしたのか」聞きました。 「同和教育は、部落差別だけでなく、いかなる差別もなくしようという運動ではないのか。 私たちの内なる偏見をとりあげるならともかく、私たちの住んでいるところから離れた遠くに住んでいる人、差別されても反論できない、会津若松の人々を差別的にとりあげるのは問題ではないか」と問いかけました。 講師は、「すみませんでした。 この研修会に、会津の関係者が出席されているとは知りませんでした。 今後は注意します。」と答えました。 その講師は、ほかの講師がこのたとえを使って参加者の緊張をやわらげているのを知って、これはいいと、二番煎じで用いたようです。 この例も、差別意識であることを自覚しつつ、当事者がそこにいないという前提で、差別行為にのぞむ場合であると言えましょう。

    最近、ある牧師と、『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章について話をしていましたら、なにを勘違いしたのか、「被差別部落の人が、歴史的にいろいろな呼称で呼ばれたのと同じように、障害者もいろいろな呼び方をされてきた経緯がある。」と前置きしてこのように私に問いかけるのです。

    「あなただけが、差別の歴史について知っているのではなく、私も障害者差別の歴史については、あなた以上に知っています・・・」そんな語調でこのように言われたのです。

    ある牧師: 「父親と母親と国籍が違った場合、昔、どう呼ばれたか知っていますか?
    筆者:「いいえ・・・(なにを聞きたいの?)」
    ある牧師: 最初は、<混血児>と<間の子>と呼ばれていた。 それが、やがて、ハーフと呼ばれるようになった。 それもおかしいと言われ、今は、どう呼ばれているか、知ってる? 知らない? ダブルと言われている!」

    彼は、「混血児」と言おうが、「間の子」と言おうが、「ハーフ」と言おうが、「ダブル」と言おうが、言葉を変えて表現しても実態は変わらない、差別語狩りをするのは間違いである、と主張されているのですが、部落差別の話をしているときに、なぜ、二重国籍の人々に対する差別用語ないし差別用語の言い換えの羅列をしなければならないのか、理解に苦しむところです。 これも二重国籍の人々に対する差別用語がなんであるのかを知っているにもかかわらず、彼の話を聞いている私が二重国籍ではないとの前提で、彼の差別的な表現が展開されているのです。 もし私が二重国籍であったとしたら、彼は、そのような会話をしたのでしょうか。 おそらく、二重国籍については、ひとこともふれなかったのではないでしょうか。 ひとごと、他人ごととして聞かされる差別語は、時としてひとのこころをぐっさり突き刺してしまいます。

    教区の中には、分区の中には、教会の中には、被差別部落出身者はいない、という前提で語られる差別に関するさまざまな会話が、どれほど被差別部落出身の人々の心を傷つけることになるか・・・。

    差別意識を自覚しつつ、差別行為にのぞむ事例は、多くの場合、差別問題についてある程度知識を持っているか、なんらかの形で差別問題とかかわりを持っている人々によって引き起こされます。 知的に、巧妙に・・・。

    発言の自由は大切です。 部落差別について話し合うときにも、自由に話し合って、被差別者と差別者が真剣に議論していくということはとても大切なころがらです。 しかし、「研修の場であるから・・・」、「協議の場であるから・・・」、そこでなされた差別発言がなにも問われないということではありません。 本当に、発言の自由が大切にされるところでは、発言しようとしても発言できない人々の、少数者の声なき声にも留意する必要があるでしょうし、それ以上に、発言の自由ということばのもとで語った自分のことばを、一言一句、自分の責任で裏打ちすることが必
要なのではないでしょうか。 無責任に、被差別にあるものを傷つける、そのような言葉を濫用していいというわけではありません。 もし、そうしたのなら、「自由な発言」ということで、差別発言をするようなことがあったとしたら、その責めはその発言をした本人にかかっているということでしょう。

第2章第4節 差別意識とはなにか

    第2章 差別意識を克服するために
    第4節 差別意識とはなにか

    ところで、<差別意識>とはなになのでしょうか。

    『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章にこのような表現があります。 「この問題(部落差別問題)を・・・意識の問題とだけ考えてる人たちがいますが、現象的には一理あるとしても・・・ 」と、この文章の著者は、部落差別は、差別者の<差別意識
>に根差して発生するという認識に限定的であってもそれなりの理由があることを容認しているのですが、それでは、<差別意識>とはなになのか、なにの説明もありません。

    西中国教区やその教会にとって、より大切なのは、また、教区の部落差別問題特別委員会の避けることのできない課題は、被差別部落の実態的差別(政治的・社会的・経緯剤的差別)の撤廃を訴えるだけでなく、教区や教会の内部にある、差別意識の克服ではないでしょうか。

    差別事象(差別発言・差別行為)があったとき、多くの場合、差別した人々から。「私には、差別意識はなかった。 無自覚的に、無意識的に、偶然、差別発言をしてしまった。 私のひとことが、被差別部落の人を気づ付けるとは気がつかなかった・・・」という弁明を聞きます。 そのとき、使われている「差別意識」という言葉は、私たち人間のこころの内側の自覚を指して用いられています。 差別意識は、<差別意識>としてではなく差別<意識>として理解されているのです。

    同対審答申では、差別意識は、<心理的差別>という言葉で表現されています。 「心理的差別とは、人々の観念や意識のうちに潜在する差別であるが、それは言語や文字や行為を媒介として顕在化する。 たとえば、封建的身分の賤称をあらわして侮辱する差別、非合理的な偏見や嫌悪の感情によって交際を拒み、婚約を破棄するなどの行為にあらわれる差別である」と。 答申では、差別意識は、差別<意識>と差別<行為>の両方の概念を含む広義の意味で用いられています。 これは、差別<意識>が、差別<行為>と深く結びついているとの客観的認識に基づきます。 「封建的身分の賤称をあらわして侮辱する」差別発言も、「
非合理的な偏見や嫌悪の感情によって交際を拒み、婚約を破棄するなどの」差別行為も、心理的差別として認識されているのです。 答申には、意識と行為を二元論的に分離させるような認識はありません。

    しかし、過去、西中国教区や分区、教会でおきた差別事象を検討してみますと、「差別であると指摘されたとき、そう指摘された人々は、多くの場合、この二元論的な枠の中に自分を逃避させ、自己の差別性をあいまにしてしまいます。

    旧約聖書の中に、アダムとイヴが神の戒めを破ったとき、二つの木の間に身を隠そうとする場面が出てきますが、差別事象を他の人から指摘された人は、まず、差別<意識>と差別<行為>の間に亀裂があること、そしてその亀裂の中に自分の差別性を隠そうとします。

    西中国教区の部落差別問題特別委員会の委員として、部落差別に関わるようになって、私は、この意識と行為との間に横たわるギャップを一歩踏み込んで理解するようになりました。 観念的な分類ではなく、様々な事象を前にして自然にそのような認識を持つにいたった・・・といった方が適切でしょう。

    差別<意識>と差別<行為>をめぐって、4通りの見解があります。 <差別>の側に自分の身を置くものとして、誰でも、4通りの認識を持つ可能性があるのです。

    (1) 差別意識を自覚しつつ、差別行為にのぞむ
    (2) 差別意識を自覚することなく、差別行為にのぞむ
    (3) 差別意識を持たず、差別行為もしていないと主張する
    (4) 差別意識を自覚しつつ、差別行為をしない

それぞれの場合です。 観念的・抽象的な分類に堕することがないよう、上の4通りの場合について、ここ10数年の間に生じた西中国教区の教会内外の差別事象を例にとりながら論を進めていきます。


2023年8月24日木曜日

第2章第3節 繰り返される差別発言

    第2章 差別意識を克服するために
    第3節 繰り返される差別発言

    M委員の差別発言は、さらに深刻な問題を含んでいます。

    それは、M委員が、「障害者差別は目に見える」「部落差別は目に見えない」という二つの命題から引きずり出した結論、『(部落出身であることは)黙っていればわからない・・・ 」という表現に内在しています。

    1992年、日本基督教団部落解放センターは、創立10周年を記念して、北海教区から沖縄教区まで、全国の教区を部落解放の推進のために全国キャラバンを行いました。

    西中国教区では、広島キリスト教社会館をはじめ、広島・山口・島根の三か所で集会がもたれました。 山口の集会でK牧師の、「なぜ、被差別部落出身であることを名のり、強調するのか。 黙っていればいいのに。 いまさら、ことさら部落出身を名のることはないのに・・・
」という発言が、全国キャラバンに参加していた被差別部落出身の牧師に投げかけられました。

    そのとき、彼らがどのようにそのことばを受けとめたのか、全国キャラバンの総括ともいうべき、『部落解放一万二◯◯◯キロの旅・走れキャラバン』という本に報告されています。 その中で、「この発言は<部落出身を誇りにするな、部落出身ははずかしいことであり、隠して生きていきなさい>ということを主張していることになる」という指摘がなされています。

    「この考えは島崎藤村著『破戒』の主人公瀬川丑松の生き方である。 丑松は部落出身を「恥」と考え、隠して生き、最後に教え子の前で手をついて頭をさげ、部落出身を告白し、そしてアメリカへ逃げて行く。 そこまで逃げて行けば差別されない、という。』だから、部落の者は丑松のように逃げさえすれば差別されないで生きて行ける、ということを言っている。 言葉を変えて言うならば、部落の者は差別から逃避し、差別に立ち向かうことをやめて生きていきなさいと奨励していることになる・・・。 「ことさら部落出身を名のることはないのに」という発言は、部落差別をなくそう、部落を解放しようと頑張って運動をしている部落大衆にとって許すことのできない発言である。」

    被差別の側からの怒りが伝わって来るような文章です。 さりげなく語られたひとことが、被差別にあるものに、どれだけ深刻な衝撃をあたえ、そのこころを深く傷つけたか、被差別の側が感じざるを得なかった悲しみや怒りがこの文章にはみなぎっています。

    キャラバン隊のT牧師が、そのあと、山口県のO教会で話されたことがありますが、その集会で、島崎藤村の差別性について、このような話をされていました。 島崎藤村が丑松のモデルにした学校の教師は、小説『破戒』の主人公・丑松と違って、部落から、部落差別から決して逃げなかった。 事実はまったく逆に、部落に生き、部落出身教師として、最後まで差別と闘い、部落民としての誇りに生きて行ったのだと。 しかし、島崎藤村にとっては、そのような部落民を受け入れることはできなかった。 島崎藤村にとっては、部落民は、部落から、部落差別から逃避する人間であってほしかった・・・。 現実の部落出身教師をモデルにしながら、現実の部落民とはまったく違う、丑松を、教え子の前で土下座させ、そこから逃避させた・・・のは、島崎藤村の<差別性>のあらわれだと。

    K牧師が、「ことさら部落出身を名のることはないのに」と発言したこと、それが被差別の側から、差別発言であると使役されたこと・・・、それは、
K牧師一人のものではありませんでした。 もし、その発言がK牧師の個人的経験や資質によるものだとしたら、同じような発言は二度と西中国教区の牧師のくちから語られるというようなことはなかったでしょう。 しかし、K牧師の発言と、内容的にまったく同じ発言が、西中国教区の宣教研究会発行の文章の中に差別性について検証と問題解決にあたっている、当の宣教研究会委員の一人A牧師によってなされるということは、そのような差別意識が、私たちの中に、単に個人的な差別意識としてだけでなく、社会的な差別意識として潜在化・普遍化しているためではないでしょうか。


    西中国教区の中では、K牧師の発言は、それ以降話題にあれるということはありませんでした。 M牧師の発言も、西中国教区の教会や、牧師・信徒の中で発生している、決して少なくない差別事象 (差別発言や差別行為) と同じく、どぶ川に浮かぶあぶくのように、いつしか消えて行ってしまうのでしょうか。 「認識不足である」「差別発言である」との指摘のむなしさのみを残して・・・。

    しかし、K牧師やM牧師の<差別発言>は、決して彼らの個人的差別意識に還元できるものではありません。このような発言は、彼ら以前にも存在していたし、西中国教区や教会、牧師や信徒が、明確に、このような発言が<差別発言>であることを認識して、自分たちの主体をかけて、内側から意識的に取り除く作業をしない限り、これからも、教区や教会で発言され続けることになるでしょう。

    K牧師の発言が、個人的な<差別意識>ではなく、社会的な<差別意識>として認識され、その発言に対する被差別の側からの問題提起が、もっと真剣に教区・教会、牧師や信徒に受け止められ、自分たちの差別性を見直す機会になっていたら、おそらく、今回のようなM牧師のような発言が生じることはなかったでしょう。 「障害者差別は目に見える。 しかし、部落差別は目に見えない。 (部落出身であることは)黙っていればわからない・・・ 」というような差別的な発言が再生産されることはなかったでしょう。

    
『部落解放一万二◯◯◯キロの旅・走れキャラバン』に書かれている西中国教区に対する、被差別側からの批判んは、『丑松になれ」という差別思想に対する批判だけではありません。

    <次のような発言もあった。 教会で部落差別に取り組めば、教会から「取り組みをやめてほしい」とか、「ほどほどにしなさい」とか、注意されたり、警告を受けたりした」と。 この発言は教会で部落差別問題に取り組む時、最初に出てくる壁である。 なぜこのような発言が出てくるのか、またなぜ公開で部落差別問題に取り組んではならないのか。 理由は簡単である。 教会は長い間、部落差別から遠ざかり、問題にしてこなかった。部落の人が教会に来ることをいやがり、また部落に伝道することをさけてきた。 それだけでは飽き足らず、部落の人を教会から排除してきた。 同じキリスト・イエスのもとにいるといいながらも、信仰と現実とは違うのだという態度を取ってきた。 信仰は心の問題であり、信仰の領域に現実の問題が入ってくることを拒み続けてきた。 言葉をかえて言うならば、信仰の領域に現実のぞろぞろした問題を取り入れて欲しくなかったのである。 部落差別は信仰外の問題で、教会の中で取り扱う問題ではなかった。 むしろ、教会外の所で取り扱う問題であり、教会の中で持ち込むことはタブー視されてきた。 特に部落差別問題は教会の中に取り入れられることはなかった。 教会の中で差別事件が起こったとしても、そのことは教会の問題にはならなかった。 信仰があればこの問題は解決されるのだと考えた。 現実の問題から逃避し、自分の救いを完成させるために信仰生活はあるのだと考えた。 イエスが現実の問題を自分の生活のではないかに取入れ、その問題を担っていくことが、すなわち信仰の本質であると教えておられるのに、聞こうともしなかった・・・。>

    長い引用になりましたが、西中国教区とその諸教会・牧師と信徒に対する、福音的挑戦のようなこの文章の中で、「教会の中で差別事件が起こったとしても、そのことは教会の問題にはならなかった・・・」と指摘されていることは、私たちが、決して看過してはならないことがらでしょう。

    差別だと指摘されなかったことは、無意識のではないかで生き続けます。 問われなかった差別事象 (差別発言、差別行為)は、新たな差別事象の温床になります。 反差別の意識を明確に持たない限り、私たちは、差別の虜になってしまいます。 宣教研究会委員M牧師の「(部落出身であることは)黙っていればわからない・・・」という発言は、西中国教区の教会、牧師・信徒の差別的体質の<どぶ川のあぶく>のようなあらわれなのです、

    また、同じような<差別発言>が、K牧師とM牧師の発言した時期のちょうど中間時点でありました。

    西中国教区のY分区の役員研修会でのことでした。 T牧師は、教会にもう一度、青年を呼び戻すためには、教会や分区で結婚相談制度を導入してはどうか、という提案をされ、そのあとに、このような発言をされたのです。 「西中国教区は長い間、部落差別問題と取り組んできて、差別から自由になっているのだから、牧師も、教会に来ている青年が部落出身であるとたとえ知っていたとしても、それを伏せて紹介することに決めたらどうだろうか・・・」。

    Y分区は、70年問題以前は、教会にも青年の姿がかなり見られました。 そして分区間での教会で、結婚相談が行われ、各教会の青年の情報が分区の他の教会へと伝えられました。 結婚は、直接プライバシー、に触れることになるので、慎重にすすめられたと思うのですが、しかし、あるとき、その当時の結婚相談に関する資料を見たことがあります。 その名簿の中に、「在日」という注がありました。 分区や教会が、青年を相手に紹介するとき、「在日
」朝鮮人か韓国であるかないのか、紹介するかしないかの判断の材料にしていたことを示しています。 その名簿には「部落」という注はありませんでした。 A分区の某教会の役員の方にお聞きすると、「<部落>という注をつけなくても、誰が部落出身であるのか、それぞれの教会の担当者はみんな知っていた。 だらか、つける必要がなかった・・・」ということでした。 教区・分区には、「(部落出身であることは) 黙っていればわからない・・・」という声がある一方で「(部落出身者であることは) 名のらなくても知っている」という現実も存在しているのです。 Y分区の結婚相談の制度は、今は瓦解して存在していませんが、T牧師は、青年に対する伝道の手段として、それを復活しようと提案したのです。 「復活するにしても、分区や教会は、長い間部落差別問題と取り組んできたのだから、被差別部落に対してもはや差別意識をもっていないし、差別もしていない。 それらのことは<内緒>にしてものごとをすすめよう・・・」そのような提案をしたのです。

    T牧師の発言の内容は、矛盾に満ちたものでした。「部落差別から自由になっている・・・」それは何を意味するのでしょう。 西中国教区の部落差別問題特別委員会の委員を8年経験して、私が認識した、教区や分区、教会の現実は、非常に差別的なものでした。 部落差別から自由になっているどころか、部落差別にどっぷり浸かって、自覚的・無自覚的に差別意識に包まれた人々の姿でした。 T牧師も、「部落差別から自由になっている・・・」といいながら、「教会に来ている青年が部落出身であるとたとえ知っていたとしても、それを伏せて紹介することに決めたらどうだろうか・・・」ともいうのです。 T牧師にとっては、部落出身であることは、伏せなければならないことがらだったのです。隠しておかなければならないことがらだったのです。 「教会に来ている青年が部落出身であるとたとえ知っていたとしても、それを伏せて紹介することにきめよう」という提案は、被差別部落出身の青年に、教会の中では、被差別部落出身であることを語るな、たとえ語ったとしても、分区や教会では聞かなかったことにする・・・、それを分区や教会の方針にするということを意味しているのです。 「部落差別は目に見えない。 (部落出身であることは)黙っていればわからない・・・」という宣教研究会委員M牧師の考えを、教会形成の中で具体化していくと、やがては、T牧師の発言につながっていくのではないでしょうか。

    もちろん、被差別部落の青年の出身を、本人の意思を抜きにして、他の人に告げたりおおやけにするのは、ただそれだけで重大な差別発言・差別行為にあたります。 身元調査差別事件・結婚差別事件に発展します。 私が言いたいのは、教会が、ほんとうに「差別から自由になる」というのは、「部落差別に触れない」、「部落差別を見ても見ぬふりをする」、「部落出身であることを知っても、なにも知らなかったかのように交わることができる」・・・という状態を意味しているのではないということです。 教会が差別から自由になているということが本当なら、被差別部落出身の青年は、何も教会の中で、被差別部落出身であることを隠す必要も、また、牧師が、部落差別出身者であることを知っているのに、なにも知らないかのように振る舞う必要もないのです。 それどころか、被差別部落出身の青年が、イエス・キリストの福音に触れ、その福音理解とイエス・キリストに対する信仰と服従の故に自分の十字架を背負うて、部落民としての誇りと自覚を持って、部落民として部落解放のために、福音の前進のために、同じ信仰を持った部落出身でない青年と結婚する、そして二人で力を合わせて、教会とこの世に、差別なき社会をつくっていく、そのような希望に燃えて新しい人生の出発をする、そのような場合も起こりうると思うのです。 隠すのではなく、「人間性の原理にめざめ、人類最高の完成に向かうという目標
」に、若い二人が旅立つ・・・ということもあるのです。

    1992年の夏、日本基督教団京都教区の夏期研修会に参加した、神奈川教区の黒沢ミエコさんは、このように報告しています。

    「今夏、京都教区部落差別問題研修会に参加し、最終日に起こった劇的な出来ごとを報告したい。 それは、若い男女が、これから九州の女性の親元に行くというのだ。 彼は部落出身の人、彼女の親はそれを聞いてから、真っ向から結婚に反対し、彼には絶対に会おうとしない。 でもむすめが親に反抗して家を出ていくのは困る。 部落出身の人間とつきあっていたことがバレルから・・・」と。 そこで、研修会最後の朝、その若い二人はこれから親に会い、話し、理解してもらうために<のりこんでいく(まさにその通りなのだ
)と。 我々は万雷の拍手を送った。 彼女は泣いていた。 「がんばれよ!」、「勇気を出せ!」の声をあとに二人は出て行った。 皆さん、これが、1992年の8月18日(の京都教区夏期研修会の部落解放の)現実なのです。」(神奈川教区社会部通信第25号より

    T牧師の、
教会に来ている青年が部落出身であるとたとえ知っていたとしても、それを伏せて紹介する」という提案は、被差別部落の青年に無言のうちに、丑松であることを強要することであり、差別以外のなにものでもないと思うのです。

    第2回委員会で、「日本キリスト教団の部落解放運動の目的な何ですか・・・」という」質に対して、東岡牧師は、「被差別部落出身の青年が自由に結婚できるような教会とその時代をつくること」と答えられました。 その時、東岡牧師の脳裏にあった、被差別部落出身者の青年の結婚のイメージは何だったのでしょう。 島崎藤村の小説に出てくる丑松のような結婚ではなく、そのモデルとなった実在の部落出身教師の、部落であることの誇りと自覚を持って、差別と闘いながら生きるものの結婚ではなかったかと思います。 丑松を好きな志保がいたにもかかわらず、差別に負け、志保を捨て、ふるさとから離れていった丑松のそれではなかったと思うのです。

    私たちは、西中国教区の教会で牧会をしている、またしたことのあるK牧師・M牧師・T牧師・・・、かれらの発言は、同じ差別性で通底しているのです。 そしてその差別性は、部落差別に無関心で、拒否する、私たちの教区や分区、教会の中に、牧師や信徒の中に、深く、重く、通底しているのです。 そのような差別性、私たちにまとわりつく差別性から、私たちはどのようにして自由になることができるのでしょうか。

2023年8月23日水曜日

第2章第2節 あらたな差別発言

    第2章 差別意識を克服するために
    第2節 あらたな差別発言

    この夏期研修会での議論と決議を踏まえて、西中国教区常置委員会は、拡大宣教研究会を設置しました。 それは、宣教研究会の4名の委員と、教区の部落差別問題特別委員会の元委員長・現委員長等4名 (佐藤・陣内・東岡・吉田)を加えて、総勢8名で、『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章の検証と問題解決のための対策を討議するというものです。

    『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章のどこに<差別性>があるのか、協議していく過程で、宣教研究会の4名の委員の一人M委員から、「障害者差別は目に見える。 しかし、部落差別は目に見えない。 黙っていればわからない・・・」との発言がありました。 M委員の発言の直後に、M委員の発言は、認識不足であるとの指摘がありました。 それに対してM委員は、<なぜそのような発言をしたのか・・・>その理由を説明されましたが、M委員の説明は<どう受け止めていいのか・・・>聞いているものが必ずしも納得のいく説明ではありませんでした。

    第2回委員会のとき、教区部落差別問題特別委員会の委員長である東岡山治牧師から、M委員の前回で
「障害者差別は目に見える。 しかし、部落差別は目に見えない。 黙っていればわからない・・・」という発言は差別発言であるとの指摘がありました。 M委員が遅刻されたこともあって、M委員の出席をまって東岡山治牧師から、M委員の前回での発言内容の確認がなされました。 その際、M委員から、前回同様、<なぜ、そのような発言をしたのか>弁明がありましたが、やはり、納得できる内容ではありませんでした。

    M委員の発言がなぜ<差別発言>であると指摘されるのか・・・、少しく考えてみたいと思います。

    M委員の
「障害者差別は目に見える。 しかし、部落差別は目に見えない。 黙っていればわからない・・・」との発言は、障害者差別と部落差別に関する二つの命題から、「(部落出身であることは)黙っていればわからない」という結論を導き出すものです。

    教区部落差別問題特別委員会委員・東岡山治牧師は、第2回委員会で配布された文書で、『洗礼を受けてから』の部落差別に関する文章に記された「差別の問題、たとえば冒頭の未解放部落差別をはじめとして、在日朝鮮人問題、原爆被爆者差別、沖縄問題等々・・・」という文章について、「ほかの差別と並列・列挙しているが、それぞれ固有の課題がある。 ひとつにしてしまうのは誤りである」と指摘されています。

    障害者差別と部落差別は、本質的に、ひとつの判断基準 (この場合、「見える」「見えない」という基準)で比較検証できるような内容ではないというのです。 障害者差別は、障害者差別として、障害者の置かれた現実に即して、差別・被差別が論じられなければならないし、部落差別についても、部落差別の歴史的・政治的起源と現在の部落の現状に即して、差別・被差別が論じられなければならないと思います。

    M委員は、強引に「見える」「見えない」という基準をあてはめることで、本来比較にならない二つの差別を強引に比較し、部落差別を相対化することで、「(部落出身であることは)黙っていればわからない」という間違った、差別的な結論を導き出しています。

    M委員の発言は、「(部落出身であることは)黙っていればわからない」という結論を主張するために、あえて、障害者差別に関する命題を持ち出し、部落差別と強引に比較しているように見えるのです。

    以前、解放同盟山口県連S支部の解放学級で、解放学級に参加していた人々 (被差別部落の人々・学校の教師・新聞記者・宗教家等) と障害者の方々の間で交流会が行われ、熱い議論がかわされたことがあります。 障害者差別と部落差別がつきあわされて、先鋭化したかたちで議論される場面もありました。

    そのとき、かって亀の里に入居されていたKさんも参加していました。 Kさんは、亀の里について、その当時書いた文章の中で、「ここ(亀の里) は自然が豊富だったので、毎日山の中に入ったり、山道を歩いたり花を植えたり動物を飼ったりしました。 ですから今でもそういうことが好きでやっています。」と語っていますが、「自分で自分のことがどれだけできるかが知りたくて・・・」、亀の里を出て、自分で生活を始められていました (『寒暖』弥生の九号)。 Kさんは、全国脳性マヒ者・青い芝の会の数人の仲間と一緒に、解放同盟S支部の解放学級に参加していたのですが、その時のKさんの姿は、亀の里におられたときより生き生きしているように思われました。 夜の国道2号線を自転車に乗って来られていたのです。

    そのとき、青い芝の会のメンバーの一人、Oさんが、口角泡を飛ばして、机をドンドンたたきながら、「障害者の身近にいるひとが障害者を差別する・・・」と激しく訴える場面がありました。 Oさんの話によると、障害者にとって、その<最大の差別者は母親だ>というのです。 障害者の母親は、多くの場合、障害を持ったこどもを生んだということで、罪責の思いを持って、悲しんだり嘆いたり、ときには、「生まれてこなければよかった・・・」と自分のこどもの前で後悔したりするというのです。 またこどもが成長し、養護学校に行く頃になると、障害児を持った親たちが、そのこどもたちを前にして、「おたくのこどもの障害は、どの程度なの・・・」と、自分たちのこどもの障害を比較しあうというのです。 そして、少しでも、他のこどもより自分のこどもの障害が軽いと、それでほっとする・・・。・ Oさんは、母親たちが、それぞれのこどもの障害の程度を比較して一喜一憂していいる姿を見て、障害を持ったこどもは、障害にも重い軽いがることを知り、やがて、障害者が障害者を差別するような意識を持っていくようになるというのです。

    養護学校に入ると、そこにはいろいろな障害を持ったこどもがいます。 その養護学校にも差別はある・・・」とOさんはいいます。 障害の程度の軽い、自分で歩くことができるこどもに差別され、くやしい思いを持った車椅子のこどもは、そのくやしさを、寝たきりで自分で動くことができないこどものところに行って、思い切り差別的な言葉をなげかける・・・というのです。どの障害が重くて、どの障害が軽いのか、障害の程度が比較され論じられるところで、常に障害者に対する差別意識が助長・再生産されているというのです。

    解放同盟山口県連S支部にAさんという女性がいます。 Aさんは、結婚してふたりのおこさんがいます。 障害者の方々と被差別部落の方々が先鋭化したかたちで、差別について議論されているとき、Aさんはこのように話されました。 「わたしは、女性で、障害者で、部落出身です。 わたしのどの差別が重たくて、どの差別が軽いのでしょうか・・・」。 Aさんは、被差別部落に生まれ、被差別部落に育ち、被差別部落に生活しています。 部落差別はこどもの頃から受けていたといいます。 そのAさんは、さらに女性であるが故の差別にも苦しまざるを得なかったといいます。 それにいくつもの障害・・・。 
「わたしは、女性で、障害者で、部落出身です。 わたしのどの差別が重たくて、どの差別が軽いのでしょうか・・・」というAさんのことばを聞いて、私は、部落差別・障害者差別・女性差別等、この世に存在するさまざまな差別を比較し、相対化することは間違いであることに気づかされたのです。

    <差別>は、人間の具体的な問題なのです。 どのような差別であれ、差別されることで人間が傷つき、苦しみ、悩むのです。 差別問題と取り組む人は、人間を人格全体として、人格総体としてとらえなければならないのです。 第三者的に、傍観者的に、あの差別、この差別と、いろいろな差別を比較し論ずることで差別そのものを相対化し、茶化して、揶揄してしまうことは、大きな過ちです。 障害者<差別>と部落<差別>を比較しても、<差別>問題を解決する道を模索することはできないのです。

    Aさんにはじめて会ったのは、はじめて、山口県S市の被差別部落を尋ねたときのことです。 部落解放同盟山口県連・S支部のある被差別部落の隣保館で開かれた「人間展」 (写真展)を見に行ったときのことでした。 普通の日であったため、来場者の姿はまばらで、受付にいたAさんと話をする機会がありました。 Aさんは、私が教会の牧師であると知って、Aさんのお姉さんがクリスチャンで東京の〇〇教会の熱心な教会員であること、ふるさとを出たまま、長い間ふるさとには帰って来ていないこと・・・等を話してくれました。

    そんなAさんとの忘れられない話があります。 それは、ある寒い冬の日、しかも冷たい小雨が降る夜、単車に乗ってS支部の書記長さんの住む被差別部落を尋ねたときのことです。 住宅の階段の下でAさんに出会いました。それで少しく立ち話をしたのですが、そのときAさんが、会話の中でこのような話をされました。 「私、吉田さんも右手の痛み、知っています。 吉田さんも関節手術を受けたのでしょう。」というのです。 私は神奈川教育にいたときに、右手の関節を患い、その手術を受けたことがあります。 それ以来、右手の握力がなくなり、少し使い過ぎると、くるまのエンジンが焼けついたように熱と痛みをもって動かなくなります。 Aさんには、そのことを話したことはなかったのですが、Aさんは、私の右手の痛みを知っているといわれるのです。 「なぜ・・・?」とお尋ねしたら、「私は、高校生のとき、同じ手術を受けたのですが、手術は失敗して、ほら、右手が不自由になってしまいました。 吉田さんは、手術、成功してよかったですね・・・」ということでした。 私の右手の痛みを見抜き、「
手術、成功してよかったですね・・・」と語るAさんの、言葉の響きに非常に暖かいものを感じました。 Aさんは、こころから、「よかったですね・・・」といってくれたのです。 しかし、私は、Aさんの右手が、私と同じ病気で今も後遺症に苦しんでいるという事実を見つめることはできなかったのです。 ときどき、差別問題を論じるとき、<感性>が問題になりますが、私の他者の痛みや苦しみをさとる、自分の<感性>の鈍さに赤面する思いでした。

     青い芝の会のKさんやOさん、また解放同盟山口県連S支部のAさんとの出会いによてって経験し考えさせられたことを踏まえると、宣教研究会のM委員が、障害者差別と部落差別を、「見える」「見えない」で強引に比較して、「 (部落出身であることは) 黙っていればわからない・・・」と結論づけたのは、いろいろな意味で間違いであると思うのです。

    東岡牧師が指摘されるように、障害者差別と部落差別とを並列・列挙、比較して、観念的な議論を展開するのではなく、障害者差別と部落差別もそれぞれ固有の現実と課題がること、それぞれの取り組みが遂行されていく中で、相互に補完しあいながら、「人間性の原理にめざめ、人類最高の完成に向かうという目標」ぬに向かって努力していくものである、そういう認識から、それぞれの<差別
>を考えていかなければならないのです。

    
「障害者差別は目に見える。 しかし、部落差別は目に見えない。 黙っていればわからない・・・」という発言をもう少し検証してみましょう。 M委員の発言は、「障害者差別は目に見える。」「 しかし、部落差別は目に見えない。 」「黙っていればわからない・・・」
という三つの文章から成り立っています。 まず最初の「
障害者差別は目に見える」という表現ですが、M委員は、この言葉を語るとき、「車椅子の障害者」が念頭にあったといいます。「車椅子に座っている人を見れば、すぐ障害者だとわかる」、そういう意味で「障害者差別は目に見える」と言ったというのです。 M委員は、「障害者差別」を、<障害者の障害>をさして用いているのです。「障害者差別は目に見える」という表現は、「<障害者の障害>は目に見える」という意味で用いられています。

    M委員が最初、聖書研究会の委員会でこの発言をしたとき、「障害は、いつも<目に見える>とは限らない。 障害の中には、<目に見えない>障害もある。 視覚障害や聴覚障害、その他の障害でも、一見して、すぐに障害とわからない障害は多々ある。 <障害者差別>は目に見えると断定するのは認識不足である・・・」との指摘がありました。 M委員が少しでも、<障害者問題>、あるいは<障害者差別問題>に関心を持ち、取り組んでこられたことがあるなら、<障害者の障害>を<目に見える<障害
>に限定するようなことはしなかったでしょう。 「車椅子の障害者」だけが障害者ではなく、この世には実に様々な障害を持った方がおられるということはすぐに分かることです。

    それに、「車椅子に座っている人」を見たとき、私たちが、そこに<障害を持った人間>の存在を確認するのであって、決して、M委員の言葉が示しているように、<障害者差別>を確認するわけではないのです。 「車椅子に座っている人」を見て、私たちは、障害者と障害の事実を<見る>ことができたとしても、<障害者差別>を直接<見る>ことはできないのです。

    障害者がどのような差別を受けているか、被差別の実態は、障害者の語る言葉に耳を傾けることなくして知ることはできないのです。そして、障害者が差別されているという<被差別>と同じく、<差別>も、実際は「目に見えない」かたちで存在している場合が多いのです。 被差別部落の人に対する差別と同じく、障害者に対する差別も、むしろ「目に見えない」かたちで、潜在化・陰湿化されていると考えるのが妥当ではないでしょうか。

    M委員が、「障害者差別は目に見える」と断言するところに、M委員の障害者差別問題に対する認識の甘さが横たわっているように思うのです。

    西中国教区の教育セミナーで、このようなことがありました。 登校拒否が主題として取り上げられた時のことですが、参加したキリスト者で、学校の教師であった人が、自分の実践事例を話されたことがあります。 それは、言語障害を持つこどもの話しでした。 最初、その人は、自分のところにやってくるこどものことを、「言語障害を持つこども」と呼んでいましたが、話が進むにつれて、「どもりのこども」と呼び方を変え、最後になると、そのこどもを「どもり」と呼び捨てにしていました。

    私は、そのとき、その場で、「あなたの発言は差別発言である」と指摘してその理由を話しました。 「障害をさす用語、しかも差別語を用いて、こどもの全人格を表現するのは差別である」と。 そのとき、そのひとは、「あなたは、私のことばじりをとらえて、わたしの教師としての全生涯を否定するつもりか!」と激しく立腹されました。 そのできごとは、まだわたしの記憶になまなましく残っています。 そのとき、教区議長は、「私たちは長い間、障害者差別問題と取り組んできた。 しかし、これでは、最初からやり直しをしなければならないではないか・・・
」と嘆いておられました。

    M委員が、「車椅子に座った障害者」を念頭におきながら、「障害者」と「障害者差別」を混同して用語を用いているという事実は、M委員が、
障害者を全人格としいて受け止めることから後退して、障害者をなんらかの運動の<道具>あるいは<手段>におとしめているのではないでしょうか。

    M委員の「障害者差別は目に見える」という命題が、粗雑で瑕疵のある命題であるのと同じく、2番目の「部落差別は目に見えない」という表現も、まったく粗雑な論理であるといえます。

    被差別部落の人が被差別部落の人であること・・・、それはM委員がいうように、「見えない」ことがらなのでしょうか。

    被差別部落の人々は、現在でも何百万人もの人が、同和地区に住んでいます。彼らは、同和地区に住んでいるということで、いまでも就職差別や結婚差別を受けて苦しんでいます。 部落も部落に住んでいる人も、「目にみえない」存在としてではなく、「目に見える」存在として地域社会に生きているのです。 同対審答申の中でも、「部落差別は単なる観念の幽霊ではなく現実の社会に実在する」と表現しています。

    M委員が、「部落差別は目に見えない。 黙っていればわからない・・・」と断言するとき、M委員の視野にあるのは、被差別部落の人は被差別部落の人でも、自分の生まれ育ったふるさとを捨て、またそこから離れて、別の場所で、部落出身であることを隠して生きている人々の姿が念頭にあるのでしょう。 M委員の脳裏からは、自分の生まれたふいるさとに身を置き、そこで部落民として生き、部落解放のために闘っている多くの被差別部落の人々の姿が欠落していっているように思います。 
「部落差別は目に見えない。 黙っていればわからない・・・」という言葉が、たとえ、M牧師の個人的経験に根差した現実であったとしても、なお問題に満ちた表現であるといわざるを得ません。

     M委員の、「障害者差別は目に見える」という命題が、粗雑で瑕疵があるのと同じく「部落差別は目に見えない」という命題も粗雑で瑕疵がある論理であるといわざるを得ません。

    障害者差別も部落差別も、共に「目に見える」「目に見えない」の恣意的な基準で把握できるような現実でもなければ実態でもないと思うのです。

目次

 『部落差別から自分を問う』の目次 はじめに 第1章 部落差別を語る  1. 部落差別とはなにか  2. 部落<差別>とはなにか  3. 部落差別はなくなったか  4. 部落の呼称  5. 認識不足からくる差別文書  6. 部落の人々にとってのふるさと 第2章 差別意識を克服する...