2023年9月3日日曜日

最後にひとこと

    一気に書き下ろしてきたこの文章も最後に使づきました。 解放同盟S支部の方々と出会うことで、無学歴・無資格 (Academic Outsider) 、部落問題・部落史研究の門外漢である、日本基督教団の一牧師である私は、部落解放同盟S支部の方々と出会うことで、多くのことを学ばせていただきました。

    この文章を思いつくままに書き連ねながら、本当はもっともっと紹介しなければならない差別発言や差別事件があることに気づかされました。

    解放同盟S支部で、小学校の教師をされているA先生の部落民宣言やその活動についても、とりあげなければなりませんでした。

    西中国教区、とくに山口県の諸教会の置かれた社会的状況と、その中での教会と部落との連帯の可能性については、もっと多の言及すべきことがあります。

    また、解放同盟S支部の人々と、山口の被差別部落の歴史を学んでいく中で、興味ある多くの歴史的事実に遭遇しました。 従来の「士農工商・穢多・非人」という歴史的通説が打ち砕かれ、被差別部落の人々の本当の歴史の真実に迫る、さまざまな歴史的事実と論理をも学ぶことができました。 それも西中国教区の諸教会が部落差別問題に取り組むときの有益な資料となるでしょう。

    さらに、日本基督教団京都教区で毎年行われている部落解放夏期研修医会は、私にとっては、西中国教区や分区・教会での取り組みに疲れたときに、エネルギーを補給して、「また一年がんばろう」、そんな思いを持つことができる場でした。 そこでは、被差別部落出身の牧師や信徒、そして、被差別部落出身でない多くの牧師や信徒が、真剣に、それぞれの場所から闘いの試行錯誤やその結果を持ち寄って、いろいろな意見の交換が行われています。 京都教区の部落解放夏期研修会で学んだことももっと、この文章の中に織り込むべきであったと思っています。 いつか続編を書きおろしたいと思っています。

    最後のこの文章は、『部落差別から自分を問う』を読んでくださる皆様に対する問題提起です。

    日本基督教団出版局が出している『説教者のための聖書講解・釈義から説教へ』という一連のシリーズがあります。 その1冊に、関西学院大学Y教授がこのような意味の論述をしています。 イエスは、貧しい者、苦しむ者、抑圧されたものを祝福された。 そのようなイエスのまなざしは、わたしたちに問いかける。 貧しい者、苦しむ者、抑圧された者を、あなたは、「愛しているか、重荷を負いあおうとしているか、敵になっていないか」と。 そのような文脈の中で、Y教授は、在日韓国人で障害者である李和美(イファミ)さんの詩集『私の名はファミ』から「クリスチャンⅡ」という詩を引用されています。

    私はりっぱなクリスチャンになりたい
    きれいなふくをきて
    じょうひんな言葉で人のうわさをする
    そんなりっぱなクリスチャンになりたい。

    私はりっぱなクリスチャンになりたい
    地位があっても学問があるから
    めうえの人にも自分からあいさつをしない
    そんなりっぱなクリスチャンになりたい。

    私はりっぱなクリスチャンになりたい
    アル中で人の物をとる人を
    おまえのようなものは出ていけと
    追い出した
    そんなりっぱなクリスチャンになりたい。

    私はりっぱなクリスチャンになりたい
    自分と同じでなくては
    クリスチャンしっかくと
    きせきがおこらないと
    しっかくだってきめつける
    そんなりっぱなクリスチャンになりたい。

    私はりっぱなクリスチャンになりたい
    自分の考えと違う教会なら
    さっさとみきりをつけてやめていく
    そんなりっぱなクリスチャンになりたい。

    きれいな心愛する心思いやる心
    そんなりっぱな心をもって
    人に神様の愛をつげられる
    そんなりっぱなクリスチャンになりたいな

    関西学院大学のY教授は、「詩の中にこめられた彼女の訴えと願いをどこまで理解することができるか、私には自信がない。 しかし、たとえ浅くとも、彼女の思いに共感できるキリスト者でありたいと願う」と結んでいます。

    私は、この詩を読みながら、悲しい気持ちになってしまいました。 なぜ、イファミさんは、彼女が詩うような「りっぱなクリスチャン」にならなければならないのでしょうか・・・」。

    彼女の詩にうたわれた「りっぱなクリスチャン」というのは、今日の日本基督教団の多くの教会の現実の姿を反映しているのでしょうが、天皇制の枠組みの中で、「中産階級」・「知識階級」であることを自他共に認識し、その誇りと自覚のもとに、キリスト者としての愛を実践し、罪あるこの世に対してさまざまな問題提起や批判をしていく・・・。 そのようなキリスト者の姿ばかり見て、育ち、キリスト教の信仰を受けいれていった
イファミさんにとっては、理想的なクリスチャンは、必然的に、「中産階級」「知識階級」に属するクリスチャンと同一存在のように思われたのかもしれません。

    福音書のイエス・キリストは、私たちをありのまま受け入れてくださるお方です。 イフアミさあんが、「りっぱなクリスチャンになりたい・・・」、そういう思いを強める限り、イファミさんは、在日韓国人であること、障害者であること、その事実から、自分を隔離しなければならなくなるのではないでしょうか。 なぜ、神さまやイエスさまに愛される<りっぱなクリスチャン>になるために、詩の中に出てくる<りっぱなクリスチャン>に自分を変身させなければならないのでしょうか。 学歴があって、社会的地位があって、それを示すかのように綺麗なみなりをして、上品な言葉使いで、神さまの愛を語り、自分たちの価値判断にあわないと、人を無視し、場合によっては、社会の下層にあって悩み苦しむものを教会から疎外し、自分たちの理想と違う歩みを教会がたどりはじめたとき、それを理由にイエスさまの教会さへ破壊して省みない、自分たちだけが、福音に生きていると信じ込み、他者を不信仰の輩として批判してやまない・・・そんな「りっぱなクリスチャン」になぜならなければならないのでしょう。

    私は、このイフアミさんの詩を読みながら、機会が、在日韓国人や障害者に何を要求しているのか、それを垣間見る思いがしています。 イファミさんの詩は、在日韓国人や障害者、被差別部落の人やアイヌの人が、教会の中で、「りっぱなクリスチャン」になることを求められているという事実を示す詩ではないかと思うのです。

    被差別部落にある人々は、その差別によってさまざまな痛みを感じざるを得ない。 しかし、差別する人に対して、「それは、差別です」と指摘告発したりすると、教会の中が気まずくなる。 
 クリスチャンは、他の信仰者から、どのような発言をされようと、そこには、根本的な悪意と敵意とかはないのであるから、問題をことさらとりあげるようなことをせず、ひろいこころ、あたたかいこころで受けとめ、笑って対応してあげれば、いつか、その人の差別性も、その愛とやさしさにうたれて自分の間違いを悟るようになるかもしれない・・・、イファミさんの詩の背後には、そんなキリスト教会の姿勢が存在しているように思うのです。

    在日韓国人も、障碍者も、部落の人も、アイヌの人も、どんな被差別の中にある人も、「いい子、いい人」でいるなら、教会は、あたたかく受け入れますよ、しかし、教会の中で、差別発言を指摘したり、解放運動を行なうというなら、それは、「アル中」の人を追い出すのと同じ理由で、教会から出ていっていただきますよ・・・、そんな言葉が響いてくるように思えるのです。

    被差別にある人々を教会に受容する、受容しないという問題のはざまで、このような状況が起こりうるのです(イファミさんの詩が、現代の教会とクリスチャンに対する皮肉であるなら、拍手喝采して、この部分の文章を撤回します)。

    山口県S市で開催された連続『社会同和教育市民学習講座』に、市民ではないけれども、主催者の同意をえて、全期間参加させていただいたことがあります。 そのとき、講座の最終日、山口氏教育委員会同和教育室のE先生が講演されました。 E先生の講演は、いまでもいい講演であったと思っていますが、講演のあと、E先生と20~30分話をしたことがあります。

    E先生によると、1972年ある被差別部落の青年が自害されたそうです。 高校卒業後、会社に入社、そこで、同僚の女の子と親しくなり同棲するようになっていったというのです。 やがてこどもができ、おなかの中のあかちゃんが4か月になった頃、ふたりは、まだ生まれていないそのこどもに名前をつけたそうです。 しかし、娘がつきあっている青年が被差別部落出身であることを知った彼女の両親は、ふたりの結婚に反対・・・。 差別に対してどう克服していけばいいのかわからなかったその青年は、自分の恋人にこどもを下ろさせ、その後自殺してしまったというのです。 E先生は、部落差別で、青年と恋人の胎内にいるちいさないのちが失われることになったと指摘し、「この青年には、人格的に一点のひのうちどころもなかったのに・・・」と話されました。

    講演のあと、この最後の部分についてお聞きしたのです。 「もし、その青年に、ひのうちどころがあったとしいたら、どうなのですか。 ひのうちどころがあろうとなかろうと、部落差別を許すことはできないのではないか。 差別される部落の側に非があると、部落差別の原因を部落の人々に押し付ける風潮が増加する傾向にあるが、それは間違いではないか。 その青年が、自殺しないで、差別と闘い、差別をはねかえして生きていこうと、自分の住んでいる場所で解放運動をおこし、差別者に対して確認会や糾弾会をはじめたら、E先生はそれをどのように受け止められるのでしょうか。 自殺してなくなった青年に対して涙を流すことも大切であると思いますが、死なないで、部落解放のために、その家族や同胞のために闘っている被差別部落の人々に連帯して、共に部落差別解消に向けて努力する姿勢も大切ではないか。 社会同和教育の研修会においても、そのことをもっととりあげてほしいと、お話ししたことがあります。

    私が牧会している教会の前任者が自害し、 神学校在学中、私の転会を認め教会員として受けれ入れて下さった東京教区の阿佐ヶ谷東教会に牧師として赴任して来られた、元西中国教区I教会牧師で教区の幹事、日本基督教団総幹事、農村伝道神学校校長を歴任された牧師の自害・・・、そのふたりの牧師に仕えた教会の古老が自殺・・・。 教会の上に。そして、私の上に重くのしかかる子の現実を、どのようにはねのけ、因襲深い地方の教会を再生していくか、そのような課題を持っている教会の牧師に、西中国教区は、さらに部落差別問題の取り組みという大きな重荷を背負わせたのです。 西中国教区によって押し付けられた部落差別問題をにないながら、絶望ではなく希望を、挫折ではなく再起を、逃亡ではなく解放を、死ではなく生を・・・、考えに考えてきた結果、私に見えるようになった、被差別部落の人々の流説できく姿とは違った、人間としての誇りに満ちた闘いの姿が、私の脳裏に深く刻み込まれることになりました。 講師に向けてなげかけた、「その青年が、自殺しないで、差別と闘い、差別を跳ね返して生きていこうと、自分の住んでいる場所で解放運動をおこし、差別者に対して確認会や糾弾会をはじめたら、E先生は、それをどのように受け止められるのでしょうか・・・」という問いは、私が自分自身に向けた問いかけでもありました。

    部落差別問題に取り組めば取り組むほど、教区や分区・教会、牧師や信徒との間に、言葉に言い表せない亀裂と破れが生じ、疎外感と孤立感にさいなまれてきたことは、打ち消しがたい事実です。 「被差別部落出身ではないのだから、この辺で投げ出したら・・・? 」、そんな誘惑にかられながらも、山口県S市の被差別部落〇〇の、支部長さんや書記長さん夫婦、いつもあかるく元気に反差別を語るおじさんやおばさん、尋ねていくといつもひざにのってくる〇〇ちゃんや〇〇ちゃんの笑顔が、そんなこころの陰りを吹き払ってくれました。


    被差別部落の人々と顔と顔を向かい合わせて話し合うことができるところで、誰も、差別意識を助長させることはできません。差別意識は、被差別部落の人々の顔の見えないところで、私が、抽象的・観念的に、一般的・通俗的に考え、自分とは関係がない問題として認識されるところで、ますます強化されより差別的なものになっていきます。

    西中国教区は、かって、<部落伝道建議案>を成立させました。 私たちは、もう一度その原点に立ち戻って、今日的状況において、<部落伝道県議案>を実践してみようではありませんか。 被差別部落の人々の中に存在する<すぐれた被差別部落のひと>を探し出すためではなく、教会と被差別民衆とが顔と顔を向かい合わせて出会うために。

    1995年のクリスマス・イブ、山口のちいさな教会に赴任してはじめての、ホワイト・クリスマスでした。 夜の冬の空に雪がちらつき、積りはじめていました。 小さな、ちいさな教会の中で、教会員と被差別部落の人々が集まって共に礼拝を守りました。 その時、松本治一郎の母親と同じ名前のおんなの子(書記長ご夫婦の娘さん)が、イブ礼拝に参加したひとりひとりのキャンドルに点火していきました。 一年一年、成長していくこどもたちが、被差別部落の新しい時代を築くことができるよう、そして、私たちの教会も、それと共に新しい時代を生きることができるよう、主イエス・キリストに願わざるを得ませんでした。
    



最後にひとこと

 最後にひとこと


2023年9月1日金曜日

第3章第5節 部落でないからわからない・・・

    第3章 差別意識の諸相
    第5節 部落でないからわからない・・・

    「私は、部落出身でないから、部落差別がなにかわかりません・・・」。

    西中国教区・分区・教会の部落差別に関する研修会で、よくこのような発言を耳にします。 その人は、自分は部落出身ではないと<自分はずし>をした上で、さらにその内容を説明しているのでしょう。 被差別にある人の被差別体験を共有することはできないと。

    <差別>とはなにか。

    自分がどのような立場に立たされているかによって、<差別>がなになのか、三様に見えてまいります。 <差別>をめぐって、人は<差別する側>・<差別される側>・<差別させる側>の三様に分かれます。 どのような立場からでも、<差別>について語ることができます。

    <差別する側>は、<差別>についてなにを語ることができるのでしょうか。 それは、文字通り、被差別者を差別する<差別>そのものについて語ることができるのではないでしょうか。 時々、「差別の現場」という表現が用いられますが、「差別の現場」とはどこなのでしょうか。 それは、被差別部落のことではありません。 被差別部落の中では、誰も、同じ被差別部落の人をつかまえて、「部落」だと差別しません。 そういう意味の差別事件は、被差別部落の中では起こりません。 差別事件が起こるのは、被差別部落の外です。 部落の外で、被差別部落の人々に対して、差別発言が行われたり、結婚差別や就職差別が行われるのです。 「差別の現場」というのは被差別部落のことではなく、私たちにとっては、西中国教区であり、それぞれの分区や教会であるのです。 「教会」は「差別の現場」であるとの認識に立てば、差別が何であるのかを知るためには、自分たちの生きている場所、そのことばやふるまいを検証しなければならないことが分かります。 

    「被差別部落の出身ではない」、だから、部落<差別>が何であるのか、被差別部落の人々よりより<差別>に精通しているのではないでしょうか。  「今日は、部落問題の研修会ですから、部落問題について自由に発言していいですよ・・・」と講師が発言しようものなら、聴講している人々によって、数限りなく差別発言が繰り広げられることになるでしょう。 場合によては、その手法「も、やはり、私たちの意識の中に部落差別はある。被差別側からの糾弾がいったん緩められると、どのような差別発言となってあらわれるのか」、その実証の場として用いるのも効果的であるのかもしれません。 しかし、多くの場合、講師の<包容力>の枠を超えた、想定外の差別発言が出てくる場合があり、正しく、的を射て、その発言が差別発言であることを指摘、納得させることができないと、そのような「自由に差別について発言していい・・・」、そんな研修会が、差別の拡大・再生産の場「差別の現場」になってしまいます。 私がいま書いている文章で取り上げた西中国教区・分区・教会に内在する差別事象がどって出てきて対応することはほとんど不可能になってしまいます。

    「私は、部落出身ではないから、部落差別がなにかわかりません・・・」という言葉の<差別>は、差別者の<差別>ではなく、被差別者の<被差別>のことです、と言い直しをあれるかもしれません。

    「部落出身者ではないから、<被差別>のことはわかりません」。 研修会でのそのような発言は、部落差別について学びをいている間にも、「私は、被差別部落の人々が感じている被差別の痛みや苦しみにかかわろうとは思いません・・・」という主張なのかもしれません。
 
     ある教会の牧師も、「部落でないから部落差別はわからない」といいます。 「在日でないから在日のことはわからない」ということかと尋ねると、「そうだ」といいます。 「アイヌでないから、アイヌ差別のことはわからない。 沖縄出身でないから沖縄のことはわからない。 障害者でないから障害者差別のことはわからない。 黒人でないから黒人差別のことはわからない。 女性でないから女性差別のことはわからない。 私は学歴があるから、学歴のない牧師の苦しみや痛みはわからない・・・」。 それでは、「自分のことは? 」とたずねると、 「自分のことは自分がいちばんよく知っていることだから、わかる」と言われます。 なにか、禅問答のような会話ですが、ある牧師の発言に、共感し同調するような牧師の声も多々あります。 当事者でないから、当事者の痛みや苦しみはわからない・・・。 にhン人が、戦後の高度経済成長の中で、失った、もっともかけがえのないものは、他者や隣人の痛みや苦しみに思いをはせるこころではなかったでしょうか。 「自分のことはわかる」と言われるが、ギリシャの遠き昔から、「自分自身を知る」ちうことは、人生の難問中の難問でした。 「自分を知る」ことは、人生の全秘密の謎を解くことと同じことを意味していました。 他者や隣人の痛みや苦しみをしることなくして、どうして、「自分を知る」ことができるのでしょうか。

    被差別の側から、「足を踏まれたものでないと、踏まれたものの痛みはわからない」という主張があります。 昨年沖縄で起こった、沖縄に戦後50年がたった今日にも、外国の軍隊として駐留しているアメリカの兵隊によって、沖縄の子供が暴行されるというできごとがありました。 沖縄県民だけでなく、沖縄県知事も立ち上がって、政府やアメリのに基地の撤去と沖縄の<軍制>からの解放を叫んでいるのですが、日本政府もアメリカ政府も誠実な対応はしていません。 沖縄県知事は、マスコミに対して、「踏まれたものでないと踏まれたものの痛みはわからない」と発言されました。 「差別者には被差別者の気持ちはわからない」・・・、その言葉に対する正しい対応は、被差別の側から、被差別の気持ちを理解して、共に同じ闘いのために立ち上がって欲しいという、ラブ・コールとして語られているのだと受け止めること・・・。

    第三者的に、「差別」「被差別」の立場を考えると、事態は混とんとしてきます。 「私は、差別する側にも、被差別の側にも身を置いていない。 私は、被差別部落の人を差別したこともないし、また被差別部落として差別されたこともない・・・」、そのような思いを持っている第三者の立場が、「差別をさせる側」にあたります。

    長い間、江戸時代の封建時代だけでなく、明治以降の近代日本社会においても、差別は民衆支配の道具として利用され、日本の民衆は、被差別の側と差別の側に分断され、互いに敵意と憎悪、差別と抑圧をもって生きていくよう仕向けられてきました。 被差別の側でも差別の側でもなく、第三の立場「差別をさせる」側に身を置き、被差別に置かれた人がどのような差別状況に置かれようと、自分には関係のない問題として、その意識から遠ざけようとする営みは、部落差別問題に無関心になり、天皇制という差別社会の強化委に加担することにつながることになるでしょう。

    教団の部落解放センター委員会に、一度、西中国教区部落差別問題特別委員会委員長の代行として、出席したことがあります。そのとき、東京教区の代表者として参加していたK牧師が、沖縄教区の代表者である平良牧師に対して、「沖縄には被差別部落がないのだから、沖縄教区は部落差別問題との取り組みをしなくていいのではないか・・・」と発言されました。

    そのとき沖縄、教区の平良議長は、「沖縄のことを思ってそのようにおっしゃられるのかもしれないが、その考え方は間違いです」とはっきり言われました。 「同じ考え方をすれば、このようになるのではないか。 本土には沖縄はない。 沖縄は沖縄の人が考えればよい。  本土にはアイヌ部落はない。アイヌの問題は北海道が考えればよい・・・。 しかし、私たちはそのようには考えない。 沖縄は、沖縄の問題であるだけでなく、極めて本土の問題でもある。 私たちは沖縄の問題をもっともっと本土の問題として、本土の人に考えてほしい。 だから、私たちも本土の問題である部落差別をになう」と言われました。 私はその言葉を聞いて深く感動しました。 「共に生きる」ということは、まさにこういうことではないかと。

    問題になっている『洗礼を受けてから』の姉妹編『洗礼を受けるまで』にこのような文章があります。 「隣人愛は、難しい理屈や知識の問題ではない。 実際に自分のすぐ近くに助けを切実に求めている隣人がいるのに、無感覚にもそれに気づかず、またなかばそれに気づいても、「面倒なこおとにはかかわり合いになりたくない」という自己防衛の打算のために、結局は見過ごしてしまう・・・、そういう自我に閉ざされた姿勢に対して、あの神の愛にに答えて、自分以外の人間に向かっても心が開かれていることがたいせつであり、その開かれた姿勢があれば、必要なときすぐ隣人の存在に気づき、手を差し伸べて実際に「隣り人になる」ことができる、というわえでしょう。 ところが、神の愛を一応は知りながら、残念なことに、それへの応えとしての隣り人への愛が呼びさまされてこないことがあります・・・」。 信仰者の理想とするところと信仰者の現実とのギャップを的確に表現している言葉ですが、このギャップは、教会と部落差別問題とのかかわりにおいて、特に明らかになります。 神の愛が、イエス・キリストの愛がなんであるのかを十分知りながら、こと部落差別に関連した文脈の中では、その愛を実践しきれないのです。

    「部落出身でないから、部落差別のことはわからない」、その言葉は、「部落出身なら、部落差別のことはわかる」という言葉を前提にしています。 

    それでは、「部落出身者なら、部落差別はわかるのか」という質問を提起してみますとその命題は、常に真実であるとは限らないということに気づかされます。 部落出身者であるから、部落差別の痛みや苦しみを十分知り尽くしている・・・、とは言えないのです。 部落を捨て、功なり名をとげ、一般の側にその身を置いている人は、現実の被差別部落や部落差別問題との取り組みを避ける傾向があります。

    詩集『部落』中にの、丸岡忠雄さんの詩「かつて」という詩が収録されています。

    ペテロは三度
    イエスを否んだ
    わたしは 幾度
    ふるさとを否んだ か

    故知らぬかげにおびえ
    <ふるさと>の重みに
    異郷に ひとり居て
    ふるさとびととの邂逅を
    わたしは 蟹のように怖れた

    自分のふるさとを隠して生きていても、偶然、ふるさとの同胞に出会うと、いっぺんに部落出身であることが明かされてしまう・・・、部落を捨てた知識人や有名人に、このような幻影がつきまとう場合があります。

    ある人は、町中で、同じ部落の人に、「よう!」と声をかけられるのが一番こわい・・・といいます。「部落出身なら部落差別がなにかわかる・・・」という見解もあるにはありますが、自分のふるさとを離れ、そこから限りなく逃亡している部落出身の人の気持ちと、自分のふるさとに堅く立って、差別と闘い、部落解放運動を展開している人、自分の顔を世間にさらして生きている人の気持ちとの間には、大きな隔たりがあるのではないでしょうか。6000部落、300万人といわれる被差別部落の人々、それぞれの部落と部落の人は、固有の歴史や文化を背負って、差別に対する抵抗の歴史を背負って生きています。 その多様さは、抽象的・観念的な部落差別問題を論ずるときに使用する諸概念では包括できないものがあります。 「部落出身であっても部落差別がなにかわからない・・・」、そういう現実も存在するのです。

    『部落の過去、現在、そして・・・』という書籍の共同執筆者である、灘本昌久という人がいます。 京都大学文学部歴史学科卒業・大阪教育大学大学院研究科修了。 そして、関西のあちらこちらの大学の講師をされているとのことです。

    その本によると、彼の両親はどちらも被差別部落出身であるということです。 彼らは生まれ育った被差別部落を出て、現在大阪の高級住宅街におすまいとのことです。 彼は自分のことを、「血統的にはサラブレッドのような<賤民の末裔>」であると言います。 正直いって、この文章を読んだとき、「なんだ、部落のおぼっちゃまのたわごとか・・・」と思って、それ以上先を読まなかったのですが、あるとき、必要があって、全文を読み直しました。 そのとき、なぜ最初読んだときに、最後まで読みすすめなかったのか後悔しました。

    そこにこのようなことが書かれていました。「いずれ部落であることがわかる・・・」と心配していた母親から、灘本昌久さんは、部落出身であることを告げられます。 しかし、彼はそのことを聞かされても、自分の「アイデンティティ」にそれほど大きな影響は受けなかったといいます。 「部落民であることを知る前と後ではアイデンティティに何の断絶もない」というのです。 彼は、「自分のセルフ・イメージに影響するような差別体験がなかったし、差別したりされたりするという関係から切れて生きてきた」と言います。 自分をそのように語る灘本昌久さんが、その文章の中でこのようなことを書いています。

    <「差別語」の拡散

    「侮辱する意志の有無」を問わずに、特定の言葉を差別語として指摘しだすと、差別であるかないかの基準が、「被差別者に痛みを与えるか与えないか」というところに安易に置かれがちとなる。 その結果、最近では、水平社時代であれば絶対に糾弾されなかったことまで問題視されるようになってきた。

    例えば、山口県S市では、同和事業の執行に必要なため、従来の市営住宅に関する条例を改正し、入居資格に、従来「寡婦、引揚者、炭鉱離職者」という制限があったところへ、「そのほかの社会的に特殊な条件下にある者」という条項を付け加えた。 これが、部落民を特殊な者として差別しているということになり、市当局は「結果的に同和地区の人々にとって痛みを感じるような表現になったことは遺憾」として陳謝し、条例を改正したという。 「特殊」という言葉に、これほどこだわるとは驚く他はない。 「特殊」の代わりに「特別」とでも書いておけばよかったのだろうか。 これを差別事件として麗々しく取り上げた『解放新聞』の記事は、「運動史上の汚点のひとつ」である。

    「頭が火をふく」という言葉があります。 この文章を読んだとき、確かに、私の頭は火を噴きました。 なぜなのか、灘本昌久さんが、「運動史上の汚点のひとつ」と断定された、山口県S市の「市営住宅差別条例事件」と取り組んだのが、この文章の中でしばしば登場してくる部落解放同盟山口県連S支部の支部長さんは、書記長さん、青年部長さんや、支部のおじさん、おばさんたちだってのです。 しかも、その糾弾会の準備には、山口県同教の教師は日本基督教団の牧師である私も参加して取り組んでいたのです。 糾弾会の当日は、西中国教区から、数名の他の牧師も参加していました。

    山口県S市「市営住宅差別条例事件」というのは、
次のような内容のものです。

    1986年12月、山口県S市の被差別部落に「同和向住宅」6戸が建設されますが、その入居条件に、「その他の社会的に特殊な条件下にある者」という表現を付加したのです。 市議会の審議過程で、共産党議員から、「同和向け住宅であるならば、なぜそのような表現をしないのか。 社会的に特殊な条件下にある者という表現んは新たな問題を起こしかねない。 同和地区関係諸団体の意見も組み入れた表現であるのかどうか」という指摘がなされましたが、S市議会は賛成多数でこの文言を含む条例を成立させます。

    しかし、その新聞報道を読んだ、被差別部落の人から、「私らを特殊な人と書いている」との訴えが部落解放同盟S支部に入ります。 それでS支部は、対市交渉を文書で要望、あわせて、「<社会的に特殊な条件下にある者>という表現は私たち部落民をさしてり差別である。」と抗議するわけです。

    数々の学歴を持つ、部落のおぼっちゃまである藤本昌久さんは、解放同盟S支部の問題提起を単なる差別語狩りであると指摘、それだけでなく、部落解放「運動史上の汚点のひとつ」とまで断定されるわけです。 灘本さんは、歴史学者で教育学者ではありませんか。 それなのに、なぜ、山口県S市で起きた差別事件について、なんら調査をしないで、単なる新聞報道だけで、部落解放「運動史上の汚点のひとつ」という、レッテルをはりつけることができたのでしょうか。 それが、大阪や京都を遠く離れた山口県の地方都市の、小さな被差別部落の人々が訴えた差別事件であったとしても、学者としての良心上、ある程度事実確認をされた上で言及されるべきではなかったでしょうか。 灘本昌久さんの解放同盟山口県連S支部の闘いに向けられた<非難>は、大阪に住む部落のおぼっちゃまから、山口に住む部落のおじさんやおばさん、被差別民衆に対する限りない<裏切り行為>です。 解放同盟S支部の人々が、灘本さんのことをどのように受け止めているかは知りません。 しかし、被差別部落出身でない私の目から見て、灘本さんの発言とふるまいは、被差別民衆の闘いを背後からなしくずしにしてしまう許されざる暴言であると思います。

    山口県S市議会で、解放同盟の糾弾行為を常に批判してやまない、あの共産党の議員が、このように発言しているのです。

    「今回の改正によって部落差別はより拡大され、固定されることにならざるを得ない点であります。 なぜなら、第7条の2の2項は、歴史的、社会的理由により生活環境が阻害されている地域に住む者及び関係者という規定は、いったいどこを指し誰を意味するのか、それはまぎれもなく部落を指し、〇〇を指し部落民を意味する以外のなにものでもないことはあきらかではありませんか。」

    「入居者は、新たにつくられる審査会なるものによって部落民でるか否かを決定するというものであります。 これは、その人の背中に行政自身の手で、「お前は部落民である」という烙印を押すことを意味します。 これが部落差別解消でしょうか。 断じて否であります。」

     「<特殊>という言葉に、これほどこだわるとは驚く他はない。 <特殊
>の代わりに<特別>とでも書いておけばよかったのだろうか・・・」という灘本さんの発言は、解放同盟S支部の運動に比較的近い立場にその身を置きながら、しかし、あの共産党さへ「差別」であると認識し、山口県の被差別部落とそれを取り巻く差別事象を踏まえて差別を助長する行為であると指摘する差別事件を、単なる差別語狩りであると断定される、それどころか、S支部の人々の運動に、なにのためらいもなく、部落解放「運動上の汚点のひとつ」という烙印を投げつけるものです。

    灘本さんは、「<特殊>の代わりに<特別>とでも書いておけばよかったのだろうか」と言われるが、なぜ山口の被差別部落の差別実態が問題になっているときに、それを差別語の使用・不使用の問題にすり替えようとするのか。

    「部落出身者なら、部落差別がわかる」、「部落出身者なら、差別された者の痛みがわかる」・・・、このことは決して自明の理ではありません。 灘本さんの軽率な発言を通して、私は、そのことについて考えさせられました。 灘本さんが読んだという『解放新聞』の記事には、『S町史』・『S市史』にも差別表記があることが報道されていました。 歴史学者で教育学者である灘本さんは、やはりこの件について確認作業をする必要があったのではなでしょうか。 『S町史』・『S市史』には、このような表現がありました。 

    「毛利藩が産物役所をつくって国中の産物を安く買あげ、大阪で売り払って収益をあげ、また宝くじをゆるし、献金が多ければ特殊民に対しても格式を許し特権を与え、その上藩が買いあげた米を有利に売ろうとして米価を吊り上げる政策をとったことから下層民が犯行したもので・・・」

    歴史学者で教育学者である灘本さんには、この文章がなぜ差別文章であるのか、説明する必要もないでしょう。 しかし、部落のおぼっちゃまである灘本昌久さんは、それでも解放同盟S支部の闘いを、単なる差別語狩りで、部落解放「運動上の汚点のひとつ」と断定されるのでしょうか。

    共産党議員のS市議会での発言を紹介しましょう。

    「(教育長に対して)今回、解放同盟から指摘されてはじめて気がついたのだとしすれば、不注意であったではすまされない」。

    前掲の、山口県の被差別部落出身の詩人・松木淳の詩歌集『荊の座』の中にこのような歌があります。

    去り行ける違星を惜しむ
    生けるうち
    知りなばわれもたよりせんものを

    アイヌの解放運動家・違星北斗の死を新聞報道で知って、松木淳が歌ったうたのひとつです。 彼は、違星北斗の死を伝える、わずかな新聞報道の記事から、さらにこのような歌を歌います。

    彼が持ちしアイヌの悩みと
    わがもてる
    悩みと深く通うものあり

    去り逝ける
    違星北斗よ君が胸の
    深き悩みのわれにはわかる

    同族を想ひ
て夜を泣き明せし
    違星よ
    われも泣き明かすもの

    松木淳の、アイヌの同胞のために闘った違星北斗に対する深い共感は、松木淳の被差別部落の民衆に対する共感に裏打ちされています。 被差別民衆の解放運動は、それが部落解放運動であっても、アイヌ民族解放運動であっても、同じ闘いの精神で貫かれているのではないでしょうか。

    『違星北斗 遺稿 コタン』という本の中に、中里凸夫というひとの「偽らぬ心」という文章があります。

    「私達はアイヌとして幼いときから、どんなに多くの人達から侮辱されて来たことです。 私達は弱い方でした。 それがため堪えられぬ侮辱も余儀なく受けねばなりませんでした。 その時私達はもっと強かったら、誰が黙々として彼らの侮辱の中に甘んじてゐたことでそう? 憎い彼等を本当に心行くまでいじめつけてやったのに・・・。 私達はかうした自分の出来事を追憶して、思はずこぶしを握ったことが何回あったこでせう。」

    しかし、彼は、アイヌを差別する社会と人々を憎む、そのことで自分の心が荒んで寂しくなっていき、「堪へられぬ悔やみ、熱い涙となってとめどなくあふれ出るのです」といいます。 そしてこのように語るのです。

    「弱き者なるが故に受くべき苦しみ、異端者なるが故に受くる悲しみを、私はアイヌなるが故にしみじみと味ひ得るのです。 異端者ならでだれがこの悩みを深刻に味ひ得るものがありませうぞ。 私は寂しき者への心持を味ひ得て、そして、そうした不遇の人達をこころからなぐさめる事の出来るのを、私は幸福に思ふのです」。

    大阪の部落出身のおぼっちゃまが、山口の地方の被差別部落のおじさんやおばさんの闘い、その喜びや悲しみを理解できなくなったとき部落解放運動は、やがて窒息してしまうのではないでしょうか。

    私たちの、日本基督教団の部落解放運動についても同じことが言えます。 教団内の部落解放運動が中央指向となり、既存の組織の維持のため献金集めに汲々して、日本全国の教区で、ほそぼそとでもあって続けられている部落解放への努力といとなみ、それが挫折と失敗に深く彩られたものであったとしても、それらを視野から欠落させてしまうとき、やがて、教団の部落解放運動も行き詰まるのではないでしょうか。  『部落解放一万二〇〇〇キロの旅・走れキャラバン』は、今日の教団・教区・教会の部落解放運動の現状を描きだしてあまりあります。 しかし、あのキャラバンで出会うことがなかった、数多くの被差別部落とそれと取り組む多くの人が存在していることも忘れてはならないのではないでしょうか?

    私たちは、「部落出身でないから、部落差別はわからない」という言葉ににげないで、また、「部落出身であるから、部札がわかる」という幻想によりかからないで、被差別民衆と、共通の人間解放への闘いへと、主イエス・キリストが十字架の道を歩まれたその道を共に歩んでいきたいとと思います。




第3章第4節 部落はこわい・・・

    第3章 差別意識の諸相
    第4節 部落はこわい・・・

    論より証拠。

    一度、山口県S市にある被差別部落〇〇に遊びに行きましょう。 ご一緒します。

    その部落の中に、冷暖房完備の隣保館があります。 また地区には、部落解放同盟山口県連S支部の支部長さん、書記長さん、青年部長さん、婦人部長さんが住んでいます。

    ちいさな被差別部落ですから、〇〇部落全体を見るのも時間がかかりません。 S支部の人々は、差別されても、それをはねのけて生きていこうと闘っている人ばかりです。 部落解放運動をしている人たちとの具体的な出会いは、「部落はこわい」という偏見や先入観を打ち砕いてくれます。 そして、ほんとうにこわいものはなになのかが、分かります。 ほんとうに恐いのは、被差別部落の人を部落ということで差別する私たちの内なる<社会的>差別意識にあることはすぐに気がつきます。

    人は、被差別部落の人を差別しても、死ぬことはありませんがあ、被差別部落の人は、差別されて死ぬ場合もあります。 結婚差別・就業差別・・・、いろいろなかたちで差別されて、自分のいのちをたった悲しいできごとがあります。

    佐部悦をなくした、被差別部落の人と出会うことで、自分の差別性を克服したいと願って部落に足を運ぶ人を、誰も糾弾する人はいません。

    そうですね、隣保館を借りれば、30~40人の研修会を開くことができるでしょう。 分団討議の部屋もいくつかあります。 場合によっては、ごろねでよければ宿泊も可能です。

    広島キリスト教社会館jのある〇〇町のような大きな部落ではありません。 その〇〇町は西日本最大の被差別部落です。 S支部のある部落は、山口県にあるちいさな、平均的な部落です。

    準備は私たちでして、S支部の方々には講師になっていただきましょう。 支部長さんと青年部長さん、婦人部長さんは、生粋の部落民です。 青年部長さんのつれあいの方は、被差別部落出身ではありません。 広島で学校の先生をされたいた方の息子さんで、山口大学在学中に解放運動に触れ、そのままS市の被差別部落にすみつき、二男二女の父親としてがんばっておられます。

    部落解放同盟S支部には、山口の部落解放運動のすべての情報が入ってきます。 S支部で学べば、山口の被差別部落の状況と、部落解放運動の昨日・今日・明日が分かります。

    この文章を読んでいるあなたが変わったら、西中国教区も分区も教会も少しく変わります。 部落解放に一歩近づきます。 1人でも2人でもかまいません。 5人でも6人でもかまいません。 20人でも30人でもかまいません。 部落解放同盟S支部を、日本基督教団西中国教区の山口県諸教会の、部落解放運動の出発点にしてください。

    S支部の人々とであって、もし、それでも<部落はこわい>と思われたら、それは、あなたが完全な差別者である証拠です。 差別の幻想からみずからを解き放つよい機会となります。

    この文章『部落差別から自分を問う』をあえて書いたのは、部落差別に関して観念的な知識を提供するためではありません。

    日本基督教団西中国教区の内外における差別事象を正しく認識したあと、「教会」と「部落」が出会うことを願って書き下ろしたものです。 ある牧師は、「このような文章は書かない方がよい。 何が差別か、それを実証することで、ほんとうに差別的な人は、差別をなくそうとするのではなく、差別の仕方を学んでしまう」と、「寝た子を起こすな」という言葉に内在する差別的な論理をまたぞろ展開します。 「誰も差別意識を持っているにもかかわらず、差別語をつかなわなくなる。 それは、差別が潜在化することにつながる・・・」と言われます。

    しかし、私たちの中に内在する差別性は、観点的な作業では完全に取り除くことはできないのです。 差別的な「あたま」を隠すことはできても、自分のうしろにある、自分の目のとどかないところにある「しっぽ」は出っ放しの場合がほとんどです。 「あたま」を隠すことに徹するなら、「あたま」だけでなく「しっぽ」も隠しきってほしい。 一生、日本基督教団の牧師として、全生涯の間、<差別意識を持っていたとしても被差別にある者を差別しない>そのような生き方をまっとうすることは不可能です。 いつか破綻を来たし、その差別性があらわになってきます。

    私のこの文章でとりあげた差別事象は、差別者の「あたま」ではなく、「しっぽ」なのです。 まあ、亀さんみたいに、「あたま」を出したりひっこめたり、「しっぽ」を出したりひこめたりしないで、なにをしても亀さんは亀さんなのですから、ありのままの姿で、被差別部落とその人々に向かいあってみてはどうでしょう。

    (注)『部落差別から自分を問う』という文章を、一挙に書きおろしていますが、途中何度か疲れを覚えました。 この節は、その疲れが反映しました。

2023年8月31日木曜日

第3章第3節 部落には嫁にやれぬ・・・

    第3章 差別意識の諸相
    第2節 部落には嫁にやれぬ・・・

    部落差別はなくなったか。 すでに、部落差別は解消されたと叫ぶ声もあるが、本当に差別はなくなったと言えるのか。 部落解放同盟S支部の青年部長さんは、資料を前にこのように話されます。

    被差別部落出身の詩人・丸岡忠雄さんのふるさと、山口県H市の『光市保護者意識調査』(1986年)では、部落差別があると考えている人は、市民の80%にのぼります。 そして自分のこどもが被差別部落の人と結婚したいといいだしたとき、親としてどうふるまうかの問いに、積極的に認めるは1.1%に過ぎません。 その場に直面してみなければわからないとの、あいまいさを残した回答を含めると99%の人が、自分のこどもが被差別部落の人と結婚するのに反対しているという結果が出ています。 『洗礼を受けてから』の著者が住んでいたI市の調査では、自分のこどもの結婚に際して相手の身元調査をすると回答した人は68.8%に上ります。

    部落解放同盟S支部の青年部長さんは、部落差別は、この数字よりもっと厳しい状況にあると言います。 行政が実施する、部落差別意識調査は、「恋愛結婚」を対象に設問されていており、その中には、「見合結婚」が含まれていないのだそうです。 日本の婚姻制度の中では、いまでも、「見合結婚」は大きなウエイトを持っています。 出身・家柄、学歴・地位・・・、それらの外的条件で、一人の人間の生涯が左右されるということが、今日の日本社会の中で厳然と存在するのです。 部落差別がなくなったかどうか、それは、「恋愛結婚」ではなく、「見合結婚」の調査を実施してみればすぐに分かる。 「見合結婚」は、身元調査を前提にした婚姻制度であり、この「見合結婚」では、部落出身であるかないかが重要な意味を持っていると言います。 「見合結婚」に際しての「釣書」には、「被差別部落出身」ということばは一言も出てこないといいます。 本当に社会から部落差別がなくなったというらなら、「釣書」に「被差別部落出身」と書かれていたとしても、それでその人を差別「しないで、「おう、被差別部落出身か。 それなら、うちの嫁にしよう」という、一般の側からの親が出てきてもいいではないか。 しかし、差別が歴然とする日本の社会の中では、「そのような光景を想像することすら難しい・・・」、そのように指摘されます。

    日本国憲法第24条は、「婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により維持されなければならない」と規定されています。

    しかし、明治維新以降、天皇制国家を形成する過程で、婚姻制度は、天皇制確立のために重要な機能を担わされます。 天皇制は、「家」に集約され、一家の長は「戸長」として、その家の中で絶大な権力を持ちます。 この「戸長」の了承なくして、誰も結婚できなくなります。  自分の意思で結婚できるようになるためには、婚期が著しく遅れることを覚悟しなければなりませんでした。

    そのような枠組みの中で、「嫁にやる」「嫁にやらない」という発想が強化されました。 自分のむすめは、家を継承・発展させるための道具・手段として、場合によっては、多くの青年がそのための犠牲になってしまいました。 天皇制という枠の中での家制度、婚姻制度は、私たちの意識の中にも深く影を落としています。 私たちが無自覚に考える結婚観の中には、その時代の残滓が残っている場合も多いのです。 なにをもって「結婚」とするか、そのために採用されたのが、「法律婚制度」でした。 行政の窓口に届けることによって、日本の社会の中で、その婚姻が有効になる制度です。

    しかし、江戸時代から、またそれ以前から延々と民衆が続けてきた結婚制度、「事実足る結婚」、二人が一緒に生活をはじめることで結婚が成立するという制度(あるいは風習)は、近代結婚制度の中では否定されることになります。  そこで、民衆の「事実たる結婚」と天皇制国家が強制する「法律婚」制度が、ある場合に抵触するようになります。  抵触の結果生じるさまざまな問題を解決するために、国家は、「事実たる結婚」を一部容認せざるをえず、「準婚」という法概念を作り出しました。

    戦争に敗れて、民法が改正、「新民法」が成立しました。 そして、民主化を実現するために、家制度や結婚制度が見直され、民衆は、そのような封建的な枠組み、戦前の天皇制の枠組みから解放されて、一人一人の人間としての権利保障の観点憲法から、第24条の条文が現実化したのです。 婚姻は、両性の合意に基づいてのみ成立する。 しかし、新民法が施行されたあとも、旧民法が民衆に要求した天皇制的婚姻制度は今も民衆の中に息づいているのではないでしょうか。 新民法の時代に入っても、克服されなかった旧制度が、いまも部落差別の温床になっていると言えます。

    結婚についても、私たちが、社会構造的な枠の中で婚姻制度をとらえないかぎり、天皇制を批判しつつ、人生の重要な部分については考察を欠落させてしまう可能性があります。 反天皇制をどんなに声高にさけんでも、自分の具体的な生き方の中で、天皇制の枠組みの中で強制された婚姻制度を無自覚に受け入れ、天皇制の迎合して生きていく、生き方を貫徹することになります。 

    部落差別をめぐる結婚差別事件は、数多く発生しています。 それらは時々、新聞や雑誌などで報道されますし、ある場合には、その差別事件とその取り組みについて単行本として出版されたりしていますから、部落差別における結婚差別がなになのか、誰でもその実態を知ることができます。 しかし、多くの結婚差別事件は、事件として処理されることなく、被差別部落の側の泣き寝入りで、解決されることなく闇から闇へほうむりさられていきます。

    西中国教区の牧師も、結婚に直面して、部落差別問題に直面することもあるでしょうし、また、信徒の結婚問題において、具体的に部落差別に直面することになるでしょう。 しかし、牧師という立場においては、<牧会>という職務上、もっと、部落差別について基本的な姿勢が要求されるように思います。

    あるとき、部落解放同盟S支部の書記長さんから、ある結婚差別事件の記録を見せていただきました。 〇〇町で結婚差別事件が起こり、解放同盟が調査に入ったのですが、それは結局当事者の意向で事件にはなりませんでした。 しかし、〇〇町での結婚差別事件は、結婚差別事件がいかに残酷な差別であるのかを物語っていました。 それと同時に、キリスト教会がそのような問題に、どのようにかかわらなければならないのか・・・、いろいろな問題提起を内包している事件でした。プライバシーを侵害しない程度に、事件の内容を再構成してみます。

    〇〇町には、昔から被差別部落がありました。  そこに、AさんとBさんが住んでいました。AさんとBさんとは、同じ町内に住むおさななじみで、子供のころよく一緒に遊んだといいます。 Aさんは山口大学教育学部に入学、Bさんは、山口の地を離れ、大阪の大学に進学しました。

    AさんとBさんは、それぞれ大学生活の場所が違っても、交際を続けていましたが、Aさんはあるとき、父親から、「気づいているだろうが、家は部落だ・・・。 ほかに問題はないが、結婚については、部落ということが問題になるから、Bさんとは友達つきあいで終わっておいた方がよい。 結婚となると、悲劇が起こる・・・」と告げられます。

    Aさんは、大学の冬休みにBさんとあったとき、自分が部落出身であることを告げます。  Bさんは、「そういうことは関係ない」とふたりとも結婚を前提に交際を続けていくことを約束します。 そして、卒業後は、ふたりで京都で人生の新しい出発をしようと約束します。 卒業を前にして、AさんとBさんは、それぞれの両親にそのことを告げるのですが、いろいろ問題があって、Aさんひとり京都に旅立つことになります。 しかし、学校の教師をしながらも、Bさんとのやりとりに、次第に不安になってきたAさんは、鬱状態に陥り、勤務をやすみがちになります。 ふたりで新しい人生の出発をと考えていたのが、一人での、屈従と悲しみに満ちた出発に変わってしまったショックがAさんの上に重くのしかかっていたのでしょう。 しかし、Bさんの方は、父親の差別的な対応に疲れ果て、「愛情」も「同情」見失ってしまいます。 Aさんは、「やっぱり、あなたは部落のものと結婚する勇気はないんだ」「おとうさんと同じようにひどい人だ」・・・、Bさんに話したそうです。 その語、Bさんの家に連絡しても、Bさんは不在であるという言葉が返ってきたといいます。あるときAさんは、部落の古老にさそわれて、その人が通っている「キリスト教の集会」に参加したと言います。 差別に傷つき、疲れ果てたこころを癒したかったのでしょう。 しかし、Aさんは、教会関係者から、「Bさんは不在ではなく、家にいる」と聞かされます。 「Bさんとあって話をしたい・・・」とAさんは何度もBさんの家に連絡するのですが、今は不在であるととりついでもらえないのです。 小学校・中学校のPTAの会長を長年してきたBさんの父親のさまざまな圧力で、両家の利害関係を含みながら、二人の間は決定的なものになっていきます。 Aさんは、「このままでは、自分が生きていく力がでない。 忘れるようにと言われるが、納得できない・・・」、そんな思いをもちながら、Bさんとの新しい人生の出発を断念せざるを得ませんでした。

    部落解放運動のない〇〇町で起こったひとつの結婚差別事件でした。 この詳細な経過記録を読みながら、部落解放同盟S支部の書記長さんは、Aさんが訪ねたという<キリスト教の集会>はどこの教会だろうか・・・、と言われました。 部落差別の現実に悩み苦しみ、傷つき倒れんばかりのAさんに、教会はどのような対応をされたのでしょう。 日頃、部落差別と無縁に生きている教会は、その痛みの一端すら、感じることはできなかったのではないでしょうか。 教会は、Aさんの側の情報ではなく、Bさんの側の情報を知り、Aさんに無自覚に対応されたのです。 日本基督教団西中国教区の諸教会の礼拝や集会に、やはり、被差別部落の人々が悩みや苦しみをもって、神の前に立っている・・・、そのことを私たちはきちんと認識しなければならないのではないでしょうか。

    山口の〇〇町で起きたこの結婚差別事件を通して思わされたのは、部落差別が、愛し合っている青年を、生身を引き裂くように引き裂いていく、いかに残酷なものであるかということでした。 部落の側からも、一般の側からも、被差別部落の青年の結婚は問題視され、青年の心に深い傷を残していくことになります。AさんもBさんも、深い傷をいやされることなく、こころに差別という痛みを感じながら、その生涯を過ごすことになるのです。

    私たちは、「嫁にやる」「嫁にやらない」という発想そのものが、封建的な発想であることを知っています。 結婚に際しては、当事者の結婚への意志と会い、誠実さがおもきをなします。 しかし、被差別部落の青年にとっては、そのことが許されず、差別社会から重い十字架を背負わされることになります。 戦後民主化されたと言われて久しい現代日本の社会の中にいまだに存在する、この<差別>意識を、私たちはどのように克服していけばいいのでしょうか。 「その場になってみないとわからない・・・」という発想は、「その場になると、差別する」可能性が高い、ということを意味しているだけで、根本的な解決ではありません。 ただ問題を先送りにするだけです。

    今の私に言えることは、部落差別をめぐる<社会的>差別意識としての結婚差別を克服していく最善の方法は次のようなものです。 部落差別だけではありません。 どのような差別が絡む場合でも、結婚差別を克服する方法は、次のような場合にのみ、正当性を見出すように思います。

    5~6年前、『遠い夜明け』という映画がありました。 ドナルド・ウッズが書いた2冊のドキュメントを再構成して作成された映画です。

    その主人公は、アパルトヘイト反対をさけぶ黒人解放運動家・ピコです。 被差別に置かれた黒人の解放を叫ぶ彼らに、「白人差別主義者」のレッテルが貼られます。 マスコミの悪質な捏造記事に怒りを抱いた新聞記者によって、黒人差別の実態が明らかにされていきます。

    記者はまず病院で、このような言葉を耳にします。 「我々黒人の最大の問題は、白人の差別よりも自分たちの劣等感だ。 黒人も、白人と同じ医師や指導者になる能力を持っている」。

    また、黒人の解放運動家を裁く法廷で、記者はこのような言葉を聞きます。 「忘れないでくれ。 我々は白人の来る前に文化を持っていた。小さな村が方々にいくつもあった。 我々の言葉をご存じなら、<甥>はこのように言う。 <兄弟の息子>と。 テンジ―は、私の妻を<伯母>と呼ばず、<母の姉妹>と呼ぶ。 家族を呼ぶのに特別な言葉はなく、すべて最初は兄弟か姉妹ではじまる。 たすけあう心だ」。

    黒人解放運動が高まっていく中、フットボール場で行われた野外集会(不法集会)では、このように演説がなされるのです。 「我々の怒りは当然だが、忘れてはならない。 我々のさいだいの敵は、ある種の人間が別の人間より優れているという考え方だ。 その考えを殺すことは白人だけの仕事ではない。 白人に頼る習慣を捨てて黒人であることの誇りに目覚めよう。 子供に黒人の歴史を教え、我々の黒人の持つ伝統と文化を教えれば、白人の前での劣等感から解放される。 そして対等の立場で彼らと向かい合う。 闘いをとるなら、手を広げて言おう。我々の住む価値のある南アを建設すると。 白人にも黒人にも、平等の国を。 美しい国土とそこに住む我々のように、美しい南アフリカを」。

    ピコたちは、再びとらえられて法廷に立たされたときも、演説を続けます。 「黒人は苦しい暮らしに耐えています。 政府のでかたも酷い。 苦しみを甘受することはありません。  対決するのです。 人生の苦難に屈服することなく、こんな状況の中でも持つべきです。 明日への希望、自分たちの祖国への希望です。 それが黒人解放運動の訴えているものです。 白人は無関係なのです。 黒人が目覚めて自らの人間性を確立し、地球上に正当な地位を得るのです」。

    しかし、ピコは、不法な裁判でこの世から抹殺されてしまいます。 自分たちの指導者を処刑(リンチ)した白人たちに対する怒りにあふれながらも、ピコの葬儀の中で、このような説教がなされます。 「私は、現体制を憎む。 だが、ピコの詩をいたむ白人の方々は歓迎します。 ピコはこの国の将来を信じ、それを我々に教えられました。 その夢は必ず実現します。 あらゆる者が人間として認められ、神の子として平等とされるとき、その日を待ち、反感を育てる人種の壁が取り除かれ、そこに友情と愛が生まれるときを待ちましょう」。 南アの政府の抑圧と弾圧にもかかわらず、その闘いの名kで、このような差別を乗り越えた希望と展望とが語られる。

    私は、その映画を見ながら、人間解放運動のすばらしさにこころ打たれる思いがしました。 『遠い夜明け』という映画は、人間が人間であることを宣言する、黒人解放運動によって生み出された言葉の結晶の集合体のように思うのです。 どの部分にも、被差別を跳ね返して生きていこうとする人々の誇りと闘いの声に満ちています。

    ピコの惨殺の写真を国外に持ち出すことを決めた二人の新聞記者によって、次のような会話がなされます。

    「ぼくには子供が2人・・。 将来が心配だ。 君ならどうするね。」
    「ぼくも、こどもが。 だが、白人が黒人を支配する時代は終わった。 時代は変わる。」
    「友好に、それとも流血か。」
    「子供たちのために友好を祈る。」
    「ピコみたいな連中と。」
    「それなら最高だ。」

    この会話は、2人の白人の新聞記者によってかわされたものです。 最初、「おや」と思いました。 黒人差別反対を訴えてきたこの2人の新聞記者は、それが自分のことがらとつながるとき、彼らの子供が、例えば黒人と結婚するというようなときに、どうするのか・・・。 この場面で、白人と黒人の結婚の問題が直接論議されているわけでありませんが、遠い将来その可能性がないわけではないことは、言葉の節々にうかがうことができます。 2人の白人の新聞記者が、ふとわれにかえって、自分たちの子供のことを思いながら、自分たちの子供と黒人解放運動のことを考えているのです。 相棒の新聞記者が切り出します。「ピコみたいな連中と」。 すると、もうひとりの新聞記者がこう答えます。 「それなら最高だ」。

    <ピコなら、最高だ・・・>。

    私は、差別をめぐる結婚差別を乗り越える、最善の解決方法はこの言葉にあるのではないかと思います。 黒人として生まれること、それは、黒人が自分でのぞんで生まれてきたことではありません。 ある程度成長することで、はじめて自分が黒人であることに気づかされます。 そして、黒人としての被差別意識を、支配者である白人よりもより劣等な位置にあることを、その教育や生活を通じて意識の底に植え付けられていきます。 ピコをはじめ、黒人解放運動を展開した人たちは、その黒人差別という現実に甘んじるのではなく、その現実を、神の前で確認し、その現実からの打開こそ、神の良しとするところであると、解放運動に邁進して行きます。 人間としての誇りと闘い、「ピコなら最高さ!」という言葉は、差別に負けて、限りなく逃亡を繰り返すみじめな黒人の姿ではなく、同じ差別の状況にありながら、差別と闘い、希望と展望をもって、黒人の人間としての明日をつかもうとする姿に対してささやかれた言葉であると思います。

    部落差別という現実を前にした、<社会的>差別意識の克服も、このような展望の中で解決されるべきものではないでしょうか。

    自分の子供が、ただ、差別に負けて逃亡するしかすべのない、人生とこの世に背を向け恨みにみちた生活しかできない青年と一緒になるというと、部落出身でなくても、そのような青年との結婚にたいしては、親としては、おおきな不安とためらいを持つでしょう。 しかし、自分の置かれた状況、それがどのような状況であったとしても、それを否定することなく、受け入れ、神から与えられた課題として、自分のしあわせだけでなく、被差別民衆のために、部落差別だけでなく、黒人差別、朝鮮人差別、アイヌ差別・・・、いろいろな差別を克服して生きて行こうとする青年に対しては、誰が共感をもたずにおれるでしょうか。

    「嫁にやる」か「やらないか」ではなく、被差別者と差別者が共に見上げることができる、共通の闘い、人間としての誇りと自覚に生きるその姿勢をどのように共有していくかが大切なのではないでしょうか。 どのような差別であっても、その差別から逃亡しないで、共に闘うひとであってほしい・・・、それは、キリスト者の親が、その子供に対して持っているひとつの願いではないでしょうか。 

    イエス・キリストは、福音書の中でこのようにお話しになりました。 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。 あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和でこころのへりくだったものであるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

    イエス・キリストは、「あなたがたの重荷をわたしのまえにおろしなさい・・・」と言われます。 イエス・キリストが言われた本当の意味は、抱えている重荷を捨てるだけでなく、イエス・キリストの愛の故に、一端捨てた重荷を信仰と希望を持って、負い直すことの大切さではないでしょうか。 「わたしもあなたの重荷を負い続けよう。だから、あなたもあなたの重荷を負い続けなさい・・・」、イエス・キリストの言葉には、そのような響きがあると思うのです。 逃亡ではなく闘い、あきらめではなく前進、絶望ではなく希望、そのような文脈の中でしか、私たちは、いろいろな差別を前にして、結婚差別という<社会的>差別意識と克服していく道はないと思うのです。 <寝た子>ではなく<起きて闘う子>にしか、本当の明日はないと思うのです。

第3章第2節 寝た子を起こすな・・・

    第3章 差別意識の諸相
    第2節 寝た子を起こすな・・・

    西中国教区・部落解放セミナーで、また分区や教会の部落差別問題研修会で、この「寝た子を起こすな」という主張は、数限りなく語られてきました。

    この言葉は、教区・分区・教会が、また牧師や信徒が、部落差別問題を避けて通るときの最適な口実として、繰り返し主張されてきまたした。 ある教会の牧師に、部落差別問題の取り組みを促すと、「教会の役員の中には、<寝た子を起こすな>という考えの持ち主が多くて・・・」、教会が部落差別問題と取り組むことは難しいという主張が返ってきます。 それなら、教会の役員の方に、教会で部落差別問題をとりあげるようにすすめますと、「牧師が<寝た子を起こすな>といいますので・・・」と教会内で責任を転嫁されていきます

    <寝た子を起こすな>という<社会的>差別意識は、教区・分区・教会のなかに、そして、牧師や信徒の中に、潜在化したかたちで、この言葉の問題性を検証する必要もないほど自明の理として受けとめられているのではないでしょうか。

    <寝た子を起こすな>という言葉は、そのうしろに、言葉化されない言葉が続いています。 「寝た子を起こすな。部落問題はほおっておけば自然になくなる・・・」、「そのうちに自然になくなるから、<部落の人は>それまでは我慢しなさい・・・」、<寝た子を起こすな>という言葉は、民衆が、差別者の側に立っているという事実を看過させ、そして被差別民衆に対しては、<ことさらこだわらなくても、いつか差別はなくなる>という、「差別の苦しみにあえいでいる被差別者の立場や気持ちを無視した考え(小森哲郎著『部落問題提要』)に裏打ちされています。

    同和対策審議会答申の中でも、「<寝た子を起こすな>式の考えで、同和問題はこのまま放置しておけば社会進化にともない、いつとはなく解消する>という論理には同意できないとの主張がなされています。

    ある行政が作成した同和教育向けのパンフレットには、差別の側から語られる「寝た子を起こすな」という差別意識だけでなく、被差別の側から語られる「寝た子を起こすな」という意識について、このような説明がなされています。

    「同和地区住民の中にはいまだに厳しい差別の現実があり、同和地区出身であることが明らかにされることによって、自由や権利が侵害されるおそれがあるので、<寝た子を起こさないでほしい>という考えがあります」と。 しかし、そのパンフレットは、被差別の側からそのような見解があることを受けとめつつ、「こうした、寝た子を起こすな、知らない子に知らすなという考え方は、部落差別の解消につながらないばかりか、人権意識を眠らせ、かえって差別を助長拡大するような結果を招いている」と指摘、<寝た子を起こすな>という考え方が、同和問題の解決につながらないこと力説しています。 このパンフレットには、このような主張が続きます。 

    「また現実には「寝た子を起こすな」という考え方によって、親が娘に同和地区住民であることを隠し、娘は結婚後もそのことを知らないまま厳しい差別を受け、ひどい手口によって離婚を強いられたという、取り返しのつかない不幸なことおが起きてします。そしてその娘は「良心も学校もそれを教えてくれなかった」と言い、その親は「はじめから部落のことを考えておけばよかった・・・娘にはすまないことをした」と後悔しています。」

    1993年夏の西中国教区の第1回現場研修会で、広島の被差別部落出身の青年は、<寝た子を起こすな>という考えが間違っていることを指摘されたあと、「私たちは、別に自分たちが部落だからといって、そこから逃げるつもりはないし、隠すつもりもない。 今3歳になる子と6カ月になる子もいるが、その子が成長したら、部落の子であること、そして部落民がほこりをもって生き抜いてきたことを教えたい。 自分たちの歴史を隠すのではなく、部落民としての歴史を誇りを持って生きていく姿を子供たちにみせたい」と話されました。

    前述したパンフレットは、1977年に東京都教育委員会が発行した『同和教育をすすめるために』という名前のパンフレットです。 いまから20数年前の文章です。 しかし、具体的に取り上げられた部落差別の事例は、西中国の諸教会が立たされた、広島・山口・島根においても確認されるのです。

    広島で女子高生結婚差別事件が起こったことは、私たちの記憶に新しいことです。 中学校時代の教師から、結婚差別を受けて、女子高校生が17歳の命を奪われた「広島結婚差別自殺事件」のことです。

    女子高校生〇〇さんのおとうさんは、山口の人で、被差別部落出身ではありません。 おかあさんは、広島の被差別部落出身で、結婚したあとは、地区外に住んでいました。 そして、自分のむすめには、母親が部落出身であることを隠していました。 〇〇さんは、部落出身であるという自覚はまったくもっていなかったといいます。 しかし、〇〇さんを好きになって、結婚の相手と選んだ、〇〇さんが中学校時代の教師は、〇〇さんにとっては楽しいデートを身元調査のために利用し、〇〇さんのおかあさんが部落出身であることを知ると自分たちの関係を清算する挙に出たのです。 そのことで深く傷ついた〇〇さんは、自分が降らく出身者であることを知らされることなく、差別の現実に押しつぶされて自害していった・・・、という事件です。

    部落解放同盟の中央本部が「広島結婚差別事件」の全国キャラバンを行なったさい、私も誘われて、部落解放同盟S支部の集会に参加したことがあります。 そのとき、「部落差別は、<血>の問題であると受けとめられている。 父親は部落出身ではないが、母親が部落出身であるということで、中学校教師は、〇〇さんの中にも部落の血が流れているということで、結婚を断念しようとした・・・」との説明がありました。 

    そのときの話し合いの中で、「母親が、娘に部落出身であることを隠していたことは、くやしい。 最初から知っていれば、差別あされても跳ね返すことができたのに。 彼女は、自分がなぜ差別され、抑圧うされているのか、愛する人からさえそのような仕打ちを受けなければならないのか、自覚しないまま、差別に負けて死んでしまった、そのことを考えるとほんとうに悔しい、差別が憎い」という声がありました。

    部落差別は、部落の人が、<寝た子を起こすな>という考えで、そっと生きていきたいと願っていても、差別の方が追いかけてきて、それをあばき、差別し、疎外し、悲惨な結果へと追いやってしまうのです。

    「広島結婚差別事件」の糾弾会において、〇〇さんを死に追いやった中学校教師の考え方、またその背後にいる多くの学校教師の中に、「寝た子を起こすな」という考えがいまだに根強く存在していること、そのことが今回の事件の遠因になっていることが明らかにあsれたと、新聞は報道していました。

    山口県で、社会同和教育に熱心に取り組んでこられた山口県立古文書館の北川健先生は、「<同和>への反言、どうキリカエスか」という文章の中で、「寝た子は起きる」答えたらとよいとすすめています。 <寝た子を起こすな>という主張を黙って見過ごすと、その<社会的>差別意識はますます強化委・助長されます。 それに対して「寝た子は起きる」というアンチテーゼを持ち出して一考を迫るということは、あながた意味がないことではありません。 

    1992年に行われた教団部落解放全国キャラバンにおいても、キャラバン隊の行く先々で、「寝た子を起こすな」という発言が繰り返されました。 キャラバン隊にあって中心的な役割を果たしたT牧師は、日本基督教団が組織的に部落差別問題を取り組みをはじめた1975年以降と、それ以前と大きな違いがあることを認めながらも、<寝た子を起こすな>が支配的な諸教会の状況をあらためて認識せざるをえなかったと言われます。「<寝た子を起こすな>の否定は取り組みの前提であるが、それがまだ諸教会には届いていない」、その現実打開のために、かなりまとまった論述を展開されています。 一度、自分で読まれてみるとよいでしょう。

    T牧師は、教区の諸教会での発言を分析しつぎのような結論を出しています。

    (1) 「寝た子」と言うが、被差別部落の人もそうでない人も、<寝ている>かに見えて実は<寝ていない>。
    (2) 「寝た子を起こすな」との考え方は、部落差別を存在させる社会的根拠を無視している。
    (3) 部落出身を隠すことにより部落差別を温存している。
    (4) 上記の3ついのことから了解されるように、「寝た子を起こすな」は部落差別を無くそうとする取り組みに水を差し、妨害すうrものとなっている」。

    これらの点から<寝た子を起こすな>は間違っており有害である。
    そして、T牧師は、 <寝た子を起こすな>と主張する被差別の側に向けてもこのように語りかけます。 「部落差別が存在するとは、被差別部落が社会的にマイナス視されていることである。 このマイナス視のひどさ、厳しさの中で、自分が被差別部落出身であるのを直視するのはつらく、その現実からできる限り逃れ、寝ていなくても寝ているふりをせずにはおられない。・・・しかし、<痛み>になるからと言って、<寝た子を起こすな>とするのでは問題を隠すだけで、本質的には<痛み>の原因は解消されず、かえって<痛み>が温存される」と指摘されています。 「自身被差別出身を述べて部落差別に正面から向き合っている被差別部落の人も多い・・・」。 T牧師は、被差別の側にある牧師や信徒が、部落解放運動に達があるようお呼びかけています。

    『続・日本のことわざ』(金子武雄著)の中で、「寝ている子をおこす」ということわざにつちえ、このような解釈がなされています。

    「幼児にとっても、
寝た間は仏
であり、黙っていれば、なんの欲望もなくなんの不満もない。その上、
    寝る子は育つ
と言う。 だから寝ているに越したことはない。 しかも起きている子をあやすのは、なかなか容易ではないのである。だから、
    寝る子は賢い親の助け
    寝れば子も楽守も楽
などという。 親にとっても、子が寝ていてくれるほど助かることはない。 ところが、せっかく寝ている子を起こすとしたらどうだろう。 子にとっても守りにとっても迷惑なことだろう。
    同じように、せっかくおさまっている事をつついて、面倒なことをすることを、「寝ている子を起こす」と言うのである。
    「寝ている子」を、過ってうっかり起こしてしまうということもあるであろう。 しかし、またわざと起こすということもある。 けれども、そのために、その事関係にのある当人も、あるいははたのものも、迷惑を蒙ることになるのである。 だから、「寝た子を起こすな」は、当然、そういう人を非難することばとして用いられる。
    もちろん、これは事なかれと願う心に立脚している。「寝た子を起こすな」ことが本当に無益であり、あるいは有害であるならばそっとしておくのがよいに決まっている。 けれどもたとい一時は「子」がその平安を破られようとも、その犠牲を償って余りあるほどの大きな幸福がえられるような場合だってある。 そんな場合には、はたの者の迷惑などには遠慮せず、起こしてやるのが親切というものである。 これを非難すrのは、自分の利益のためでしかないのである。 起こしてやってよい「寝ている子」が世界にも日本にもいくらでもいるようだ。>

    この文章は、部落差別に関する文章ではありません。 しかし、部落差別問題の文脈で語られる<寝た子を起こすな>という言葉を、本来に意味に立ち返って考えてみるときに、よき参考になります。  この文章を書いた金子さんは、最後で、<寝た子 を起こすな>という言葉は、「自分の利益のため」になされる主張であると語っています。 差別する側が<寝た子を起こすな>と主張するとき、どのような利益を念頭においているのでしょうか。 また、被差別の側が、<寝た子を起こすな>と主張するとき、どのような利益を守ろうとしているのでしょうか。 教団の部落解放センターの課題として、教団・教区・分区・教会の中の、<寝た子を起こす>営みを今後も更に展開していってほしいと思います。 また、西中国教区の部落差別問題特別委員会の課題としても、教区・分区・教会の中から、この「寝た子を起こすな」という<社会的>差別意識を取り除く努力をしていただきたいと思います。

目次

 『部落差別から自分を問う』の目次 はじめに 第1章 部落差別を語る  1. 部落差別とはなにか  2. 部落<差別>とはなにか  3. 部落差別はなくなったか  4. 部落の呼称  5. 認識不足からくる差別文書  6. 部落の人々にとってのふるさと 第2章 差別意識を克服する...